第16話

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第16話

 その二日後、大みそかの夜のことだった。仕事を終え、私は虚脱感とともにタクシーに揺られていた。  大みそかもいつもと変わらず仕事だった。もちろん元日も仕事。時間は十二時を超えていたから厳密に言えばもう元旦で、ソーマは帰り際私に「あけましておめでとうございます! 今年もよろしくお願いします!」なんて言ってばか丁寧なお辞儀をしていた。  私はいつも通り軽く笑って、「こちらこそよろしく」と返すと待っていたタクシーに乗り込んだ。最近のソーマは、私にいやらしく絡んでこようとしなくなった。  それどころか私を避けている向きすらある。今まではしょっちゅう私の個室にやって来ては、付き合えだのやらせろだのと言っていたのに。急に礼儀正しく静かになった。これももしかしたら、京介の影響なのだろうか。  つい先日店にやってきた京介は、結局いつも通りのルーティンの末に帰っていった。 「こんなつもりじゃなかったのにな」なんて言い訳していたけれど、私は男の習性をよく知っている。だからやっぱりあの男がちっとも怖くない。私の前では、あの謎しかない男もただのオスになる。  額の大きな十字は、きっと故意につけられた傷。それを見た私に「驚いた?」と訊いたけれど、私は答えずズボンのチャックに手をかけた。  正直言えば驚いた。だからいつもあのうっとおしい前髪を垂らしていたのか。けれどそこに踏み込むことはしなかった。私は京介の過去になど興味がないのだから。  京介は私の過去を知った。でも私は京介の過去を知りたくない。流れに乗せて抜いてやると、ぬるぬるの私を力いっぱい抱きしめて「好きだよ」と何度もささやいた。私は一切答えず、時間まで京介の好きにさせてやった。  それで帰っていった京介は、やっぱり左手に指輪をして「また来るよ」なんて言う。何もかもがばかばかしくなって、私はひとりになった個室で笑うしかなかった。男なんて、結局は想像の範囲を出ない。みんな同じ。ばかしかいないのだ。  雅からは相変わらず連絡はなかった。もう待つ気も薄れていた。雅と京介の間にあるものもどうでもよくなりつつあった。京介はただの客、雅はもういない。ならばその間で私が気を揉む必要もない。孝太郎に憐れまれ唯に心配される必要も、私にはもうなくなったのだ。  出入りするパチンコ屋は別の店に変えた。行きなれた近所の店のほうが通うには色々都合が良かったのだけれど、京介のひと言で出玉が変わる店では打ちたくなかった。そこには京介の気配が満ち満ちている気がしたのだ。  何もかもが、元通りの毎日。新しく通い始めたパチンコ屋でもちょこちょこと男に声をかけられる。  そのうちのひとりに、身体を許そうか。気が弱く私を束縛しない男。過去を知りたがったり仕事を辞めさせようとしない男。 セックスが上手ければ言うことはない。ほかに望むことなんか何もない。たとえ従者のようにうやうやしく私を洗ってくれなくても。私を真っ暗なこの世の終わりに導いてくれなくても。  雅でなければならない理由なんてひとつもない。ないはずなのに、あの男の狂気の先にある真っ白な新世界行きの切符を急に取り上げられてしまった空虚感から、実はまだ立ち直れずにいる自分にも、私は気付いている。 「あ、運転手さんごめんなさい! ちょっとここで停めてもらえますか。ここ。ごめんなさい。ここで降ります……!」  疲れ切った身体をシートに沈めてぼんやりと車窓に流れる景色を眺めていると、知っている顔が目の端に飛び込んできた。確認した瞬間私が急な停車を求めたものだから、タイヤのきしむ音が深夜の路上に響き渡ることになってしまった。  場所は、うちの近所のコンビニ前。煌々と発光するその四角い箱の中に、唯がいた。一瞬のことだったけれど、見慣れた顔だからすぐにわかった。  私はタクシーを降りると行き過ぎたそのコンビニに小走りで引き返した。なぜか衝動にも近い強さで、唯と話がしたいと思ったのだ。  なぜなのかは自分でもわからなかった。  私より三歳も年下の唯。パチンコ屋の店員をしていて、いつも茶目っ気たっぷりの笑顔で明るいオーラを振りまいている。でも私は最後、唯にひどく心配そうな顔をさせたままでその後会っていない。  だから安心させようとしたのだろうか。私が案外元気で、これっぽっちも傷ついてなんかいない姿を見せて。それともまた大量の食料をかごに入れているだろう唯に、今度こそその山のようなお弁当やらお菓子は誰が食べるのか訊こうとしたのだろうか。弟妹がいるのか、着る服に困っていないか、何か辛いことはありやしないか。  それとも孝太郎とその後どうなったのかを訊きたかったのかもしれない。あの誠実そうに見えてよくわからない男。唯はちゃんと大事にしてもらえるのだろうか。私が心配したところで、どうなるという話ではないことは間違いないのだけれど。  結局のところ、自分でも理由はわからない。わからないまま私はコンビニに駆けこむと、雑誌コーナーの前にたたずむ唯に声をかけた。 「あ、愛さん……! こんばんは、お疲れ様です、お久しぶりです、あけましておめでとうございます……やだ、どのあいさつが正解なのかわからない……!」  そこにいた唯はやっぱりピンクのジャージ姿で、両手に食料品でてんこ盛りになったかごを持っていた。私を見て以前の人懐こい顔をして笑う。  私はその笑顔になぜか泣きたいような気持ちになってしまう。真っ白でマシュマロのような柔らかい身体に抱いてもらえたら、どれだけ安心して眠ることができるだろうか。おかしなことを考えている自分に驚きながら、顔には出さずに「久しぶり」と返事をしてから「あけましておめでとうございます」を付け足した。 「ここじゃなんだから、うちに来ない? すぐ近くなの」と言ってみる。けれど唯は「ごめんなさい、あまり時間がなくて」とすまなそうに肩をすくめた。 「最近どうしたんですか? 全然来てくれないから。風邪でも引いたのかと思って心配してたんですよ」  唯はいつもと変わらない様子でちっとも屈託がなかった。最後に見た心配そうな表情がうそのようだった。  だから私も以前ここで顔を合わせていた時のように、軽い調子で合わせることにする。 「いや、風邪っていうんじゃないの。ちょっとホール変えようかと思って。最近、あんまり勝ててないし」 「え、そうなんですか? やだーそれって一大事! 店長に報告しなきゃ、『店長が締め過ぎてるせいで女神がよそに浮気してます』って! 愛さんはうちの店員の中でも『女神』で通ってるんですよ。うちの集客の半分は『女神』目当ての男性客だってまことしやかにささやかれてるのに!」 「な、ないわよそれは。それはあり得ない。やだ唯ちゃん、相変わらず言ってることめちゃくちゃ……」 「めちゃくちゃじゃないですよ! ほんとですから! 愛さんが坂巻(さかまき)さんと別れた後なんか確実に売り上げが上がったんですから! みんな女神にいつ声かけようかって、タイミング計りながら出ない台に突っ込んでんだって店長も言ってたんです! 五十嵐さんと付き合い始めてまた沈静化しましたけど! 愛さんはうちの店の売り上げすら変えちゃうから『女神』って呼ばれてるんですよ? ああもう、ゆゆしき事態!」  一気にまくしたてると、唯は本当に憤慨しているかのように鼻をふんと鳴らした。その様子が可愛らしくて私は笑いそうになってしまうけれど、唯が発したある単語に気付いたとたん思考が止まってしまう。そこにははっきりと、ぬぐい切れない違和感が横たわっていたのだ。  『坂巻さん』。唯は今確かにそう言った。『坂巻』、それは悠一の苗字。『坂巻悠一』、唯はどうしてこの名前を知っているのだろうか。  『五十嵐さん』とも言った。雅の苗字も知っている? 私には以前「あの背の高いお客さんと付き合ってるんですか」と訊いた。あの時には雅の名前を出さなかった。でも今は自然にその名が出た。これは、何を意味するんだろう。  私はこの先もあのホールには行かない。唯に会うこともここ以外にはない。だから疑問は今解消しておかなければ、ずっと尾を引くことになる。もしかしたら大したことではないのかもしれないけれど。 「ね、ねえ唯ちゃん。どうして悠一の名前知ってるの? 『坂巻悠一』。大して有名な男じゃなかったと思うんだけど。それに『五十嵐さん』って、雅の名前も、どうして……」 「あ、あ、あ、やだ、あたしったらごめんなさい!」  とたんに唯は取り繕うような笑顔を浮かべた。両手のかごを下ろして、身体の前で手のひらをこちらに向けてぶんぶんと振る。 「ずーずーしくて。別に好意を持ってるってわけじゃないんです! ちょっと話す機会があって、それで名前を訊いちゃったんです。あたしすぐに誰にでもすり寄っちゃって、懐いちゃう癖があるんですよね。悪気も変な気も全然なくて、もう自然の習性ってやつで……!」 「う、ううんいいのよ。別に怒ってるってわけじゃないんだから。そっか、話す機会があったのね。唯ちゃんと雅が、話す機会……」  目の前でしどろもどろにあわてる唯を見て、私はふと思い出した。唯は雅が好きだったのだ。名前なんて知っていて当然だろう。下らない質問をしてしまったと後悔した。 だから話題を変えようと、私はあの名前を口にする。 「あ、ね、唯ちゃん。じゃあ彼とも相変わらず話してるの? 茅場孝太郎。唯ちゃんのこと『明るくていい子』なんて言ってたのよ。私的には結構本気なのかななんて思ってたんだけど。どう? なんか進展はあった?」 「あ、あ、か、茅場さんですか」  その時唯の表情に見たことのない変化が起きた。身体の前で開いていた両手を握りしめ、色白の顔が見る見るうちに真っ赤に染まっていく。 「あ、あ、まあ、お店では色々話してますね。ええ、まあ、そうは言ってもお客さんですからそんなに話し込んだりなんてことはできないんですけど。会えば何かと、話しかけてくれたりして……」  声はかすれていてよく見ると握りしめた拳も細かく震えていた。あからさまな動揺ぶりに、私は苦笑をしてしまった。どうやら孝太郎は本気らしい。そしてこの唯の反応を見るに、孝太郎の策略はある程度の段階まで進んでいるのではないだろうか。 「あらま。そうなんだ。いいじゃない、外で会えば。店の中じゃ話せなくても、外でデートしたらいくらでもしゃべり放題でしょ? ……って、もうしてるのかな? デート。その先も」  わざと声を落として、最後のほうは唯の耳元でささやいてやった。ちょっとしたいたずら心のつもりだった。なのに当然返ってくるだろうと思っていた、「やめてくださいよー」といった明るい声は返ってこない。  沈黙してしまった唯の顔を、私は不思議に思って覗く。そこにいたのは、先ほどまでのりんごのように紅潮した可愛らしい唯ではなかった。  真っ白な、紙のような顔色をしていた。元々色白な唯が、さらに顔色をなくしていた。感情の高ぶりにこわばっていた両肩はすんなりと力をなくし、目は焦点を結ばずに三十センチぐらい前をさまよっている。 「……え。唯ちゃん? ごめん、どうしたの。私なんか変なこと言った? 唯ちゃん、大丈夫……?」 「あ、はい。……大丈夫です。すみません、なんか、ちょっとびっくりしちゃって……」  びっくり? 唯の反応に私のほうこそびっくりしてしまって、反応することができなかった。唯は今の私の言葉の、どこに驚いたというのだろう。  もしかしたら『その先』という部分だろうか。少々性的な匂いを含んだ表現だ。私は仕事柄性的なことに抵抗がない。抵抗なんて持ちながら仕事をしていたら、あっという間に精神を病んで出勤できなくなり、生きていくことができなくなってしまうからだ。  でも唯はパチンコ屋で働く十八歳。高卒ならまだ社会に出て一年目だ。私がパチンコ屋で働いていた時には周りは下ネタしか吐かないようなオジサンばかりだったけれど、唯が働く店は環境が違うのかもしれない。だからなんの免疫もなかったんだろうか。そうだとしたら、私は唯に対してとても失礼なことを口にしてしまったことになる。  謝らなければ。とっさにそう思った。なんと言って謝ればいいかを考える一瞬の間に、唯のほうが先に口を開いた。その口元には、干からびたかのような薄い笑みが張りついていた。 「……外ではね、会えないんです。あたし、すごい忙しくて。ほんとは急いで帰ってご飯食べさせなきゃいけないんです。あたしがご飯あげなきゃ、みんなはらぺこのまま寝なきゃいけなくなっちゃうから」 「あ……ごめんなさい。弟さんや妹さんがいるの? 私が引きとめるから、遅くなっちゃったね。ごめんね、久々に会えたから嬉しくて」 「いえ、あたしも嬉しかったです。愛さんはあたしの憧れだから。綺麗で自由で本当の女神様みたい。愛さんはあたしの自由の女神。あたしも、本当はそうなりたいのに……」  ふい、と顔を伏せた唯の目もとに、涙が光っていたように見えたのは気のせいだろうか。私はどう答えればいいのかわからなかった。  弟妹の世話に追われて孝太郎と会うことができない、ということだろうか。確かに私には家族がいない。だから誰にも縛られることなくひとり自由に暮らしている。  その私がこれ以上何を言ったところで、気休めにしかならないことは火を見るより明らかだった。だから不用意な慰めを口にするべきでない。そう思って別れのあいさつをしようとした私に、唯はぱっと顔を上げ強い口調でこう宣言をしたのである。 「あたしね、愛さん。あきらめてはいないんです。いつかきっと自由になれるって信じてます。いつになるかわからないけど、きっとその日はやってくるって。そのころにはもうおばあちゃんになっちゃってるかもしれないけど、それからだってきっと愛さんみたいに輝くことはできると思うんです」 「……え、ええ……。私は決して輝いてなんかいないけど。あなたはとっても可愛らしいから、いくつになっても誰からも愛されると思うわ……」 「ありがとうございます。愛さんにそう言ってもらえて良かった。この後も頑張れそう。さ、帰らなきゃ!」  唯の白い顔にまた天真爛漫な笑顔が浮かんだ。ふたつの大きなかごを下げてレジに向かう。なんとなくその後ろについて私もレジに並んで、この質問は唯を傷つけないだろうかと一瞬考えてから、思い切って訊いてみた。 「ねえ唯ちゃん。あなた、何人家族なの? 大家族って素敵ね。私ひとりっ子で両親がもういないから、すごくうらやましい」 「……あたしもね、ひとりっ子なんですよ。あ、煙草ですか?」  万に近いお会計を払いながら、唯はいたずらっぽく笑った。お釣りを受け取って、私にレジを譲りながら早口で言った。 「深夜の託児所で子供たちの面倒を見てます。年中無休。親御さんが近くで働いてるもんだから息詰まっちゃうんです。だからあたし、あのパチンコ屋でのバイトが大好きなんですよね」 「あ……そうなの……」 「店員さん、この方、カプリです。愛さんそれじゃ。茅場さんにはこの話内緒にしておいてくださいね。またお店で!」  意気揚々、というような足取りで唯が元旦の夜の街に消えていく。  私はふた箱の煙草を手にしてその後ろ姿を見送りながら、また謎しかない唯という存在に、息苦しいような切なさを憶えていた。
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