第33話

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第33話

『話がしたい』と言った。『電話ではだめだ』と言うから私は部屋を出た。マンションの前には、白のセダンが停まっている。  緊張しないわけにはいかなかった。私はこの男を脅した。それで救われた者はきっとこの街に多数いたけれど、混乱はまだ続いている。この男も、おそらくそれまでの日々を失ったに違いない。  恨まれているのかもしれない。けれど私は感謝もしている。求めに応じないわけにはいかなかった。助手席に乗り込んだ私を一瞥もせずに、男はアクセルを踏んだ。  車は市街地を抜け海へと向かっている。流れる景色にあの強烈な吐き気を思い出した私は、「どこへ行くの」とやっとそれだけを口にする。 「――海だよ。大丈夫、あいつは、逮捕したから」 「あいつ?」  訊き返しながら、私は京介がいつものスーツ姿でないことに気付いた。黒のダウンジャケットに下はGパンをはいている。髪はいつものようにくしゃくしゃだった。表情は……緩い笑みが浮かんでいるのだろうか。 「ああ。羽島康之(はしまやすゆき)。君を暴行したんだろう? 首に絞められた痕があったな。他にも余罪はたっぷりあったから簡単にしょっ引けた。防犯カメラに君のいた部屋に押し入った画像が残ってた。もう忘れろ。君のことは事件化しないよ。それでも、あいつはちゃんと裁かれる」 「そう……」  それだけ言うとまた車内には沈黙が訪れた。車は走る。海へ。埠頭。夜行のフェリーが停泊しているのが見える、港の端。  静かにブレーキが効いてセダンは停まった。右奥にそこだけシャンデリアのように明るい三階建てのフェリーが停泊している。私はぼんやりと思った。遠くの都会まで夜通しで進むその船が乗せているのは、本当に希望だけなのだろうか。 「……綺麗だな」  ハンドルに片手をかけ、京介が口を開いた。前髪の下の眼には輝く美しい船が映っている。夢見るような口調で、まるでひとり言のように京介は続けた。 「暗い世界に落ちてきた女がいたんだ。育ちがいい女だった。俺はその頃憎んでた親と同じ道を歩いてた。目の前に落ちてきた女はなぜか俺にしがみついた。社会的地位のある父親に明るい場所まで引き上げられた女は、それでも俺を離さなかった。それで俺は刑事になった。辛かったのは警察学校での十ヵ月だけ。何もかもお膳立てされて不始末も綺麗に消された。初めて人に守られた。おかしな、おかしな方法でな」  過去を語ろうとしているのだとわかった。いや、これでもうすべてを語りつくしたのか。私の過去を知っているこの男は自分のそれを明かして、そして未来を口にする。 「全部終わったよ。辞表が受理された。離婚届けも出した。金はすべて差し出したから俺の罪は消え去った。あいつは半狂乱になって暴れたけど父親が許さなかった。俺はただの『俺』になった。何もない。この車さえ明日には他人のものだ」 「……警察を、辞めたの? だって今色んな風俗店に警察が入ってるって。それはあなたが仕向けたことで、それで救われた子もたくさんいて……」 「事件化できることは全部おおっぴらにしてきた。新聞社が入れば最後まで事実は暴かれるだろう。もう俺は必要ない。俺に人を裁く権利はない。俺は元の俺に戻って、だから、最後にしなきゃいけないことをしてきたんだ」  京介の手が、ダッシュボードに触れる。開いて、取り出したのは薄く簡素な茶封筒。 「これは、君のものだ。君が破って捨ててくれ。たった今から君は、自由」  ――中には一枚の書類。私の地獄の始まりとなったその紙切れには私の名。一番初めに書かれている文字は、『借用書』。 「色々と悪どいことをやっていた業者だった。こういう相手は俺の得意分野だ。簡単に降参した。さあ、破って」 「えっ、だって! ママがいるわ。私が払うのをやめたらママが酷い目にあわされて、そうなったら私たち、もう二度と会うこともできなくなって……!」 「聞いてくれみさき……愛。愛、落ち着いて」  京介は白い顔をして痛みに耐えているようだった。ハンドルを握る手が、小刻みに震えているのがわかった。 「お母さんはね、二年前に死んでいたよ。踏切事故で処理されていた。事故扱いで保険が下りてた。受取人は業者だ。もう君は、自由になっていい」  記憶が途切れた。目が覚めると周囲は朝焼けで私は倒されたシートに横になっていた。私の身体には黒いダウンがかけられていて、となりの運転席には同じように横になっている京介。柔らかい髪のすきま、額には大きな十字架がのぞいている。  右奥に停泊していたあの美しいシャンデリアはもういなかった。希望だけを詰め込んだあの船に乗って光り輝く新世界に向かおうと決めて、私はとなりで眠る京介に「起きて」と声をかけた。
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