第21話

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第21話

 京介が帰っていって、私はそれからも仕事を続けたのだけれど、頭の中はすっかり京介の口から出た言葉に占領されてしまっていた。手慣れた仕事だから脳内で好きな映画を再生していてもこなせると思っていた。けれど衝撃に支配されると人間はルーティンまでこなせなくなるものなのだと、私はその時初めて知った。  帰りにはコンビニに寄らず帰宅した。タクシーを降りると深いガラスの底のような闇が待っていた。冷え切った夜の底から見上げると空にはまた三日月が浮かんでいた。光度を下げるために自らの存在を闇に溶かす月。私が輝いていると言ったのは、唯だったことを思い出す。  私は闇に溶け合いたい。深く暗い穴に落ちていきたい。自分に空いた穴をふさぐにはそれしかない。雅とともに。雅の太いペニスが私を救う。  部屋に戻ると、チェストの引き出しを開けた。そこは『捨ててはいけない書類入れ』。家電の保証書や出前のチラシ、支払いのためにストックしてあるお金が入っている。  京介が確認をしろと言った。素直に言うことを聞くつもりはなかったけれど、そこだけスポットライトが当たっているかのようにチェストが光っていて、私は吸い寄せられた。開けざるを得なかった。視界に入った私に右腕は、ぎちぎちと動くロボットの一部のようだった。  それを開くと、色とりどりのチラシと赤い封筒にまとめた家電のレシートと保証書が見えた。それだけだった。そこにあったはずの五十万円はなくなっていた。  一瞬呼吸が止まった。京介の言った通りだった。全身の血管が倍の太さになったかのようだった。心臓から押し出された血液が拍動とともに身体中を駆け巡っているのがよくわかった。思考することを嫌がる頭を奮い立たせる。間違いないのは、これで来週に差し迫った支払いは事実上不可能になったということだ。支払いというのは、とても現実的なこと。月に一度私が乗り越えなければならないハードル。  利子だけで五十万という大金を要する。越えてもすぐまた来月分が迫る。何度越えてもこのハードルはなくならない。利子の支払いだけでは、元本は一切減らない。私は一生このハードルを飛ぶためだけに生きていかなければならない。  ここから逃げ出したいと思えば、方法はないわけではない。スロットを辞め禁欲的な生活を十年以上続けるか、もっと大きな金額を生む仕事に手を染めるか。  しかし、どちらも私は嫌だった。私に非があってできた借金なら話は別だけれど、私には禁欲に走るいわれも、AV女優になってレンタルビデオ店に並ぶつもりもなかった。『みさき』を演じる日々には息抜きが必要だったし、もし私のあられもない姿がママの目に入るようなことがあれば、ママは生きていくことさえやめてしまうのではないかと私は思っていた。証拠を残すわけにはいかないのだ。  けれど、このままの生活をこの先永遠に続けていくのかと思うと、気が遠くなるのも事実だった。出口のない日々。スロットの高揚感で目先の絶望を拭ったとしても、私には未来がない。今はまだ若いから利子だけでも払い続けることができる。でももうあと数年して、指名の数が減ったら。病気になったら。月に五十万も稼ぐことが、できなくなってしまったら……。  私はその時、自分の脳内にじんわりと黒い染みが浮かび上がるのを見た。それは半紙に拡がる墨のように、じわじわと私の視界までも侵食していく。  もし、五十万をもう払わないと決めてしまえば、その先にはどんな景色が広がっているのだろうか……。  背筋がぞくりとした。雅は私を旅行に連れ出すと言った。新世界には、現実的な苦悩は果たして存在するのだろうか。  京介が話した『真実』の先には希望がない。私が信じるのは雅。私に新たな世界を開いてくれるのは雅しかいない。  雅だけを信じると決めて、全裸になって支配者の帰りを待つ。  支配者はいつまでたっても帰ってこない。脳に拡がった黒い染みが光に薄れてしまわぬよう、私はひとり暗い穴の中で丸まって、切ない自慰を夜が明けるまで繰り返す。  翌朝の目覚めはひとりぼっち。ふわふわの毛布が肌に優しい。昨夜カーテンを閉めなかった窓から、冬の清潔な日差しが射しこんでくる。  雅がいないベッドは、広い。この世には雅と私しか生物が存在しなくて、その唯一のかたわれが消えてしまったような気がして私はいつの間にか泣いていた。心細い。声を聴きたい。でもどれだけ繰り返しても、雅は私からの電話に出ようとはしない。  シャワーを浴びて、メイクをして着替えた。あの喫茶店には雅はいない。わかっているけれど一刻も早く行きたかった。あそこでトーストを食べゆで卵を剥いたら気持ちが落ち着く気がした。落ち着きたかった。この世界に雅以外の日常が存在することを目の当たりにしないと、すぐにでも私自身がおかしくなってしまうような気がしたから。  財布とケータイだけを手にして、部屋を出た。朝六時から開いている喫茶店にはもちろん雅はいなかった。  いつものモーニングセットを注文してひと息ついた私は、自分の向かいのイスが突如音もなく引かれるのに気付いた。店内に客はまばら。ナンパだったら面倒だと思い視線を上げない私は、聞きなれた声に目を見張った。 「……愛ちゃん。久しぶり。良かった、捕まえられて」  目が合う。いつもの冷静な表情にぎこちない笑みを浮かべている。 「しまいには働いてる店に押しかけようかと思ってた。ちょっと話したくてさ。ここ、いい?」 「う、う、うん。いいよ。久しぶりだね。元気にしてた……?」  精悍な横顔が朝日の逆光で深い影を落とす。修行僧のような雰囲気をまとった孝太郎が、今私の目の前で、痛みをこらえるように強く奥歯をかんでいる。
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