第5話

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第5話

 夕方六時きっかりに、ベッドの下に放りこんでいるケータイのバイブが低い唸りを上げた。やっと最後の客を見送ったところだった私は、その音を無視してベッドに倒れこんだ。  本当は五時で上がる予定にしていたのだけれど、間にとった休憩や延長のせいで遅くなった。私は疲れ切っていた。電話は雅からだろうか。「どこにいるんだ」と追求されると面倒だから、出る気が起きなかった。  棚の煙草ケースに手を伸ばしてカプリに火をつける。ベッドで横になってゆっくり一本吸った。身体が芯からしびれている。手先が震えて、ここでの制服であるシルクのシャツに灰が落ちた。少し焦げになったかもしれないけど、もうどうでもいい。  吸いながら今日来た客のことを思い出す。ひとり、変わった男がいたのだ。  年齢は三十代半ば。百八十センチぐらいの長身で、一応スーツを着ていたけどだいぶよれていた。顔は無精ひげで、少しカールした髪は明らかに切り時をだいぶ過ぎていて目元を全部隠していた。  そしてその長い前髪に隠された目が、やけにぎらついていたのだ。こんな所に来る男の目は大抵ぎらついているものだけど、その男は根本が違うように見えた。  そのぎらつきに、性的なものが含まれていなかったのだ。周囲を圧倒することを前提に生まれてきているような、野生の肉食動物のような目をしていた。端正に整った顔立ちも相まって、クロヒョウを連想させた。この男は愛想笑いや謙遜なんか一生せずに人生を終えるのだろうと思った。こういう人がこんな店に来ることが、おかしいことのように思えてしまうほどだった。  やくざかとも思ったけれど、刺青も指の欠損もなかった。男は私のリードに身を任せて時間を過ごしながら、ぽつぽつと私について質問してきた。年齢や出身、趣味は何で休日は何をしているのか。言いなれた『みさきちゃん設定集』に従って適当に答える私に、けれど男はこう言ったのだ。 「趣味、ゲームなんてほんとかな。君は賢い子みたいだけど、うそをつくのは下手くそらしいね」  それからなんとなく最近の政治や社会に関する話になった。私は基本的にテレビをあまり見ない。でもニュースに目を通すことは子供の頃からの習慣だから、大概の話にはついていけた。十勝沖地震のことや中東情勢のこと。中東情勢について訊かれた答えに、男の鋭い眼光が丸みを帯びた。そして、こんなことを言った。 「君は優しい人間なんだな。だけど世間を知らな過ぎだ。気をつけろよ。そういう人間を喰いものにする悪人は、世界中どこにだっているもんだ」  私はその時男の問いに、こう答えたのだ。 「何を信じていてもどこの国に属していても、人間なんてみんな遡ればアダムとイブでしかないのにね。自分のおばあさんや子供は大切なのに、地球の裏側にいる人は赤の他人だってどうして言えるのか、私にはわからないわ」  それから男は急に私を組み敷いて身体をまさぐってきた。ローションでぬるぬるになってマットの上で何度もすべって転がる。それでも「やられっぱなしなんて嫌なんだよ」と抵抗する男を、最終的には素股で二回イカせてやった。時間六十分ちょうどで、男は「また来るよ」と言って帰っていった。  変な客だった。少なくとも三年の風俗経験の中では初めて見た人種だった。普通ここに客はファンタジーを求めてやってくる。でも男が私に求めたのは『現実』だった。  まあ世の中いろんな人間がいるから、いちいち考えていたらキリがないとも思う。そんな人種もいるのだろう。大体月曜の昼間からヘルスに来るような男に常識が通用するはずがない。  カプリを消すとベッドの下のカゴに手を伸ばす。着替えよう。タクシーでコンビニに寄って、お弁当とハーゲンダッツを買おう。今日も頑張った自分を甘やかしてあげよう……。  安いプラカゴの中で、ケータイが着信を示す明かりを点滅をさせていた。思わず手にして開くとなんと電話が六回も鳴っていた。すべて雅からだ。一番最初が十二時。シャワーを浴びていたらバイブになんか気付かない。そもそも出られるわけがない。私は、少し面倒なことになったなと暗い気持ちになる。  気を許しすぎてしまったのかもしれない。ついこの間ももめにもめてやっと別れ話が成立したところだったのに。相手はやっぱりパチンコ屋でナンパしてきた男。  半年付き合ったけれど束縛のひどい男だった。仕事を辞めさせようとして実力行使にまで出たから、最終的には店長に相談して虎の威を借りた。効果は抜群で、悠一(ゆういち)はその後一切私に連絡をよこさないしホールで見かけることもなくなった。  今回もそんなことになるのだろうか。なるべくなら店長の助けは借りたくない。借りたものは返さなければならないのがこの世の常識だから、私はあの時も一晩中電マとピストルみたいな形のバイブで泣かされることになったのだ。店長の変態ぶりに付き合うのは、一日中フルに客をとる何倍も体力的に辛い。  だから私は、声をかけてくる男に慎重になるべきだった。普段は無視していたのに昨日はできなかった。雅の人懐こさに。以前から不思議だった、孝太郎の纏う場違いな雰囲気に。  そして本当は、知っているのだ。その誘いを断るすべなど、私は持ち合わせていないという事実。  身体がつながる男を切らす。それは私にとって、この世とつながる細い糸を見失うに等しい絶望なのだということを。
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