第1話

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第1話

 窓の外には粉雪が舞っていた。  私はホットカーペットの上でアイロンをかけていた。視界の端、ベランダに動く何かを感じて目を上げると、そこで踊っていたのは細かい粒のような粉雪。  そう言えば今日は最高気温が氷点下だと天気予報が言っていた。部屋の中はこうして暖かいけれど、仕事に出た夫と七歳になる息子の翔太(しょうた)は寒い思いをしているだろう。朝、出がけ前にふたりの背中を並べて、おんなじように肩甲骨の真ん中にカイロを貼ってやったけれど、この天気では大して効果を発揮していないに違いない。  ここ東京では珍しくないけれど、十数年前、地方に住んでいた時は雪なんてほとんど目にすることはなかった。縦に長い日本の南の方に位置したあの街は冬でも温暖で、気温が氷点下に達することも珍しかった。雪というのはわざわざ足を運んで見に行くもので、私は日常の中で積雪はおろか降雪すら見た記憶がない。いや……一度あったか。そう、あれは十六年前の出来事。あの日降っていたのは、もっと大粒のぼた雪だったけれど。  遠く離れたこの地でも、雪が降るたび思い出す。もう思い出す必要もない、遠い昔の冬のできごと。  愚かな私が翻弄された、あの事件。  夫と出会うきっかけにもなった。若く世間知らずだった私が必死に向き合い、初めて他人の『愛』を信じた。  狂おしいほどに哀しい、あの事件。      *     *  どごっ、と鈍い音がして右どなりに目をやると、ケンシロウとラオウの間に拳が突き刺さっていた。  パネルが割れたのだ。中を開けたことがあるから、これが薄いプラスチックの板であることは知っている。知ってはいたけどこんなに簡単に割れるなんて思わなかった。私は右手に火のついたカプリを挟んだまま、となりの荒ぶる男から逆方向に重心をずらして息をひそめた。 「お、お、お客さま、困ります! 乱暴な行為をされては! あーあ、パネル割れちゃってる……」  あわてて飛んできた店員がドル箱片手に頭を抱えた。そのまま襟元の小さなマイクを引き寄せると、なにごとかを早口でつぶやいた。応援を呼んだのだろう。けれど怒りを暴発させたパネルぶち割り男は、その店員の胸ぐらをつかむと大声で騒ぎ始めた。 「天井までつっこんだのに『バトルボーナス』三連ってどーゆーことだよ! もう六万も入れてんだぞ! 借金もかさんでんのに、今月の家賃払えねえじゃねえかよ!」 「だからってパネルぶち割っていいってことにはなんないでしょう! 暴力は即通報って入り口にも貼ってあるでしょうが! ……あ、店長、見て下さいよこれ。割れちゃってるんすよ。しかも俺、殴られちゃう……!」  現れたのはスーツ姿の強面店長。借金取りさながらの迫力。ぶち割り男はひるんで店員を解放する。けれど店長は男の作業服の二の腕をぐっと掴んで引きずるようにして連行しながら、固唾を飲んで見守る我々シマの住人に笑顔を振りまきこんなことを言うのだ。 「いや、お騒がせしました。どうぞそのままご遊戯をお続け下さい。おいたをしたぼくちゃんには、しっかりとお仕置きをしておきますのでね」  おおー、と謎の歓声が上がる『北斗』のシマ。ほぼ満席のスロット台に、また効果音やざわめきが戻ってくる。私もこわばった身体を解凍させBETを押してレバーを叩く。指に挟んでいたカプリから細い灰が崩れてフロアに落ちる。  リールが回ると同時に予告音がして、液晶の中のバットが転んだ。ほんの少しの期待を抱くけれど、結局転がるのは白い缶だ。私の台も、このままいけば天井までハマってしまってもおかしくない。 「……バトルボーナス三連てね。自分の引きが弱いだけじゃん。すごいのいたね。びっくりしたでしょ」  その時空いた私の右どなりの席に、するっと腰を下ろす者がいた。割れて散らばったプラスチックの破片を臆することなく踏みしめている。かわいそうな筐体に肘をかけて、やけに親しげな口調でこう続ける。 「ケンちゃんにはなんの落ち度もないのにねえ。今ごろ事務所でこってり絞られてるんだろうな。ここの店長って結構マジなやくざもんなんだって。あいつ、生きて帰ってこられればいいけど」  ――ナンパか。  ちらりと横目で一瞥してから、私は小さくため息をつく。 「ホント、ばかよね。ぶん殴って勝てるんなら、私だってスロット台しばき倒してるわ」  灰皿にカプリを押し付けてから、精算ボタンを押してコインを排出する。女がひとりでパチンコ屋に出入りしていると、よくこういう具合に声をかけられる。  その頻度はかなりのものだから、いちいち相手はしない。面倒だから声をかけられたらその場を離れることにしている。もちろん出まくっているときにはそんなことはしない。消化するまでガン無視だ。  今は六百回ハマっている。時間は夜の八時。もうこの台をこれ以上追いかけても、いいことはなにひとつありそうにない。  夕飯時だというのに空腹などどこ吹く風で、シマは音と光の濁流に沸き立っている。稼働してまだ一ヶ月半の『北斗の拳』は、今や押しも押されもせぬホールの顔となっていた。  その鉄火場さながらに華やかなシマを、私はバッグ片手に足早に進む。あっちもこっちもドル箱にコインが山盛りに突き刺さっている。木の葉積みというやつだ。今日はこのシマだけでおそらく万枚が三台出ている。私はていのいい養分というわけか。 「あ、ま、待ってよ。晩メシ一緒に食わない? おごるからさ。焼肉? 寿司? なんでも食いたいもの言って」 「……結構です。別におなかもすいてないんで。勝った人はいいわね余裕があって。私、イラついてるの」  驚いたことに、男は追いすがってきていた。私が肩にかけたトートバックの取っ手に手をかけている。にべもない拒絶をしたはずなのに、その背の高いやけに陽気な男は嬉しげに声を弾ませた。 「えっ、やだなあ俺もボロ負けだよ? どこ座ってもこれっぽっちも出なくてさあ。それこそもう今月の家賃も払えそうにないや。君も結構突っこんでたよね。四万? 五万? さすがに六万ってことはないよねえ」  敗者はみじめに下を向いて去るしかないこのパチンコ屋という戦場で、負けたにもかかわらず満面の笑みを浮かべているこの男に、私は正直驚いた。しかも身体には触れないまでも、私のバッグを掴んでいる。強盗でもするつもりだろうか。でもここはまだパチンコ屋の店内だし、私の財布にはもう三千円しか残金は入ってない。 「君も晩ごはんさみしくなりそうなんでしょ? だーいじょーぶ。おいしいもの食べさせてあげるから。うそじゃないよ。ほら見て。アレ、俺の連れ」  男が指さした先は『猪木』のシマ。シマ端にお祭り騒ぎの台がある。足元にまで積まれたドル箱は全部で……十箱?   平積みだからひと箱で二万か。十箱で二十万。……万枚、達成だ。 「もうしんどいからやめるっていうんだ。俺があと打ってもいいんだけどさ。君とごはん食べる方が楽しそうだなって。ほんとはお腹ペコペコでしょ? 資金はあるから安心して。俺ら、いい子だよ?」  そこまで言われて、私はやっと自分の空腹を思い出した。朝からなんにも食べてない。炭酸のビタミンC飲料でごまかしていた空腹が、一気に津波のようになって押し寄せる。 「……じゃあ、いいけど。あなたたち、いくつ? あとふたりなの? あとから誰か出てきたり、しないでしょうね」  トートにかかる手を振り払う。下から突き上げる私の視線に、ナンパ男はにかっと犬のような笑顔を浮かべて言った。 「二十二だよ。いい大人だから大丈夫。ガキみたいに急に襲い掛かったりしないから。大体見てよあいつ。真面目を絵に描いたような角刈り坊ちゃん。職業板前。絶対危なくなんか、ないからさ」  確かにシマ端の男は見るからに真面目そうなタイプだ。今私に声をかけている男ならいざ知らず、こちらはパチンコ屋でナンパした女をどうこうしようなんていう考えは微塵も持っていないに違いない。  ……なら、大丈夫か。私は少し考えてから、ナンパ男にオーダーを出した。 「朝からなにも、食べてないの。胃が痛い。だから、もつ鍋がいい……」
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