第12話

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第12話

「……見っけ。意外にわかりやすいとこにいるんだな。勝ってるか? ……て愚問か。こりゃどー見ても、ボロ負けみたいだな……」  すぐ後ろでそんな声がして、私は顔を上げた。知っている声だけれど、まさかここでこの声を聞くことになるとは思わなかった。  そこに立っていたのは、京介。いつも通りのよれたスーツを着ていた。私はとっさに『みさき』の仮面をかぶることができず、口を開くことすらできなかった。 「例のあいつは……いないのか。ん? なんでいない? 毎日ここに出没するって聞いたんだがな。茶髪のデカいやんちゃ坊主。久々にお灸でも据えてやろうと思ったんだが、いないんじゃしょうがない。来い。どうせこの台は、どれだけ打ったって出やしない」  この長さを指定して切り揃えているんじゃないかと思うぐらいにいつもどおりの伸びきった髪が、私の鼻先まで下りてきたかと思うとすっと元通りに離れた。コイン排出ボタンを押した京介の片手には、足元にあった私のトートバッグが握られている。 「えっ、ちょっ……! 待って、やだ、困る……!」 「ちょっと話そう。別にとって食うわけじゃない。どこかに連れて行くつもりもない。そこの自販機の前の休憩コーナーで十分だ。コーヒー程度だが、おごるよ」  そのまま私のバッグを人質にして北斗のシマをずんずん進んでいく。一瞬のうちに混乱が私を支配した。京介の背中を追いかけ、私も北斗のシマを出る。  今日も満席だった北斗にはひとつ空席ができていた。それは朝から雅が座っていた台だったはずなのに、無邪気な笑顔はそこになくなっていた。 「……外では、そういう感じなんだな」   青の缶のコーヒーを私に渡しながら、京介が口を開いた。休憩コーナーには簡単なテーブルとイスがいくつか並ぶ。パチンコ屋の片隅、フードコートの客席のようでそれよりずっと簡単なその空間にまで来ると、ホールの喧騒はだいぶ和らいだ。 「そういう感じって?」  私は自分でも驚くほど、つっけんどんな態度をとった。客にこんな態度をとったのは初めてだった。だってここはパチンコ屋だし、こんな状況だって初めてだったから。  私が京介に愛想を振りまくのは、京介が私に金を払った時だけでいいはずだ。京介は客。私は風俗嬢。  外で会った時まで私に風俗嬢を求めようと言うのだろうか。図々しい。私はボランティアで客の機嫌をとるつもりはない。そもそもプライベートを暴こうだなんて趣味が悪い。雅のことを知っているらしい口ぶりのこの男は、一体どういうつもりで私に何を言おうというのだろうか。 「怒るなよ。怒った顔も可愛いけど。怒らせたくて来たんじゃないんだ。ちょっと気になることがあって、挨拶がわりに顔出しただけ」 「……気になること? なに? もしかして雅のこと? 私がここに出入りしてるなんて一度だって言ったことなかったのに。まさか私を、尾けたの……?」 「……『みやび』か。ホントにあいつと、付き合ってるんだな……」  京介はスーツの胸ポケットからキャビンを取り出すと火をつけた。無精ひげの口元から細い煙が勢いよく吹き出す。その表情は物憂げだった。長い前髪に隠された目に憐れみが映っていたような気がして、視線がぶつかると私は瞬間的に手の中のコーヒーを握りしめた。  またこの目だ。ついこの間孝太郎もこんな目をした。なぜだかわからないけれど屈辱的だと思った。京介は今、確実に私のことを憐れんでいる。  ふいに京介の細い指が私の手から缶コーヒーを奪った。いつだったか私を膝に抱えた時のように、子供に対するかのような口調で言った。 「開けてやるよ。綺麗な爪が割れちゃいけないもんな。エメマンで良かったか?」 「ちゃんと答えてよ。どうして雅のこと知ってるの? 私のこと尾け回したの? そんなことされたらどんな気持ちになるかわからない? 私、あなたのこといい人だと思ってたのに」 「……『いい人』か。その感覚は微妙だな。俺は独善的な偽善者だ。だから君の過去が気になってしょうがない」 「私の、過去が……?」  ぱきっと音をさせて、開く缶。差し出されたそれを受け取って顔を上げると、京介は眉根を引き絞るようにしてかすかに、微笑んでいた。 「そう。君が置かれている状況、と言った方がいいか。切れる頭を持ってたはずだ。感情豊かで慈悲と愛とを知ってたはずだ。なにがあったのか、調べた。別に同情するつもりはないが」 「……調べたの? 私を? どうして。どうやってそんな、なんの権利があって!」 「権利なんかは、ないけど」  京介がキャビンを灰皿に押しつける。独特の香りに吐き気がした。それを押し殺して、全身のすべての嫌悪を総動員してこの目の前の男を睨みつけた。  私を調べた? 私ですら忘れようとしている私の過去を? 訊いてわからなかったから調べたって? それが私にどんな感情を湧き起こらせるのか、この男にはわからないのだろうか……! 「そんなに怒るなって。俺、本気で君が好きなんだよ。全部知って、それでも好きだ。だからあいつに会いに来た。あいつは俺から、脱兎の如く逃げちまったみたいだけどな」 「勝手な言い分ね。悪いけど、私はあなたを好きじゃない。雅があなたから逃げたって? どうして雅があなたの顔を見て逃げなきゃいけないのよ!」 「習性かな。さっきまでいたんだろ? それでいなくなったんなら、逃げたってことさ。心当たりがあるんだろう。界隈では有名な、やんちゃ坊主だったからな」  くす、と笑うと京介の視線が私から外れる。光と音と狂乱のホールへと遠く視線を投げる。  私は怒りに震えていた。それと同時に混乱もしていた。この状況を整理するには時間が必要だった。  雅が京介から逃げた? 雅も京介を知っている? それは何を意味するんだろう。偶然ふたりは知り合いだったということだろうか。でもただの知り合いなら逃げる必要なんてない。逃げなければいけない関係性なんて、そうそうあるものじゃない。  訊いてみようか、京介のこと。仕事は何をしているのか。私の過去を調べられるこの男。訊けばわかるかもしれない。雅が京介から逃げた訳が。  でもそれは知らなくていいことであるような気もする。私は今、現状に満足している。雅の腕の中で盲目的に過ごす毎日に。  本当は、私の『所有者』である雅のことを私は何も知らない。家も、仕事も、子供の頃の話も、孝太郎以外にどんな人間と付き合いがあるのかということも。  雅は話そうとしない。私も知りたくなんかない。知れば何かが変わってしまうような気がするから。知らないまま終われば幸せだと思ったから。私らしい死に方で幸せな復讐が完結する。もしかしたら私は、そこが雅と私の終着点であってほしいと願っているのだろうか。  ――そこまで考えて、なるほど、と腑に落ちた。確かに私は痛々しく、憐れみをかけられても仕方のない人間なのかもしれない。  客観的に見るまでもなく、思考が不健康だ。でもそんなのは私の勝手。健康を求められる筋合いはないし、ましてやかわいそうがってくれなんて頼んだ覚えは一ミリだってない。  簡単に心をのぞかれてしまう私はまだまだ弱い。そこに踏み込んでこようとする京介は無礼で傍若無人。どう対応するのか、私の心は決まった。 「あなたがどういう人か、私にはわからないけど」  コーヒーには口をつけず、私は立ち上がる。 「誰と付き合うかは、自分で決めるわ。雅が仲良くしたくない人とは私も仲良くしたくない。私は雅のもの。だからもう、放っといて」 「はっきり言うんだな。あいつがどんな男か知ってるのか? 君を到底幸せにしない。それがわからない君じゃないはずだろう」 「知らないわ。雅のことなんか」  京介の傍らのトートを取り返す。その憐れみで私を見下す目を、力いっぱい睨みつけて言った。 「雅のことなんか、私は何ひとつ知らない」 「待てよ」と言って駐車場で京介は私の腕を掴んだ。「放して」と言いながらバッグを振り回したけどだめだった。京介の力は強い。そして誰も助けてくれない。 「君の言い分はわかった。なかなかの頑固者ってわけだ。それはそれで構わない。でも気をつけろ。五十嵐雅は危険だ。俺は君が傷つけられるのをみすみす見過ごすわけにはいかないんだ」 「私が傷つこうがどうしようがあなたに関係ないじゃない。雅は私を傷つけてなんかない。私たちのことなんにも知らないくせにっ!」 「わかった! じゃあこうしよう。明日朝からあの台を打て。必ず君は勝つ。しかも朝イチから噴きまくる。しょぼい勝ちじゃなく大勝だ! それなら俺を信じるだろ? 別れろなんて言わない。とにかく気をつけろ。俺が言いたいのはそれだけなんだ。君は『いい人間』だから、もうこれ以上傷つかなくていい。俺は君がこれ以上泣くような目に遭うのが、我慢ならないんだ!」  最後には私は京介のよれたスーツの胸に収まっていた。でもそんなのは一瞬だ。力いっぱい突き飛ばしてその腕から逃れる。思いっきりトートバッグを振り回すと京介の後頭部に当たった。そこを手で押さえ下を向く京介に、私は精一杯の捨て台詞を吐き捨てた。 「なにが『君が泣くような目に遭うのが我慢ならない』よ! あなた結婚してるじゃない! あなたのほうが雅の何百倍も、信用できないわっ!」  私は走る。部屋に向かって。頬がびちゃびちゃした。京介の言葉が刺さって、目からも胸からも鮮血が吹き出している。 『もうこれ以上傷つかなくていい』  そんなこと言われたって今さら遅い。私はもうぼろぼろだ。死に場所を探している。死ぬほどの快楽で息の根を止めてくれる男に所有されている。 『それなら俺を信じるだろ?』  信じられるものなら信じたかった。でもすべて裏切られてここに来た。私にはもうなんにもない。下腹部には毛すらない。たった今自分を信じろと言った京介だって結局は別の女を愛しているんじゃないか。  何もかもが嘘、嘘、嘘。早くしなければ心がどこかに飛んでいってしまいそうな気がした。身体にいるのを嫌がってひとりでにあの真っ暗な穴に落ちていってしまいそうな気がした。それじゃいけない。私の息の根を止めるのは、雅でなければいけないはずなのに! 「みやび、みやびみやび……」  部屋に飛び込むとバッグからケータイを掴み出した。履歴から『いがらしみやび』を選ぶ。抱いてほしい。今すぐ、たった今。ここで雅に抱いてほしい。このあとは仕事だけれどそんなことはどうでもいい。雅が抱いてくれるなら、仕事なんか行かなくてもいいしどれだけの罰金が科されたって私は構わない!  そう思って握るケータイから、雅の声は返らない。何度、何度かけても雅は出ない。出ない。出ない……。  不思議な体験だった。まるで夢を見ているかのように、私の身体は本当に黒い穴にずるずると飲みこまれていった。  見上げると銀色の三日月。そうか、ここはあの海を望むヘルスの一室。客はよれたスーツでスロットを打って、パネルを素手でぶん殴って噴き出した天使の羽根は木の葉積みだから計測したら万枚になるんだ。たくさんの子供たちに食べさせる食料はそのお金で買えるんだろうか。私という身体にかけられたお金であの人たちは今ごろもつ鍋を食べているんだろうか。  中東の知らない国では十勝沖地震が起きてたくさんの人が泣いている。すべての人の涙が止まる夜は、雅の太いペニスによってもたらされる死の愉悦の向こうにしかない。
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