第23話

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第23話

 私は雅の言葉に一切逆らうことなく数日を過ごした。出奔は日曜。今日は、金曜日。  部屋からは仕事以外には一歩も出なかった。食事はすべて出前を頼んだ。ピザとコーラ。雅はこの部屋には来なかったけれど毎朝電話をくれた。屈託のない明るさにその度私の股間は濡れた。 「会いたい」と言う私に、雅は「日曜日にね」とだけ繰り返した。私は部屋ではひたすら音量を上げたテレビを見て過ごした。電話は、雅以外誰からもかからなかった。  手の中のケータイを、手持ち無沙汰でいじりまわす。電話帳には数えるぐらいしか登録がない。『店』と『店長』、『いがらしみやび』『唯』『孝太郎』あとは出前を頼む飲食店ぐらい。  それともう一件、最近増えた番号がある。あの夜、個室のベッドの下の私のケータイを勝手に取り出しいじった男。「いつでもかけてこい」、そう言ったその男の登録名は、『佐野京介』。    あの日は私が挑発をしてもなかなか乗って来なかった。私は無精ひげの頬に何度もくちづけをして全裸になった。それでも男は裸の私を抱きすくめたまま、子供を諭すようにして何度も何度も繰り返したのだ。 「俺を信用しろ。悪いようにはしない。ごらんの通り俺は結婚してる。だから君のすべてを欲しいなんて言わない。でも、抱えてるものを軽くしてやることはできる」 「信用できないなら、東署に電話してみろ。『佐野京介』ってのはいますかってな。俺を知らない奴なんかいない。君は大人の忠告をちゃんと聞くべきなんだ。五十嵐雅と別れろ。それで、俺の女になればいい」  要するに京介は、「雅と別れろ、俺と付き合え」と言っているのだった。私はそう理解した。そのために驚くべき告白をした。私は衝撃を受けたけれど、結局はなにを生業にしていても所詮は男。最後にはいつも通り素股で抜いて帰っていった。ただ自分の居場所は確保したまま若く見栄えがする女を手元に置きたいと考える凡庸な男なのだ。そんな京介に、私の苦悩が拭い去れるとは到底思えなかった。  そうだ、京介は『大人の忠告を聞け』と言った。それが本当に私のことを考えて発されたものなら聞いてもいい。けれど『大人』はいつだって私を騙してきた。私は騙されてここに来た。『大人』は子供を搾取する存在なのだということを、私はここ五、六年の間で反吐が出るほど実感している。  京介は私の荷物を軽くすると言った。『軽くする』。『引き受ける』とは言わなかった。『結婚している』。『すべてはいらない』。  だから私が『佐野京介』に電話をかけることはない。出奔は日曜日。もう私たちが会うことはない。私は、京介を頼ったりなんか絶対にしない。  テレビが夕方のアニメを流し始めた。子供向けの探偵もの。本が好きだった私は子供の頃このシリーズを文庫で読んだ。大好きだった素敵な少年探偵はいつの間にか年下になってしまった。気付けば私も、年齢的にはすっかり『大人』だ。  ふいに私の頭を柔らかくなで続ける京介の手のひらの感触が蘇った。ママも私にそうしてくれることがあった。子供の頃の記憶は、いつだって甘く切ない。もう戻らない時間。そこには取り返しのつかない喪失感があふれている。  画面の中の少年探偵がいつの間にかかすんでいる。将来は作家になりたいなんて思っていたっけ。私にだって夢があった。希望があった。でもすべてはもう、遠い遠い過去のフィクション。 『正義は勝つ』、少年探偵の決めゼリフが遠くに聞こえる。  正義って何だろう。ぼろぼろと頬にあたたかいものがこぼれるのを感じながら、私は頭を包む誰かの手の感触にいつまでも身を任せていた。  金曜の夜は一週間のうちで一番忙しい。うちの店は一応十二時閉店ということになっているけど、大体私の帰宅は一時半を過ぎてしまう。店側が予約を最大限まで入れてしまうからだ。  だから金曜日はフロントのソーマがいつもより張った声で私に挨拶してくるはずだった。 「おはようございます! 今日もよろしくお願いします!」  でも今日はその声が聞こえなかった。フロントには、別の古参のボーイがにやにやしながら立っている。 「……おはよっす。今日、十本入ってます。頑張って下さいねえ」  私は会釈だけして暗い廊下を進んだ。ソーマがいない。休みだろうか。  ソーマの休みは二週間に一回程度で、前回は先週に取っていたような気がする。ソーマはこの店を実質的には取り仕切っている存在だから、なかなか休みが取れない。以前はよく店に顔を出していた店長が系列の別店舗のことで忙しいとかで、こちらのことはほぼすべてソーマの肩にのしかかってきているらしい。  明日が私の最後の出勤になる。風邪でも引いたのなら明日も休むのだろう。三年間毎日のように顔を合わせてきたソーマとも、もしかしたらこの先一生会うことはないのかもしれない。  身支度を済ませ、『みさき』になって笑顔を振りまく。いつもよりたっぷりサービスをした。客が喜べば罪悪感が薄れるような気がしたのだ。私は店を裏切り、ソーマを裏切ろうとしている。  十本が終わり、日払いをもらって店を出る。身を切るような寒さだった。いつもの場所に停まっているはずのタクシーを目指して走った。けれどそこに、いつもの黄色い車体はいなかった。  代わりに黒い軽自動車が止まっていた。フロントガラス以外にはスモークが張られている。あまりいい印象の車ではなかったから一度店に戻ろうと踵を返した私に、その時よく知った気安い声が投げかけられた。驚いて、思わず立ち止まってしまう。 「おい、みさき! 乗れよ! 送ってく。なんもしないから乗れ。ほら早く!」 「……ソーマ? 何やってんの……?」  それはソーマだった。夜だというのにサングラスをかけパーカーのフードをかぶっていた。窓から大きく突き出した腕をしゃくって、「いいから早く乗れ!」と重ねて言った。焦っている様子に見えた。  私は一度振り返って店の方を見やってからその車の助手席に乗り込んだ。古い小さな軽自動車。きつい芳香剤のにおいが鼻を突いた。乗り込むなり、ソーマはギアを入れてアクセルを踏み込む。 「いやー、もうすぐ駐車場に鍵かけに誰か出てくる時間だったからさ。良かった、誰にも見られてなさそうだな」  ソーマはサングラスを外して私の前のダッシュボードに放りこむ。タイツの足に、男にしては小さな手が触れた。その触れた膝をぽんぽん、と叩いてから、私の顔を横目で見てにやりと笑う。 「心配すんな。なんもしない。ただちょっと話そうぜ。お前、もう帰ってくるつもりないんだろ? つもる話も、あるからさ」  交差点まで走ると、車は私の家とは正反対の方向に曲がった。違うじゃない、と私は言おうとしたのだけれど、ソーマはさっき入ったラーメン屋で巻き起こった客同士の喧嘩の顛末を高いテンションで再現していた。まるで目的地に着くまで私を逃がすまいとしているようで、うすら寒い気分になりながらも何も言えなくなった。  ソーマは「お前、もう帰ってくるつもりないんだろ?」と言った。知っているのか。私と雅の逃避行。いや、逃避行をするのは私だけなのかもしれない。ソーマはそれを知っていて、私に何か忠告でもしようとしているのだろうか……。  車はどんどん山あいに分け入っていく。三十分は走って、標高が上がり木々の向こうに街の夜景が見え始めた。大きく開けた峠の展望台の駐車場でハンドルを切った。金曜日のこんな場所には改造した車や運転技術を競う車が集っている。  その集団の一番端に軽自動車を停めると、ソーマはエンジンを切るとともにやっと饒舌だったその口を閉じた。すんと静かになった車内にがしゃんという音が響いて、助手席側の扉にもロックがかかったのだとわかった。その音と振動に、一気に私の心臓は収縮する。逃げられない、と思った。 「……だから。なんもしねえって。顔がまじでビビってる。安心しろ、俺はお前の味方だって」  ハンドルに片肘をついて、ソーマがこちらを見る。笑顔だった。見たこともないぐらいに、優しい目が笑っている。 「お前、帰ってくる気ないんだよね? 俺は止めるつもりはないよ。その方がお前のためだから、この際色々話しとこうと思って」 「私の、ため?」 「そうそう。あ、これ」  身体をねじって後部座席から引っ張ってきたのはコンビニの袋。そこから缶コーヒーを取り出して私に握らせる。まだじんわりと温かい。自分の分をぱきんと音をさせて開けて、飲み下してからソーマはまた口を開いた。いかにも本題と言わんばかりに切り出された言葉は、甘いコーヒーの香りがした。 「お前、『ブロンズ』って店知ってる? 一応うちの系列なんだ。飲み屋街の三丁目にあるんだけどさ」 「……ブロンズ?」  一瞬考えるけれど、まったく聞き覚えがなかった。私は系列店の穴埋めに呼ばれたことがないし、繁華街を飲み歩く習慣も持っていない。  うちの店が数店舗の系列店を持っていて、同じ花街にソープランドやマットという選択肢のない一般的な個室型ヘルスがあることは知っている。他にもガールズバーやいわゆるおっぱいパブと言われるような店もあって、急に忙しくなった店舗にはよその店から暇をしている女の子が回されることもあるのだと聞いた。ヘルスの子がおっぱいパブに派遣されたり、ソープのお姉さんがうちのマットヘルスに助っ人に来たりするのだという。そういう意味で言えばガールズバーの女の子は潰しがきかないので、いくら暇でもどこにも派遣してもらうことができず、ろくな稼ぎもないまま一日を過ごすなんてこともあるらしい。客を密に接待できるほど、柔軟に稼ぎを得られるのがうちの系列の特徴だと言っていたのは、店長だ。  私は指名で埋まるからどこにも派遣されたことがない。飲み屋街にあるのならガールズバーかおっぱいパブだろう。そもそもお酒は飲むけれど夜の街を徘徊するような飲み方はしない。首を横に振った私に、ソーマは細かく何度もうなづきながらふんふん、と鼻先で言った。 「まあそだよな。あれはもぐりの店だから。オープンして半年ぐらいになるかな。まあブロンズっていうのはいわゆる、ショーパブで」 「ショーパブ?」 「うん、ショーパブ。ちょっとなんてゆーか……猟奇的なショーパブ。ハプニングバーってわかる? そういう感じもありつつなんだけど、普通のお客さんがぼんやり酒飲んだりするようなところじゃなくて」 「なんなのよソーマ。何が言いたいの? こんなへんぴなところまで連れ出して奥歯にものが詰まったような物言い。はっきり言ってよ。私に、何の話があるっていうの?」  たまらず私はソーマを問いただしてしまっていた。ソーマの意図するところがつかめない。さっさと本題に入ってほしかった。言いたいことがあるのなら言って、私を家に帰してもらいたかった。周囲から聞こえる腹に響くような低いエンジンの回転音や、狂ったようなスピードで駆け抜けていくヘッドライト、耳障りな爆音のユーロビートが私をいら立たせていた。 「あああ……。ごめんごめん。じゃ、かいつまんで端的に話すわ」  少し慌てたような表情になるソーマ。追手を探すようにフロントガラスの向こうを見渡してから、私に向き直る。 「お前さ、逃げる気なんだろ? 借金踏み倒して。いや、それを責めようなんて気でお前を捕まえたんじゃない。俺、お前に『絶対に戻ってくるな』って言おうと思って」  手の中の缶コーヒーが、ばちゃりと跳ねた。私の身体自体がびくりと震えたらしい。 「……絶対に戻ってくるな? どうして? 大体私が逃げるだなんて、そんなの、なんの証拠があって……」 「ここんとこ毎日限界まで日払いしてるだろうが。変な男が部屋の前で大騒ぎするわ長期の休みをくれなんて言うわ。俺は長年風俗業界にいるんだぞ、分かんねーわけがないだろうが」 「……そう……」  私は詰めていた息を吐いた。ソーマにはお見通しということだ。言い訳はしない。ソーマは固い口調のまま話し続ける。 「まずそのブロンズの話からさせてくれ。そこは簡単に言うとSMショーを見せるショーパブなんだ。結構グロテスクなこともやる。裏では客もとる。ここまでは、オッケー?」 「……え、SMショー? よくわかんないけど。客をとるっていうのはつまり、個室があって接客してっていう?」 「イメージとしてはそうだ。お前が使ってるマットヘルスの個室みたいなのもあるし普通のビジネスホテルみたいな部屋もある。ここに集まるのはまあそういう性癖のやつらばっかりだから、それぞれの個室は『そういう仕様』になってる。拷問器具……まあ俺からすると何が面白いんだかわからん大掛かりな仕掛けが各部屋に施されてる。店長んちに呼び出されてたお前なら、大体どういうもんがあるのが想像はつくよな?」  そこでソーマは言葉を切った。私から目を逸らして自分の手元に視線を落としている。  その部屋を思い出した私の表情を、見ないでいてくれようとしているようだった。実際私は張り詰めた顔になっていただろう。あの部屋にあった拘束具。女性を辱めるためだけに設計された器具。身体に痕が残るからと私には使われなかった大型の拷問具。思い出しただけで、胃がきゅうっとねじられたように痛んだ。 「……まあ、ブロンズはそういう店なわけ。店長の肝いりでオープンしてさ。店長は『店長』って名前だけど、うちの店だけじゃなくて実際系列のほぼすべての店舗を取り仕切ってる。でもこのブロンズがオープンしてからはここにばっかりかかりっきりになってるわけ。最近店でも見ないだろ? 新店だからっていうのもあるけど、まあ要は自分の趣味の世界に浸ってるんだよな。あの人、真正のドSじゃん」 「……そうね。あの人、そういうの喜びそう……」  手のひらの汗で、コーヒーの缶がすべって勢いよく足元に転がった。腕を伸ばしてそれを拾って、プルタブを開けてからソーマは私の前のホルダーにそれを置いた。 「悪いな。話続ける。でまあ、ブロンズはきわどいこと……つーかほとんど違法なことをやってる店なわけだよ。本番はありだしやってることは暴行罪だからな。スペシャルタイムは『骨折ショー』に『客参加型生爪はがし大会』に『公開首吊り痙攣鑑賞祭り』だ。どんどん過激になっていく。被害者は……『被害者』って言い方になっちまうのは俺の甘いとこなのかもしれないけど、まあ『被害者』としか言いようがないよな。被害者はうちで稼げなくなったソープ嬢が多い。がんじがらめになってあそこに行くしかなくなっちまった女たちだ。……でな、店長はお前をそこに沈めたくてしょうがないんだな。ほらお前は……なんかそそるもんがあるんだ。ああいう変態からすると」  『骨折』『生爪』『首吊り』。聞きなれた単語ではないけれど、それが店長という人間を介するとありがちなプレイの一種のように思えた。そして『私にはそういう趣味の人間からするとそそるものがある』というソーマの意見も、店長からすでに繰り返し聞かされているものだった。店長やソーマは、私は加虐嗜好をあおる何ものかを持ち合わせていると常々言う。 「話戻すな。で、クソ店長の変態趣味のおかげでうちの系列には大きな弱みができちまったんだ。もともと違法デリヘルなんかもやってたけどあんなのは箱もないしそうそう挙げられない。挙げられてもいいようにトカゲのしっぽを用意して営業してる。でもブロンズはそうはいかない。大金を生み出すドル箱だが、バレれば一発で挙げられる。罪状は色々つくだろな。なにせ行方不明になった嬢はひとりやふたりじゃないんだ。それを嗅ぎつけたのが、佐野さんだ」 「……京介?」  意外な名前が出て、私は訊き返した。ソーマは眉毛をくいとあげると肩をすくめた。なんでもないことのように、軽くなった口調で続ける。 「そ。俺もう色んなもん敵に回すの怖くなくなってきちまったから言うわ。佐野さんは悪魔だ。『証拠は挙がってる』っつってとんでもねえ額をふっかけてきやがった。組への上納金どころじゃない額だ。それを毎月支払えってよ。うちの系列全部潰すつもりだよ。潰れちまっちゃ店長は不始末で組からえれえ目に遭わされるだろう。俺らもな。だからビビってる。あの人を呼びこんだのは、お前」 「……だって! 私聞いたわ。あの人は刑事だって! 警察手帳も見たしどこの警察署にいるのかも聞いた。刑事が風俗店を脅してお金を要求するなんて、そんなばかな……!」 「だから悪魔だって言ってるんだよ。刑事がみんな善人だとでも思うのか?」  ソーマはなぜかははは、と笑った。本心ではないことがありありとわかる笑顔に、私の足元からは痛みに似た冷たい困惑が広がっていく。 「調べたら毎月佐野さんに金を納めることで身を守ってる違法風俗店がいくつかあるらしい。パチンコ屋も何軒か脅しあげてるみたいだしな。その辺の仕組みはお前の方が詳しいんじゃねえのか? あの商売も清廉潔白にやってたんじゃ食っていけない裏稼業だ。けどあの人そろそろ、命が危ないかもな。手を広げ過ぎだ。うちのバックは武闘派だからおとなしく絞られてもいないだろう。問題は佐野さんが死んだあと、だ」 「……京介が殺されることはもう決まってるって言うの? そのブロンズって店にしたって、そんな簡単に人の命を奪うだなんて、そんなばかなこと、変よ!」 「それがこの業界なんだよ。お前だって知らねえわけじゃねえだろう?」  ソーマの明るい口調に、困惑が必然に変わる。そうだ、私は知っている。  この世にはばかなシングルマザーをだまして一夜にして支払い不能の借金を背負わせる輩がいる。私にのしかかるのはその半分。正規の金融機関からの借金ではない。私たちは引き離され支払いが遅れれば取り立ては自分でなく片割れにいく。私が支払いを滞らせばママに。ママが支払いを滞らせば私に。  こうしておけば『飛ぶ』ことがないのだとあの男は言っていた。それはすなわち相手への裏切りになる。私たちは一度もお互いを危険にさらしたことはない。ママもどうにかして毎月五十万円以上のお金をひねり出している、ということ。  それが滞ればどうなるのか、私にはわからない。わからない。本当は少し……わかっているけど。 「だから、な。俺が言いたいのは、ここだ」  ソーマの声からおどけた色が消えた。とても真剣な色素の薄い目は、苦しげに細められ痛みに耐えているようだ。 「逃げろ、みさき。今は佐野さんがお前に執着してるから安全だ。でも佐野さんが死んだらそう遠くない未来、店長はお前をブロンズに沈めようとするだろう。どんな汚ねえ手を使うのかは大体想像がつく。お前はまだ若い。綺麗なご面相だしなんたって頭がいい。うちで働けば働くほどに目は濁っていったけど、十八の頃のお前はこんな業界ではありえないような聡明な女だった。まあこの世界を知らないお前を……俺は食っちまったわけだけど。でも『はじめて』は、俺ぐらいのサイズの男が一番いいと思ったから」 「ソーマ……。うそでしょ?」 「ほんとだよ。優しくしただろ? ワセリンと真珠で武装したドSの店長に処女奪われてみろ。お前、自殺しちまうだろうと思ったから。まあ実際には清純でお堅く見えたお前はこれっぽっちも処女じゃなかったわけだけどな。あほらしいっちゃあほらしいんだけど、一応俺なりの、気遣い」 「……ばかね。バレたらクビじゃ済まないのに。ばか。ばかなんだからほんとに……」  今となりにいる小猿のような男を、私は誤解していたのかもしれない。この男は毎日のように私に絡んできて、だから私は絶望にくれていてもこの男をいなさなければならなくて、辛さも悲しみも、その間だけはモノクロの古い映像のように現実味を薄れさせて、どこか遠くのあるかないかの記憶になって……。 「俺はな、みさき。まじめにお前を自分の女にしたいと思ってたんだ。でも俺じゃもう守れない。逃げろ。どっか遠くで幸せになってくれ。みさき……じゃねえな。お前の本当の名前は、愛」 「ケーサツさえ信用できない世の中だ」  最後にそう言ってソーマは笑った。私は車を降りると、下げられた窓から運転席の猿のような顔を覗きこんだ。 「そうね。何もかもが嘘ばっかりの世の中だわ。信用できるのは自分自身と勤める店のボーイだけ。ありがとう。ソーマ、元気でね」 「……おいおいおい! 明日はまだちゃんと出勤してもらわなきゃ困るんだぜ? すでに予約はいっぱいに入ってるんだから! ……まあ佐野さんは多分来ないとは思うけど。わかんねえけどな。あの人はいつも予約なんかすっ飛ばして『みさきに会わせろ』だから。まあ明日会ったとしてもにこにこしとけ。飛んじまえばあの人だってお前にとっちゃ『過去の人』、だ」  ぷっ、とクラクションをひとつ鳴らして、ソーマは去っていった。私は少しだけその古い軽を見送ってからエントランスに入った。エレベーターホールでエレベーターを待っていると、ふいにその単語が脳裏に蘇った。  『ブロンズ』  私はこの店の名を、本当に知らなかったのだろうか? どこかで聞いたことがある名のような気がした。ほんの少しだけ記憶をたどればその答えはすぐに出た。パチンコ屋に併設の食堂。あそこでいつもと違うメンバーで食事をした、その時。 「にしても最近の『ブロンズ』はホントに気違い沙汰だな。あれなんかの法律に引っかからねえのかな。俺あそこに行きたいばっかりに最近あちこち不義理しててさ」  そう言った男がいた。だらしないジャージと寝ぐせのついた異様に毛の量の多い髪。ハシマだ。ハシマは、ブロンズを知っていた。 「だめですよシマさんー。三丁目でばっか飲んでんじゃないですか? 俺もそろそろ『ブロンズ』行きたいなー。お供しますから連絡下さいよ」  ……そう答えたのは誰だった?  ハシマと笑顔で世間話をするように、その店の名を出したのは、出したのは……。  部屋に戻ると、そこには誰もいない。私は全裸になって毛布にくるまる。  ママは、どうなるのかな。  それだけを考えながら目をつぶると、脳の奥に赤い遮断機の点滅が見えた。
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