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第14話
確認、というわけではないけれど、私は昼過ぎにパチンコ屋へ向かった。
本当は行きづらかった。電話に出ない雅が、もし普通に北斗の台に座っていたらどうしようかと思ったのだ。
けれど昨日の京介の言葉が忘れられなかった。京介は、「明日朝からあの台を打て。必ず君は勝つ。しかも朝イチから噴きまくる。しょぼい勝ちじゃなく大勝だ」と言った。
普通に考えて、明日噴く台を予想するなんていうのは賭けでしかない。しかも前日一日その台の動向を見て、一週間の動き、また時節や気候なんかも加味して、初めて予想はあてずっぽうとは言えない程度の精度になる。そう簡単にどの台が出るかが予想されてしまっては、パチンコ屋の方が商売上がったりなのだから。
それを京介は、ふいにあの店に訪れて断言したのだ。昨日私が打っていた台が今日出ると。私が打っていた台は出ないとも言った。スロット台というのは設定で出玉率が決まっている。けれどいくら設定が良くてもハマるときはハマるし波に乗れば爆裂する。遠隔操作でもしない限り、波を読み切ることは店側にだってできるはずがない。
だからハッタリなのだろうと思った。でも、もし本当にあの台が噴いていたら……。
「……うそ」
ほかの言葉は出なかった。私は混乱を超えて恐怖すら憶えていた。
昨日私が座っていた台。324番台。座っているのは知らないおじさん。
バトルボーナスは三十四連目。頭上の棚に平積みのドル箱が三箱。足元にも、三箱。
今現在で軽く五千枚は出ている。
このまま打ち続ければ、夕方には間違いなく万枚を超えることになるだろう。
「あ、愛ちゃん」
立ちつくす私に、その時後ろから声がかけられた。振り返るとそこにいたのは孝太郎だった。
「愛ちゃん来たんだ。珍しくいないからどうしたのかと思った。雅は? なんか昨日から見ないけど」
「……あ。雅? 孝太郎も知らない? いや、私もよくわからないの。電話も出ないし」
「そうなんだ。……ちょっと、いい?」
孝太郎はそう言うと私をホールの奥に促した。私はその紺のケーブル編みのニットの後をついて歩く。
思えば昨日、こうして京介と休憩コーナーに向かった。その時にはもう雅はいなくて、それからまったく連絡がつかなくなってしまった。
やはり原因は、京介なのだ。あのよれたスーツの無精ひげの男。指の欠損も刺青もない。だから平日の昼間にヘルスに通うクズではあるけれど、そう変わった人間ではないだろうと思っていた。きっとうだつの上がらない営業マン。アポイントのない昼間に風俗でおねえちゃんを買って喜んでいる。多少ほかの客と毛色は違ったけれど、どうせその程度の人間なんだろうと思っていた。
けれどそれは私の読み違いだったようだ。うちの店の店長に影響力があって、スロット台の出玉まで予言できる京介。一体何者なのか。そして、雅は京介の何を恐れているのだろうか……。
「で、雅、いなくなった? 連絡もつかないって?」
休憩コーナーの昨日と同じ席に、向かい合って腰を下ろしたとたん孝太郎は言った。特に感情をはらまない、いつもの孝太郎の表情だった。
「う、うん……昨日から。ぱっといなくなってそれから電話に出ないの。メールも返信ないし。こんなことってよくあるの? わからないから、心配になっちゃって……」
「あー、そっか。……なんかまた、やったのかな」
「『また』? 『なんか』って、何……?」
考えるように視線を遠くに投げる孝太郎。昨日、やっぱり京介が同じようにしてホールを眺めていたことを思い出す。沈黙が訪れる。私は、無表情に近い孝太郎の顔を見つめたまま考えていた。
京介は「久々にお灸でも据えてやろうと思ったんだが」と言った。過去にも雅は何かをやったんだ。何をやったのかはわからないけれど、いいことでないのは確かだろう。それで京介に会った。京介がどういう立ち位置だったのかはわからない。
それで雅が京介に恐れを抱いた? 突如姿を消して、私からの電話にも出ないほど? 私の理解の範疇を超えた、計り知れない力を持った京介。ふたりの間には、一体何があったというのだろう。
「ね……ねえ孝太郎。雅、何かしたの? 前に、『雅は有名だから』って言ったよね。それがいわゆる、『なんかやった』ってこと……?」
沈黙を破って、私は訊いた。私がとなりにいることを忘れていたようにぼんやりとしていた孝太郎は、焦点を取り戻すと少し驚いたような顔をした。
「……あ、ああまあ。はっきり言えばそうだよね。て言うかどう考えてもそうだよね。愛ちゃんは住んでる世界が違うから、妙に美化して見えてるのかもしれないけど」
「住んでる、世界……?」
その時孝太郎の目に、侮蔑に近い色が浮かんだ。昼間っからパチンコ屋にいる人種にしては、真面目で誠実そうに見えた孝太郎。
その孝太郎が見たことのない表情で私を見つめている。まるで何も知らない愚かな私を、軽蔑するかのような視線。
「そうだよ。雅なんか昔からめちゃくちゃな人間だから。人を人とも思ってないような人間だから。付き合ってみてわからない? まともな神経してたら、雅となんか一緒にいられるはずがない」
「そんな、だって孝太郎は、雅の親友で……」
「親友?」
孝太郎が、くすっと笑う。浮かぶ表情が変わって、その顔はなぜか少し寂しそうにも見えた。
「親友……か。俺たちがそういうふうに見えるあたりからして、愛ちゃんは住んでる世界が違うんだよな。ちゃんとした家のちゃんとしたお嬢さんだったんだろう。ちゃんと学校行ってまともな友達がいて、こんなところで俺たちなんかと交わるはずがない、ちゃんとした人生を歩むはずだったのに……」
最後の方は、ほとんどひとり言だった。私に向いているのかと思った目は、通り越して違う何かを見ている。
「……ま、昔からそうやって姿をくらますことは良くあったよ。最近、妙に電話がかかってくることが多かったんじゃない? ここでもあわててケータイ片手に外に走ってくことがあった。なんか面倒が起きてるのかと思ってたんだ。今回も多分その関連だ。それが片付けば、そのうちまたふらっと顔出すようになるんじゃないかな」
ふう、と息をついて孝太郎は席を立とうとする。これで話は終わりだと言わんばかりだ。私はあわてて、雅を魔法のように消してしまったあの男の名前を口にする。
「ま、待って。ねえ孝太郎、京介って男、知らない? いつもスーツを着ていて天パっぽい長めの髪をしてるの。そいつがここに来たと思ったら雅がいなくなった。京介も雅を知ってるみたいで、ふたりには何か因縁があるんじゃないかと思うんだけど」
「わからないよ。京介なんて下の名前じゃ、誰だのことだかわからない。愛ちゃん、その男の苗字は聞いてないの?」
「え。……あ、そう言えば知らない。……だって、別に苗字なんて知らなくても困らないし」
「そういうところが甘いんだよ」
今度こそ席を立つ孝太郎。きちんとイスを奥まで戻して、あの憐れみの目をして私を突き放す。
「雅が初対面で君のフルネームを訊いたの、どうしてだと思う? すぐに自宅まで押しかけたのも、職場を特定したのもさ。雅はそういう人間なんだ。でも、君はそれに気付かない」
「どうして? どうして雅が私のフルネームを訊いたか? そんなの、ただの自己紹介上の成り行きなんじゃ」
「それが甘いんだ。現に君は今雅の行き先を調べる術がない。京介って人がどういう人間かもわかってない。まるで丸腰。世の中を構成するのはね、決して善人ばっかりじゃないんだよ」
孝太郎が踵を返す。その背が、喧騒が渦を巻くシマの狭間に消えていく。私は立ちつくしただその背を見送るだけ。孝太郎のセリフが頭の中で何度も何度も現れては消えていく。
『――世の中を構成するのはね、決して善人ばっかりじゃないんだよ』。
知ってるわよそんなこと。私は確かに甘かった。だからすべてを失い、死ぬタイミングすら見失って、薄い生をなおすり減らしながらみさきとして生きている。
孝太郎は私を憐れむ。侮蔑の目で私を否定する。ちゃんとした人生を歩むはずだった私。誰かが私から大事なものを奪った。私は空洞になってみさきになった。穴を埋めるのは雅。すべてを支配し従者のように私に尽くす、雅だったはずなのに。
「……愛さん。大丈夫ですか? 顔色が真っ青です。気分が悪い? 水、持ってきましょうか……」
休憩コーナーで呆然とする私を心配するのは、サンタ帽をかぶって黒い制服から真っ白な手足を突き出した唯。子供のようにあどけない顔に不安を浮かべている。
その表情に見つめられると、制服の下のぽちゃぽちゃした身体に意味もなく触れたくなった。私は不安になっている。だから唯に対してはぎこちなくも笑顔を向ける孝太郎の気持ちが、わかるような気がしたのだ。男はきっと、唯みたいなマシュマロのような女の子に安心感を覚えるのだろう。
やせた私の四肢は枝のよう。唯のような身体だったら、面倒ごとに追われ不安を募らせる雅を包みこんであげることができたのだろうか。
「ううん、大丈夫。なんでもないの。ありがとう、唯ちゃんは、優しいのね……」
それだけ言って、休憩コーナーをあとにする。これ以上は処理できそうにない。この世の中の善人のパーセンテージはどれぐらいなのだろう。そんなことを考えながら、私はこのパチンコ屋をあとにする。
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