第25話

1/1
40人が本棚に入れています
本棚に追加
/33ページ

第25話

 解放されたのは夜だった。 「じゃあな。ごっそさん」と言ってハシマは去っていった。大きな背中が消えた扉が閉まるかと思った瞬間にもう一度開き、そこから入ってきたのは――。 「あっ! 愛ちゃん大丈夫? うわ、痕ついちゃってんじゃん……!」  雅だった。朝は黒いジャージの上下だったのに今はいつもの濃紺のスーツを着ている。私を見つけると駆け寄ってきて革靴のままベッドに上がった。うつぶせに転がった全裸の私を、大きな手が乱暴に表に返す。診察するようにあちこちを見聞しながら「あいつ、やりたい放題やりやがって」と苦々しげにつぶやく声で、やっとすべては終わったのだと私は理解した。 「首も……手も。ぎっちり縛り上げられちゃったんだね。ああ、背中いっぱい血が滲んでるよ。お腹痛い? 真っ赤になってる火傷になったのかな」  雅は私を抱き上げ、赤ん坊にミルクを与えるようにベッドサイドのミネラルウォーターを口にあてがってくる。それはハシマの飲みかけだったけれど、飲料用の水分は一滴も与えられていなかった私は傾けられるままに一気に飲み干した。味のなさに涙が出た。一気に吐き気が込み上げてきた。 「くっせえな。とっととずらかるよ。これ部屋の清掃代取られるやつじゃん。あーナンバー撮られてるか……。まあ足がつくころには高飛びだ。よし愛ちゃん、服着て」  ベッドに転がされたかと思うと、着てきたワンピースが私に向けて投げつけられてくる。けれどこの服は鋏で切られおかしな形になっているからもう着ることはできない。下着も同じだ。 「うわー……まじ変態。そこをそんな風にしてこの服で縛ったんだ。関節キマッちゃって苦しかっただろうね。しゃーないやコートだけ羽織って。急いで。フロントから電話かかってきちゃうから!」  シャワーも浴びない私は、荷物のようにフェアレディZの助手席に転がされた。運転席に乗り込むなりアクセルが強く踏み込まれ、私たちは犯罪者のようにしてこの海のそばのホテルを後にした。  車内の雅はハンドルを片手にしながら、左手でコートがはだけた私の身体をあちこちと確認するようにまさぐってきた。ひどい打撲や骨折がないか、あざはどこにどれだけついているかを確認しているのだった。要は私を病院に連れていく必要があるのかを推し量ろうとしているようだったけれど、雅にそんなことができるはずがないことは誰よりも私が一番良く知っている。 「ごめんね愛ちゃんひとりにして。まさかシマさんが愛ちゃんにこんなことするなんて思わなかった。痛かったよね苦しかったよね。愛ちゃんの綺麗な身体にこんなに痕つけて、シマさんがここまで変態だなんて思わなかったから……」  謝罪の言葉は何度も繰り返された。私は相槌も打たず口をつぐんで対向車のヘッドライトだけをじっと見ていた。光は私の目の奥に入って留まりながら視界の端に流れていく。いなくなる前にまた次の光が私の目の奥に侵入してくる。やがてライトは脳に焼き付くようにして私の視界に一本の線を作り出した。中央から右下へと流れる、真っ白で稲妻のようにわななく光はどこかへ続く一筋の道のようだった。 「ねえ愛ちゃん痛いところない? 俺コンビニでカットバン買ってこよっか? アイスは? ハーゲンダッツ食べたら元気が出るかも。ねえ愛ちゃん、俺の話聞いてる?」  次第に雅の声音が変わってきた。芝居はそろそろ終わりそうだ。私はハシマの体臭が消えない身体をずらして運転席の雅の顔を見た。それだけで吊り下げれられて伸びた腰の骨がくちりと音を立てた。爪を失った両足の小指がずきんずきんと痛んでいる。 「聞いてるよ。アイスはいらない。ねえ雅、私を売ったの?」 「ああ売ったよ」  一瞬の躊躇もなかった。まっすぐに前を向いたままの支配者の本性が私を圧倒した。 「俺のものをどうしようが俺の勝手だ。ここまで手酷く扱われるとは思ってなかったけどな。安心しろ。こんな目に遭うのは今日が最初で最後だ」 「……あんしん? 私、安心していいの……?」 「そうだ。お前は頭が弱いからすぐ人に騙される。こんな目に遭うのはもう嫌だろう? 俺が守ってやる。商品として大切に大切に扱ってやる。クソを食わされるような豚女はもう人間じゃない。管理者である俺がいなきゃ生きていけない。……そうだろ?」  はい、と私は答えたのかもしれない。わからない。私は頭が弱いバカ女。クソを食わされた豚女。  フロントガラスを流れるヘッドライトを数えるでもなく眺めた。はっきりと脳に焼き付いた一本の道は新世界に繋がっているのではないか。そんなことを考えた。だって右下の道の果てでハンドルを握っているのは雅。雅はこんな目に遭うのは今日が最後だと言った。赤い遮断機の点滅に追われるのも今日が最後。やっぱり今日は儀式の日だった。私は明日、雅に手を引かれ稲妻のように長く伸びていく白い道を出発する。行先は新世界。そこで私を待っているのは深く暗い沼のような穴。安心してそこに沈むのだ。すぐそばには雅がいる。  やがて車は私のマンションの前で停まった。私のはだけたコートを直し、ボタンを留めながら雅が言った。天真爛漫な、笑顔だった。 「じゃあね愛ちゃん! 楽しい旅行になるように、俺もうひと仕事してくるから! いい子で待ってて、明日連絡するっ」  部屋に戻って嘔吐をした。一時間も二時間も止まらなかった。ユニットバスに投げ出した身体は痣と火傷だらけだった。あれだけ色々使えばこうもなるだろう。まるで他人事のように私は自分を観察した。洗面台の鏡で見ると首にはきつい首輪で引き回された圧迫痕と、ロープで吊られた斜めに走る赤黒い一直線の縄の痕。良く生きて帰れたものだと、関心すらしてしまう。  全身をくまなく洗って浴槽に冷水を溜めた。火傷した箇所に冷たい水が心地いい。手先や足先は感覚がなくなるまでに冷え切った。冷たくなると動きを鈍らせ永い眠りに入る変温動物のように、私の思考も止まればいいと思った。明日私の支配者が、私を泥の穴に沈めるその瞬間まで。  期待通りに重い眠気が襲ってきた。冷水の中で身体がふわりと浮かび上がったような気がした。このまま死ねるかもしれないと思った瞬間に、私を現実に引きもどす聞きなれた歌声が耳に届いた。  『歌舞伎町の女王』。玄関先に放り出したバッグの中で、ケータイが鳴っている。  誰かが、私を呼んでいるのだ。 
/33ページ

最初のコメントを投稿しよう!