第17話

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第17話

 二〇〇三年はそうして暮れていき、やってきた二〇〇四年も元旦から私はいつも通りの日常を送った。朝起きてパチンコ屋に行き、四時ごろ帰宅して準備をして仕事へ向かう。  マンションのとなりの喫茶店でモーニングを食べる習慣はなくなってしまった。時おりあのおいしいトーストとゆで卵が恋しくなる瞬間もあったけれど、ひとりであんな所に行っても間が持たない。新しく通い始めたパチンコ屋での昼食も同じだった。ひとりでうどんをすするのも面倒な気がして、私は朝から夕方まで何も口にしないという相変わらずの絶食打法を取り戻すことになった。炭酸さえ飲んでおけば空腹はまぎれる。食べなければ食べないで身体は慣れるから、それで特に体調を崩すということもやせ細るということもない。  帰りにコンビニによってお弁当を買い、食べてからメイクを直してシェーバーで下半身をつるつるにして出勤する。何も変わらない私の日常。そんな中で、少し気になる男もできた。  その男は会った初日から連続で私が打っているとなりの席に座り、なにくれと話しかけてきては、私の北斗がバトルボーナスに入るたびに自分のことのように喜んだ。こちらに転勤で来ているサラリーマンなのだという。正月は実家に帰らずスロット三昧で過ごすことにしたのだと言った。 「いい選択だったな。まさかこんなところで君みたいな子に出会えるなんて」などと臆面もなく言う。年齢はきっと二十代後半。野球選手のような屈託のない笑顔の明るい男だった。夕食の誘いをかけてきたけれど、「ごめんなさい」と謝ればそれ以上しつこくされることはなかった。 「彼氏がいるの?」と訊かれたから、これには首を横に振って答えた。私は全体的にこの男に好感を持っていたから、このままいけば次に私が身体を開く相手はこの男になるのかもしれない。  一月三日の戦績は、三千円の勝利。正月三が日はトータル二万三千円の勝ちとなった。今年はスタートから幸先が良さそうだ。  今日も男の「一緒に焼き肉でも行こうよ」という誘いを断り出勤した。フロントのソーマは「お疲れです!」の後に「今日は九本です!」と言って頭を下げた。そのまま特に絡まれることもなく私はフロントを通り過ぎる。一日仕事をしてくたくたになって初めて、明日は日曜日なのだということに気付いた。  一月四日。まだあの男は正月休みだろう。私も仕事は休み。明日はあの男の誘いに乗ってみようか。  明日乗ればその後も続くことになる。明日断れば一気に疎遠になる。あの男は明るく健康的で、おそらく社会的に見てもそれなりの位置にいるに違いない。  ちゃんとした家庭で育った匂いがした。風俗で働く女をどう思うのだろうか。俺が好きなら辞めろなどと言われれば一気に冷めるが、軽蔑の目で見られるのもこれまたたまらない。男と関係を始めるときには、いつもこの躊躇がつきまとう。  憐れまれるのも束縛されるのもごめんだった。だからと言ってひとりで生きていくことも私にはできない。  愛されたいなんて思わない。ただ私の身体の真ん中に空いた深い深い穴を埋めてくれる存在がいないのは、言葉の通じない外国にひとり置き去りにされるのと同じくらいに、心細い。  マンションから少し遠いコンビニで買い物をして、部屋に戻ってきた時だった。トートバッグの中のケータイが、突如『歌舞伎町の女王』を歌い始めた。  こんな時間に誰だろう、と思う。店に忘れ物でもしたのだろうか。特に深く考えずにケータイを取り出す。バッグをベッドに投げ出しながら片手で開いたそれに、表示されていた名前は――。 『……愛ちゃん? 俺。久しぶり。まさか、忘れちゃったりしてないよね?』 「み、み、みやび……?」 『そうだようー。下手こいてちょっと隠れてた。なんとか収まったから帰ってきた。会いたかった。ねえ愛、愛はまだ俺のものだよね?』  一瞬にして時間が巻き戻る。鼻にかかった甘い声。私はひと言では言い表すことのできない感情に眩暈すら覚えていた。死んだはずの王が生きていた。スーツの刺客に狙われ、私をひとり外国に放り出し自分だけ延命を図った王。私はこの男のことを何も知らない。  ひどく勝手で、支配的で狂気じみているのに無邪気な犬のように屈託なく笑う。この男は危険だと私に忠告したのは雅を狙った京介だった。京介と最後に会った日が蘇る。  普通の顔をして現れて、「話の続きをしよう」と言った。京介は雅から私に連絡がないことを確認した。そして私に何度も何度も「好きだよ」とささやいた。消えたタイミングを考えても、やはり雅は京介に追われ私の前から姿を消したに違いない。  けれど問題は、理由だ。雅が京介から逃げなければならない理由。私は私と雅の仲を裂くために、京介がその持てる謎の強権を発動して雅を追い払ったのかとも思った。でも、少し考えてみればそれは誤りだとわかる。  『界隈では有名なやんちゃ坊主』だった雅。心当たりがあって突如現れた京介から『逃げた』。ふたりは以前から面識があった。私のあずかり知らぬところでふたりには確執があったのだ。そこに私の存在は介在しない。  その理由が、知りたかった。雅が京介から逃げる理由。孝太郎は教えてくれなかった。でもそれを知らないのは、雅という人間の本質を知らないのと同じこと。  初対面で私のフルネームを訊きその日のうちに私を抱いた。善人ではないかもしれないこの男は、その横暴な所有欲でまた私を支配しようというのだろうか。 『……なあ愛。逃げられるなんて思ってないよな? 言わないなんて許さない。お前は、誰のものだ?』  チャンネルを切り替えたかのように、ケータイから独善的な問いが漏れる。言葉が終わる前に鳴るインターホン。雅が、そこにいる。  私は、誰のもの――? 「そん……な。私は、私は、わたしは……」  突然玄関から扉を強くノックする音。ノブがガチャガチャと回される。ノックは次第に激しい殴打に変わる。殴られ蹴られて玄関の空間そのものがずしんずしんと振動している。 『ほら、開けろよ。もうお前は逃げらんねえんだよ。開けろっ! 愛、お前まさか俺を裏切るつもりじゃねえだろうな!』  激しい怒号と破壊的な衝撃音。私の耳が悲鳴を上げる。玄関扉の外と手の中のケータイには若干の時差があった。それは死を望む私と下らない日常を愛する私の温度差のようだった。無邪気に私を求める雅と今すぐにでも私を嬲り殺すかもしれない雅。私は、どちらを望むのだ。 『開けろっつってんだろが愛ぃっ! 男連れ込んでんじゃねえだろうな! 今すぐ殺してやるからここ開けろっ! 俺を裏切るなんて許さねえっ! 俺を、俺を裏切るなんて……』  きっと渾身の膝蹴りが入った。玄関だけでなく部屋全体が大きくきしんだ。次の瞬間には深夜の静寂が降りてきた。支配者が沈黙した。私は身じろぎすら、できなかった。  ケータイの向こうで、すすり泣く声がする。 『……ねえ……愛ちゃん、開けてよお。俺愛ちゃんいないとおかしくなっちゃうよ。愛ちゃんに会いたい。……愛ちゃん。愛。愛……』  がちゃんとノブが回る。回ったままで止まる。この向こうに雅がいる。新世界への切符を持った雅は、今私の部屋のノブを握り泣いている。 「み、やび……」  なぜか私も泣いていた。恐怖なのか、憐憫なのか愛なのか正体はわからない。この扉の先に待つ将来は何者なのかもわからない。でもただひとつ間違いないのは、この数メートル先に雅がいるということだけ。  『将来』なんてもの、私、必要だったのだろうか……。  ぱたん、と音がしてサムターンが回った。回したのは私。黒い穴の縁に立った。のぞきこめば、その先にあるのは。 「愛ちゃん、愛ちゃん、愛ちゃん……」  ドアの向こうにはジャージ姿の王。長身に茶色い髪。雑種犬のような愛らしい顔が、今日はぐじゅぐじゅに濡れている。雅が、泣いている。 「……もう嫌われちゃったかと思った。愛ちゃん、触っていい?」  震える指先が私に伸びる。ゆっくり、ゆっくりと。肩の手前で止まるから、私はいいよ、と泣きぬれる従者に許可を出す。 「愛ちゃん、大好きだよ。愛ちゃん、会いたかった。愛ちゃん、愛してる……」  雅の長い腕が私を抱く。私は足元からせり上がってくる灼熱の寒気に昏倒しそうになりながら、長い長い長いくちづけを一身に受け続ける。もう、戻れない。  雅が私の命を握る。私のすべては雅のもの。生かすも殺すも雅次第。  私の部屋は雅の王国。雅は私に空いた深い深い穴を埋める。身体中の、穴という穴をすべて塞いで呼吸は止まる。痙攣。弛緩。その先にあるのは……復讐? 「殺さないから。俺の言うことなんでもきいて。なんでもしてあげるから。だから、逃げようなんて考えないで」  逃げたのは私じゃない。殺されることは怖くない。して欲しいことはひとつしかない。戻れない。支配が、私の身体に再び染みこむ。  深夜の狂乱に『歌舞伎町の女王』が水を差す。けれど雅が許さないから、そのメロディは私の喘ぎと輪唱するようにしていつまでも歌い続けていた。
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