第20話

1/1
40人が本棚に入れています
本棚に追加
/33ページ

第20話

 翌日の朝食はあの古びた喫茶店でとった。相変わらずトーストはおいしく、ゆで卵は類を見ないぐらいに絶品だった。 「はい、いい塩加減。あーんして」  従者は今日も卵を剥いた。朝日の中の無邪気な笑顔はやっぱり雑種犬のよう。  今日はあのパチンコ屋に行くのだという。変わらない日常が戻ってきた。  来週は休みを取っておくようにと繰り返す雅。  私の支配者は、その先で私にどんな景色を見せるつもりなのだろう。  朝のパチンコ屋に並んでいると、くわえ煙草のハシマが声をかけてきた。真冬だというのに相変わらず真っ赤なジャージの上下。寝ぐせのついた異様に毛量の多い頭に、だらしない彼の日常が透けている。 「みーくん昨日はありがとねー。かなり無理したんじゃない? 分割でいいって言ったのに」  にやにや笑いながらそう言ったかと思うと、ハシマはそのむくんだ目で私を上から下まで値踏みするように舐めまわした。雅と話しているのに雅の方を見ない。私は驚いて思わず雅の後ろに隠れた。ハシマが私にこんな視線を投げかけてきたのは初めてのことだった。 「いやー、シマさんにはどうしても信用して欲しいんすもん。俺の誠意を見せたんですよ。で、例の話も、進めてもいいんですよね?」  雅は手の中でライターを忙しくこねくり回している。ごわごわする安物のウールのコートの背中に、私はぴったりと寄り添った。雅以外の男が私を見ているという事実がとても恐ろしかった。 「もっちろんだよー。まさかこんなご縁で俺の願望が叶っちゃうとは思わなかった! みーくんの友達やってて良かったなー。これからもいつでも言ってよね。俺の出来る範囲で用立てるからさ」  じゃあねと聞こえたかと思うと、ハシマが雅の背中に回り込んで、うつむく私の顔を下から覗きこんできた。一瞬アップになったハシマの下卑た牛のような笑顔に私は思わず悲鳴を上げた。ヘルスの一室でぎらつくオスの目が、そこにあったのだ。 「いやいや、もう甘えませんよ。俺もいつまでも半端してられないんで。男になります! 今日は飲み過ぎないで下さいねー!」  去っていくハシマに雅はそう言って大きく手を振る。それから私の肩を抱き寄せ、耳元でこうささやいたのだ。 「だめだよー。前にも言ったでしょ? シマさんはいい人。愛ちゃんはこれからシマさんとも仲良くしなくちゃいけないんだから、怖がってたんじゃ可愛がってもらえないよ?」  私ににっこりと微笑みかける雅は、ハシマと同じ目をしていた。  久しぶりのホールには唯がいた。開店前の静かな店内、雅と離れ角台に座った私に、唯は台の陰にぴったりと引っついた状態で声をかけてきた。 「……愛さんっ。お久しぶりです、お元気でした……?」  少しひそめたような声。驚きをはらんだ目がいつもの倍くらいに見開かれている。 「う、うん。久しぶり。なんか、戻ってきちゃった。雅がやっぱりここがいいって言うもんだから……」  私はなぜか気まずいような気持ちになって、苦笑いを浮かべることしかできなかった。最後に唯に会った時感じた息苦しさを思い出した。なぜだろう。胸が苦しい。  唯は私の奥に視線を飛ばしてから、小さく眉をしかめた。白い肌に少しの緊張を貼りつけて、胸ポケットのメモ帳とボールペンを手にする。業務中に忘れてはならないことをメモするためのメモ帳だろうか。 「良かったです。心配してたんです。あたしもあれから色々あって。これ、登録しておいてもらえませんか?」  びびっと音をさせて走り書きした一枚を引き破る。小さく折りたたんだそれを私の手の中に握らせると、いつもの人懐こい笑顔を浮かべて私の耳元で言った。 「あたし、まだ信じてます。あたしにも、愛さんみたいに輝ける日が来るって。そのためにあきらめちゃいけないって自分を奮い立たせてます。ほんとは怖いけど、背中を押してくれる人が現れたから」 「え……唯ちゃん? これ、あなたのケータイ番号……?」 「だから愛さんは忘れないで。あなたに憧れてる人間がいるってこと。あたし、愛さんのことが好きです。あたしにとって愛さんは、強くて綺麗な、自由の女神様なんですから」  ふいっと顔を背けて、唯は行ってしまった。私の手の中に残ったメモ用紙には、携帯電話の番号が記されている。私はトートから急いでケータイを取り出すとその番号を電話帳に登録した。  それからそのメモ用紙を小さくちぎって、すぐ壁際のごみ箱に捨てた。なぜか大変な秘密を知ってしまったような気がしたのだ。痕跡はすぐに隠さねばならないと思った。  その時アナウンスがあって華々しいファンファーレの音がしたから、私は急いで席に戻るとサンドに千円札を突っこんだ。気になって振り返ると遠く背中側に離れた雅と目が合った。頑張ろうね、とくちびるの動きだけで雅が言って、私はいつも通り投入口にコインをあてがう。  今日の戦績は四千円の負け。お昼は雅とわかめうどんを食べた。今日はなぜか孝太郎の姿はなく、雅がそれに触れようとすることはなかった。  夕方にはいつも通りに出勤をした。カウンターにはやっぱりソーマがいて、私の顔を見るなり大きなため息をついた。私ぐらいしかない身長が、今日はより小さく見えた。私はソーマに、来週の日曜から一週間休みを取りたい旨を伝えた。 「……一週間か……もうなんも言わねえけどよ。なんだかよう。遠い存在になっちまったなあ。俺の女にしたかったのに。もう、俺まで落ち込む……」  私は驚いて待合室を見渡した。客が数人座っている。この状況でソーマが私を『ヘルス嬢みさき』として扱わないことに驚いた。目を丸くした私にはたと気付いたようだったけれど、ソーマはもう一度息を吐いて調子を変えなかった。 「今日は、九本な。頑張れよ。休みは了解した。たまにはゆっくりすればいい。でもなんかあったらすぐに言え。お前はこれ以上辛い目に遭う必要なんかない。俺はできるだけ、お前の味方でいたいと思ってんだから」  わかった、とだけ言って私は個室へ続く細い通路へ進んだ。明らかに様子が違うソーマは、玄関前で騒いだ男との関係を心配してくれているのだろうか。  こういう業界に首まで浸かっているからまっとうな人間には見えないけれど、ソーマという男の性根は決して曲がっていない。なにより正直で嘘をつかない。出会ってすぐに一度だけ私を騙したけれど、それぐらいはこの業界ならよくある話だ。もちろん店長の耳に入ればソーマはクビだけれど、それもわかった上で私を抱いた。そして口止めをしようともしない。そんなソーマは、ある意味この上ない正直者だと言えるだろう。  遠い存在、か。ソーマの管理下から私がはみ出したということだ。この先がどうなるのかは、私にもわからない……。  その日もあわただしく過ぎていった。夜の八時頃、五人目の客に私は息を飲んだ。  そこに立っているのは京介。 「今日が最後になってもいい。ちょっとだけ話、聞けよ」  そう言って私の肩を抱いてベッドに座らせる。
/33ページ

最初のコメントを投稿しよう!