第7話

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第7話

 翌朝の私たちは手をつないで喫茶店を訪れた。私の住むマンションのとなりに、五十年はやってるんじゃないかと思うような古びた喫茶店がある。そこのトーストはとても美味しいと雅が言うから、じゃあ朝食はそこにしようということになったのだった。   なるほどトーストは美味しかった。厚切りでバターの溶けた表面はカリっとしているのに、中は真綿のようにふんわりしている。コーヒーも本格的すぎなくて美味しかった。私は小難しい講釈を読まされた末に提供される、酸味がやたら強いコーヒーが嫌いだった。ついこの間まで子供だった私には、コーヒー牛乳を少しだけ大人にしたようなミルク入りのアメリカンがぴったりなのだ。  あっという間に自分の分を平らげた雅は、トーストをほおばる私をニコニコしながらながめている。 「このね、ゆで卵がまた絶品なんだよ。中心がちょっとだけ半熟なの。ほんのちょびっとだけとろっとしてる。ちょうどいい具合に塩かけてあげるね。これにもコツがあるんだよ」  部屋の掃除は、雅がした。早朝から掃除機を出してきて鼻歌を歌いながらかけていた。私はその音で目を覚ました。雅はTシャツとボクサーパンツといういで立ちで、寒そうだったけれど楽しそうに掃除機を振り回していた。掃除機の排気に舞い上がる羽根を、空中で吸いこもうとしていたのだった。  無邪気な男だ、と思った。無邪気で、変な男。そもそも私は雅のことを何も知らない。昼間っからパチンコ屋に入り浸っているから無職なのかと思いきや、今目の前の雅はスーツを着てコートを羽織っている。でもいわゆる勤め人の雰囲気は出ていない。なんと言ってもシャツがピンクだ。おそらく雅は、水商売かソーマがしているような仕事をしているのだろう。  連れの孝太郎は、板前だと言っていた。だから同じような夜の時間帯で働いているに違いない。私も週五は夜出勤にしている。だから昼間よく見かけて日曜は夜まで打っていたというわけか。お酒を出すような夜の街は、大体日曜日が定休日と相場が決まっている。  仕事は何なのか、訊いてみてもいい。でも訊けば必ず訊き返される。悠一の二の舞になるのはごめんだった。私は素直に、雅が剥いて塩を振ってくれたゆで卵を口にした。  ゆで卵は本当に絶妙のゆで加減だった。たかだか卵ひとつで人をこんなに幸せにすることができるものなのかと、私は目の前の男の笑顔を見ながらじんわりと感動すらしてしまったのだった。  それから朝イチのホールに向かった。冬の快晴の中、開店待ちの列に並びながら、昨日例の北斗が爆裂したのだと雅は言った。 「四時ぐらいまでしか打てなかったんだけど、十八万出ました! 間で波はあったけど、多分設定五だったんじゃないかなあ。小約カウントしてたんだけど途中でめんどくなってやめちゃった。良かったよお、これで俺、今月の家賃どうにかなりそう!」  ……それは良かった。私も嬉しい。私が突っこんだ七万は倍にもなって雅の懐を潤した。私が入れたお金が直接雅のものになったわけではないけれど、なぜか一抹の理不尽を感じるのは私が人間として小物だということなのだろうか。 「あ、もちろん愛ちゃんにもいろいろ還元するからね。とりあえずしばらくなんでもおごるから。めぼしい台も当たりつけといたから今日は愛ちゃんが勝って。……あ」  駐車場からぱらぱらとこちらに向かってくる数人の中に、雅は知り合いを見つけたようだった。軽く手をあげると白いジャージの上下を着た男が反応して同じように手をあげた。私も知っている男。確か名前は『ハシマ』といった。年齢は多分三十代の後半くらい。  日に当たらない生活をしているのか肌は真っ白で、背が高くよく太っている。顔にはあばたがあり狐を連想させる細い目は、いつも意味なく笑っているように見えた。正業を営んでいる雰囲気は、当然ながらこれっぽっちも持ち合わせていない。  ハシマはこのパチンコ屋の主のような男で、三百六十五日開店から閉店までずっとスロットコーナーを行ったり来たりしている。打っている姿を見かける方がめずらしい。この男はギャンブルをしにホールに来るのではない。行ったり来たりして、スロットを打ち慣れていない客の目押しをしてやるのがこの男の主たる仕事なのだ。  仕事なんて言い方をするとそれが職業としてまかり通っていそうに聞こえるけれど、もちろんそんなことは仕事にはならない。この男はそうやって不慣れな客に恩を売って、コーヒーや煙草を差し入れられることを至福の喜びとしているらしい。一円にもならないけれど、実家が地主だとかで働く必要がないからそうやって日々の退屈をしのいでいるのだと、付き合っていた頃に悠一が言っていた。  雅とハシマは知り合いなのか。これは少し、面倒なことになりそうな気がする……。 「お。なんだよみーくん。彼女ゲットしちゃったの? あらま、うちのホールの女神じゃない。手え早えなあ。女神がフリーになったってうわさ聞いたと思ったら、あっという間に捕獲済みかよ。さすが、『コマシの雅』の名は廃れてねえな」 「やだなあシマさん。妙な異名出さないでくださいよ。俺今純愛してるんすから。女神は地上に降りて俺のものになったんです。そのあたり、声を大にして言いふらしといてくださいよね」  くさいセリフにハシマは笑った。私の顔を覗きこむようにして見ながら「ま、気をつけろよな」と意味ありげにささやいた。  ハシマは列の最後尾へと向かう。その後ろ姿を見ながら、「あの人、夜の街でも顔なんだ。どの店にもボトルおいてある。悪い人じゃないから、怖がらなくても大丈夫だよ」と雅は私にこっそり耳打ちをした。  私は別にハシマが怖いだなんて思わない。うちの店の店長に比べれば、あんな男は屁みたいなものだ。ただ、面倒なことが起きかねない予感を憶えていた。  ハシマと悠一は飲み仲間だった。ホールで顔を合わせて話しかけられることはなかったけれど、確実にハシマは私と悠一の仲を知っている。 「お、開店。愛ちゃん、今日の北斗の狙い目は、シマ端の312番台だよっ」  その時列が動き始めて、私は雅に促されるまま312番台に座った。開店から台が始動するまでには若干のタイムラグがある。静かな店内。ギャンブラーたちがお目当ての台に腰をおろして一服する時間。嵐の前の静けさだ。  私もカプリに火をつける。となりのとなりの台の雅が、「さあ勝つよっ」と天真爛漫に声をかけてくる。  そう、勝負だ。私は軽く笑顔を返す。サンドに千円札を入れてコインが落ちてくる音を聞きながら思った。  ハシマは「気をつけろよな」と言った。それは私と雅のどちらに向けられた言葉だったのだろうか。
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