第18話

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第18話

 次の日は日曜でずっと雅がいた。私の部屋で、眠って目が覚めたら続きが始まった。それは雅が飽きるまで続いた。ひと段落ついた時にはもう、部屋は薄暗く窓の外は夕方になっていた。 「……ハラ減った。愛ちゃん減らない? なんか食いたい……」  私を抱き枕にしていた雅がふいに口を開く。それで疲労と閉塞感の中でまどろんでいた意識が、急に現実に戻った。戻ったとたんにお腹が鳴った。雅のではない。確実に私のお腹の音だった。 「……可愛い。ぐーって。やっぱ空いてるよね。昨日からなんも食ってないし。でも出たくないなあ。なんか出前とか、頼めない?」  雅はいつもの雅に戻っていた。王の非道も従者の慇懃もそこにはなかった。天真爛漫な雑種犬は、くるりと身体を回して私を自分の腹の上に乗せる。そのまま起こされた私は騎乗位の体勢になって、動かない頭を動かしいくつかの案を出した。 「ピザ、とか。チラシとってあった気がする。あとお寿司? 中華も頼んだことがあるような気がする……」 「あ、ピザいいねえ。俺コーラ飲みたい。めっちゃのど乾いた。コーラ、一リットルぐらい飲みたい」 「わかった……ちょっと待ってね」  立ち上がると膝ががくがくした。下腹部からお尻まで何もかもが痛んだ。乳首も痛い。でも目に入る場所にはどこにも痕はついていなかった。  チェストの『捨ててはいけない書類入れ』を開けた。この引き出しには家電の保証書や出前関連のチラシ、それと支払いに回す現金のストックが入っている。その中にピザ屋のチラシを見つけ雅に渡してから、私はケータイを探す。昨夜から何回も何回も鳴っていた私の携帯電話。そうだ、あのケータイは昨夜から鳴り続けていた……。 「――ねえ愛ちゃん。なんであいつのこと知ってたの?」  ベッドであおむけに寝転がったまま、雅は唐突に言った。私は反射的に振り返ったけれど、チラシで隠されたその表情は見えなかった。 「……京介?」  注意深く、その名を口にした。ほかの選択肢はなかったけれど、確認がしたかった。私たちの間に横たわるあまりにも不可思議な謎。とうとう手の届くところに来たその謎は、本当に触れても暴発をしないのだろうか。  その男が何者なのか知っているはずの雅は、滑らかな裸体をさらしたまま何も反応を返さない。  沈黙が流れた。無言の圧力を以て、雅は私に答えを要求している。  少しだけ抵抗してから私は屈した。ありのままを答える。 「お客さん、なの。平日に来る。三か月ぐらいになるかな。付き合えとか好きだとか言って、私のことを調べたって」 「……ふーん……そう」  それでまた氷のような沈黙が訪れた。私はしばらく雅の綺麗な身体を眺めていた。彫像のような裸体はぴくりともしない。これ以上触れてはいけないことが、張り詰めた空気から伝わってきた。  仕方がないから、私はまたケータイを探すことにした。あれだけ鳴り続けていたのだから、もしかしたらもう電源が落ちてしまっているかもしれない。  それはクローゼットの前に転がっていた。雅のジャージの下に隠れていたからわからなかった。電源は落ちておらず着信を示すランプが点滅している。手にして開くと、着信がなんと十八件も入っていた。  すべてが店からだった。どうして店からこんなに着信があるのだろう。一番最後は今日の昼だ。かけ直したほうがいい気がする。私からは特に用事はないけれど、店になにかあったのかもしれない。  雅を振り返った。同じ体勢でチラシを見ている。電話をかけてもいいか、訊いてみようか……。 「……なあ。愛」  チラシの下から、太い声がする。甘さのない、私の支配者の声。 「明日、休め。店を休め。電話しろ。『体調不良で休みます』って。今。すぐ」 「……うん。わかった。電話、するね……」 『あ、みさきっ? ああー良かった! 連絡つかないからマジでビビってたんだぜ? もーちょっとでうちの若いの踏み込むとこだったんだぞ! ほんとお前、何やってんだよ……!』  電話に出たのはソーマだった。聞いたことのないような切羽詰まった口調でまくしたてる。私は状況が読めず、ただ驚いて「わ、若いのが踏み込む?」と聞き返した。 『そーだよっ! めちゃくちゃな男が部屋の前で大暴れしたんだろが! 何本も通報入ってこっちに連絡がきたんだよ! で、俺がお前んちに様子伺いに行ったらあんあんヨガリまくってんのが外まで丸聞こえ! 電話しても出ねえしずーっとヨガリまくってるし佐野(さの)さんは「もうちょっと待て」って言うけどもう店長が怒り心頭でさあ! とばっちり食らうこっちの身にもなれよ、て言うかお前大丈夫なの? ケガとかなんとか、痛い目にあってんじゃねえだろうなっ!』  何が何だかわからなくて、私は狼狽するしかなかった。「え、え、通報?」と言葉をこぼすことしかできない。 『え、じゃねえよ! とにかく無事なのか? 部屋にいんだろ? その男はまだそこに』 「ま、待って待って待って。待ってソーマ。ごめん、心配かけてごめん。大丈夫、何でもないの。私、全然ケガなんかしてない……!」  目の前に雅の茶色い髪がちらつく。瞬時に起き上った雅は音もさせず私に吸い付くと、ケータイに耳をそばだてている。  私は心臓が破れそうなほどにどきどきしている。これはきっと大変なことが起きている。私にとってではなく、雅にとって。  だって雅のこの反応。まるで反射的にはじかれるように戦闘態勢に入った。今私の横で息をひそめている雅はまるで野生動物のよう。茶色い毛並みのトラやピューマを連想させる。  クロヒョウのようだったのは京介。よく似た習性を持ったふたりには因縁がある。雅は今何に対して、こんなに殺気立っているのだろうか。 『……まあ、それならいいけどよ』  電話の向こうでソーマが大きく息を吐く。いらだちが伝わる。中間管理職であるソーマは、普段から色々と気苦労が絶えない。 『それにしたってお前、付き合う男は選べ。暴力を振るうような男は論外だ。あのヨガリようだとカラダで手懐けられちまってるんだろうけどさ。お前ら風俗の女はどうしたって妙な男を選ぶ習性がある。そいつがどういうやつか俺は知らねえけど』 「……うん。いやでも、変な人じゃないの……」 『変じゃねえ男が真夜中に女の家の玄関蹴り飛ばしながら叫びまくるのかよ! 周り全部巻き込んでどんだけメーワクかけたと思ってんだ! いいのか? そいつ潰したっていいんだぞ? お前がちょっとでも困ってんなら、店長以下こっちの人間総動員でそいつの痕跡一切消して』 「やめて!」  瞬間的に叫んでいた。そんなことをしたら雅がまたいなくなる。悠一のように、顔を思い出すことすら困難なほど遠い場所に追放される。  はっきりわかった。私には雅が必要なのだ。ひと晩でよくよく思い知らされた。雅がいい。雅でなければ満足できない。雅でなければ私の深い穴を埋めることはできない。  誰にも邪魔はさせない。誰も信用できない。頼れる人間なんていない。すべては嘘。でも雅は違う。雅は私の支配者。私を掌握しいたぶってむさぼりつくす。いずれその先にあるのは、真っ白な大平原。  雅を手放したりするものか。私は腹に力を籠める。 「手を出したら、許さないから。店長にも伝えておいて。手を出したら許さない。私、本気よ」 『……マジかよ』  ソーマの声は当惑の色を隠さない。ケータイを握りしめる私を、後ろから広い胸が包みこんでくるのがわかった。 『じゃあもう……なんも言わねえけどよ。まあ面倒ごとだけは起こすな。周りのメーワクだからさ。明日出勤できるんだよな? 予約、もう六本まで入ってるから』 「ごめん。明日は休む。風邪っぽいの。明後日は行くから」 『マジかよ……。勘弁してくれよ……』  ソーマはたっぷり十秒は沈黙した。私は待つ。大きな手が私の乳房をやわやわと揺らしている。 『わかった……どーにかするけどよ。明後日は絶対な! これ以上妙なことが続けば店長面談だぞ。ただでさえお前今厄介ごとの中心人物なんだから。お前のために言っとく。俺が漏らしたってバラしても構わない』 「な……なに。厄介ごとって……」 『怖い人につきまとわれてんだろが』  ぴた、と手が止まった。雅の手。私の呼吸も止まる。 『今もお前んちの周りにいるかもな。悪いけどお前のせいでこっちはえらい迷惑を被ってるんだよ。入りこんできて腹を探られてる。店長が気を揉んでんのもそこなんだ。あの人は容赦がない。俺らを潰すことぐらい屁でもないと思ってる。はっきり言って、悪魔』 「……あ、『悪魔』? 京介のことよね。いいお客さんって言ってたじゃない。紳士的で上客だって! 私のせいってなに? 私だって、あの人には迷惑してて……!」 『だからそれが今そこにいる男と関係してんだろうが』  ぺろりと生温かい舌が後ろから私の首筋を舐める。そのまま耳たぶに。手がまた動き出して乳首を柔らかくつまみあげる。反対の手がつるつるの股間に伸びてくる。 『俺らにも詳しいことはわかんねえけどな。でもお前はもう知ってるんだろう。お前が昨夜からやりまくってる男の正体。佐野さんに目えつけられるぐらいだ、およそとんでもねえ悪党なんだろうよ』 「そんな……ことない。雅は、悪党なんかじゃ……」 『いいかみさき。よく聞け』  ソーマの声から感情が消えた。長い指が、私の中に入ってくる。 『俺たちはお前の味方だ。それは間違いない。でもそれもお前が俺たちの仲間だからだ。お前が味方でなくなれば、俺たちは容赦なくお前を切る』 「……切る? ……それは……どういう」 『言っただろ? 佐野さんは俺たちぐらい平気で潰す。加減ってものを知らない。店長すらも恐れてる。そして佐野さんをうちに呼びこんだのは、間違いなくお前だ』 「佐野さんって……京介なの? あのおとこは……いったい……」 『疫病神だよ。目的のためには毒でも飲む。その毒が美味いと言ってもっと欲しがる。お前に憑りついてる。俺たちは、迷惑してるんだ』  ぷつ、と通話が切れる。雅の指の動きが激しくなる。 「『疫病神』かあ……。うまい表現するね。確かにあいつは疫病神だ。おでこにでっかい、十字架を付けた悪魔……」  その場に倒され指が犯す。もう何度もイったはずなのに、私はまた潮を吹きながらあんあんヨガって暗い穴で眠る。
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