第27話

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第27話

 唯は繁華街にあるとあるビルの名を口にした。私は夜な夜な飲み歩いたりしない人間だけれどそのビルの名は知っていた。地元に多数のビルを持つ不動産会社の名前がついたビル。それぞれに番号が振られている。唯が指定したのは二十六番。コンビニがとなりにあるビルで、その権藤という男は地下月極めの駐車場を数台分借りているのだと言った。  この街の繁華街は大きく一丁目から三丁目までに分かれている。二十六番のビルがある場所は三丁目。ソーマが『ブロンズ』があると言っていたのも、三丁目だ。  私はクローゼットから一番みすぼらしい服を引っ張り出すと袖を通した。黒いトレーナーとスウェットのズボン。お金がない時代に部屋着として着ていたその上下に白のマフラーを巻いた。黒のキャップと伊逹メガネは客からのプレゼント。簡単だけれど、これで誰に見られても私だと気付かれることは恐らくない。  財布を覗くと一万円札が三枚入っていた。引き抜いてズボンのポケットに押しこむ。全額をチェストの引き出しに入れておかなくて良かった。先立つものがないと行きたい時に行きたい場所に行くこともできない。たった三枚のお札が、これほどまでに心強く思ったことは今までになかった。  靴はヒールしか持っていないから一瞬迷った。けれどプレゼントされたゴルフシューズをクローゼットにしまっていたことを思い出す。まだ硬く履きづらいそれに足を入れ、私は部屋を出る。通りに出てタクシーを止め、乗りこむ。  運転手に行先を告げて、手の中のケータイを握り直した。五分もしないうちにその場所に着くはずだ。寒さでなく震えている。私に何ができるのだろう。  そんなことはわからない。でも私が言えなかった言葉を、唯にまで飲み込ませるわけにはいかないのだ。 『誰か助けて』  受け止める者がいればきっと唯はそう叫べる。あの真っ白なマシュマロのように可憐な唯が、すべてを飲み込み絶望の淵で涙に暮れることがないように。  私は今、行かなければならないのだ。  二十六番目のビルは、三丁目の端に建っていた。十階建て程度の小さなビルだけれど小綺麗で新しい建物だった。すぐ隣は細々としたオフィス街になっていて、繁華街との境界を示すかのように半身を夜の闇に溶かしている。  その前でタクシーを降りると、となりのコンビニの前にたむろした男たちの視線が一斉に私に向いた。時間はまだ十時過ぎ。次の店の相談をしているのだろうか。一階には携帯電話の取次店と夜の女性が着るドレス屋が入っているけれど、どちらももう閉まっていた。男たちの背中の向こうには賑やかな夜の街。その手前を曲がり私は二十六番のビルの脇へと回った。  その奥に駐車場を示す看板が見えたのだ。すると地下駐車場へと続くスロープが目に入った。唯が言っていたのはここだ。私はそこだけ喧騒とは無縁のように静まり返った一方通行の歩道を進んだ。スロープの入り口はやけに黄色いライトで明かされていた。新しい靴の底がアスファルトを抱いて音を立てないように、右手を壁につけゆっくりゆっくりとスロープを進んでいく。  ゆるいカーブを描く下り坂は十メートルもなかった。やっと二台の車が離合できる程度の狭いその道を下るとすぐ、壁と一番手前の白い商用バンのすきまにしゃがみこんだ唯が顔だけを出してこちらを見ているのに気付いた。ただでさえ白い顔が真っ青で、目は反対に充血している。手招きに従って腰を落とし、ピンクのジャージ姿の唯のとなりのすきまに収まる。バンの奥の空間から、誰かの罵声と嗚咽が聞こえてきた。これは大変なことが起きていると、直感で私はそう思った。 「……愛さん、ごめんなさい。巻き込んじゃった。茅場さんが話をつけるって。権藤がそんなことで折れるはずがない。あたし、わかってたのに」  目の前の唯は極寒の地で三時間も裸でいたかのようにがたがたと震えていた。 「いいの」と言って私は狭いすきまを唯の後ろに回りこんだ。頭が窓越しにのぞかないよう、中腰の姿勢のままバンのお尻に回ってほこる壁に手をつき駐車場の全体像を探る。  白のバンのとなりには黒いセダンが停まっていた。そのとなりは二台分空いて、一番角に紺色のまた大きなバン。それでこの列はいっぱいだった。向かいにも数台が歯抜けに停まっているようだ。  やけに自己主張の激しい蛍光灯が、紺色のバンの前方、コンクリートの壁にもみ合う数人の影をはっきりと落としていた。 「殺すぞ、てめえ」と潰れた声の男が言った。ぼす、という肉を殴る音、続いて痛みをかみ殺す、低く長いうめき声。  私は白のバンと黒のセダンの間に身を滑り込ませた。駐車場は区画が狭くしゃがんで進むと両肩を車体に擦った。服が汚れるだろうが気にしている場合ではない。後ろを同じようにして唯がついてくる。セダンの助手席のドアの横で少しだけ頭を起こすとそれだけで全体を掴むことができた。  そうか、あれが唯の一生を食い物にしようとしている男。背の低い、五十がらみの下卑たチンピラだった。薄い頭をオールバックになでつけ、派手な小豆色のニットに膨らんだ黒いズボンをはいている。その手下の若者ふたりも似たような仕上がりだ。自分の名前さえ漢字で書くことができるのか怪しいそのふたり組が、両脇から抑え込んでいるのは白い調理服を着た男。その清潔な白衣の胸は真っ赤な血に染まっている。――孝太郎だ。 「あいつの親は金を返せねえと言いやがった。仕方がねえから俺は娘を引き受けた。中学を出してやったのも俺だぜ? しょんべんくせえ小娘がやっと銭を稼げる女になった。それをかすめ取っていこうたあいい度胸じゃねえか」  ぎらぎらと光るエナメルの靴が孝太郎の腹を蹴り飛ばした。ぐふ、と血まみれの口から吐息が漏れる。両脇の男たちは一瞬衝撃によろめいたけれどすぐに体勢を立て直し孝太郎の身体を権藤に向かせる。孝太郎は固く目をつぶり歯を食いしばっているようだった。鼻と口からはおびただしい量の出血が見てとれた。血を散らしながら、孝太郎はゆっくりと口を開く。 「……人身売買は、犯罪だ。自分の意志が存在しない場所で搾取される人生なんて死んでいるのとおんなじだ。金は払う。あの子を、自由にしてくれ」 「面白いことを言うなあ兄ちゃんよ!」  やおら権藤は叫ぶとエナメルの足で孝太郎の股間を蹴り上げた。今度は孝太郎もたまらず苦痛の声を上げた。後ろで唯が小さく声を発しそうになったから、私は振り返るとその肩をつかんで強く首を横に振った。唯は歯を鳴らせて震え声を出さずに泣いている。 「『人身売買は犯罪』だあ? よく言ったもんだてめえこそ唯を金で買おうとしてんじゃねえか! ……けなげなもんだな。じゃあ教えてやるよ。唯はもうなげえこと俺の女なもんでなあ、そろそろ籍を入れてもいいかなんて思ってんだ。夫婦ならどう扱おうが民事不介入。十二の年に泣きわめく唯を女にしてやったのはこの俺だ。これから先の人生、旦那様のために尽くしてもらったって罰は当たりゃあしねえだろう?」  ――悪魔だ。  ぐちゃぐちゃの顔をして嗚咽をこらえる唯の身体を、気付けば私はかき抱いていた。あの男は悪魔だ。車と車の狭いすきまでマシュマロのような身体を抱く。 「知られたくなかった」とその時唯が言った。音になった絶望はこぼれ落ち、私の鼓膜を打った。  それを聞いた瞬間、私の中でぷくん、と何かが弾けた。大きくはないその破裂がきっかけになって、また脳内に冷水が注がれるような錯覚を覚えた。視界がクリアになり、同時に後頭部が開いてもうひとりの私がそこから見ているような気がした。不思議な感覚だった。自分が二倍に広がったなったようなおかしな感覚。  今なら何でもできる。そう思った。 「唯ちゃん、この車の後ろに隠れて。もう何も、見ちゃだめ」  震える耳元にささやいて、私はしゃがんだまま唯を白いバンの後部にいざない壁の角に座らせた。立てた膝に顔をうずめた唯は小さな子供のよう。このあどけなく愛らしい女の子を汚した男がそこにいる。私は、考えなければいけない。  この子を救うのだ。その方法を探すのだ。私はあの時まだ子供で、だから大人に騙されここに来た。搾取されそれに甘んじ、目の前の興奮と快楽で感覚を麻痺させて考えることを放棄した。私は、死んでもいいとすら、思っていた。  立ち向かうぐらいならすべてを投げ捨ててしまえばいいと。ついさっきまでそう思っていた。支配者に全権を引き渡し目を潰して喘ぎ死のうと。それが唯一の安息だと思っていた、私は――。  再びバンとセダンのすきまに戻る。しゃがんだまま移動すると腹部と太ももの間に固い感覚があった。ポケットの中の、携帯電話だ。  そう、携帯電話。このP2102Vは最新モデル。今までの機種にはない性能を持った最上位機種。  どこまでやれるかはわからない。でも、何もしないなんてあり得ない。頭を使って抗うのだ。唯を自由に、孝太郎を自由にするには、どうすればいいのか。 「……で? いくら持ってきた。五百万は確かに大金だ。一時に準備するのは大ごとだったろう。とりあえずの金を出してみな。おめえの誠意、見せてもらおうじゃねえか」  その言葉を合図に、孝太郎の腕をそれぞれにひねり上げていた男たちが手を緩めた。孝太郎は地面に崩れ落ちるようにして倒れこんだ。その髪の短い頭をエナメルの靴がぎりぎりと踏みつけた。私の手が、震えた。 「ほら。出せよ。いくら持ってきた? お前にとって、唯の値段はいくらだ?」 「ぐ……っ。あ、しをどけろ」  うめきながら孝太郎はどうにか起き上がろうとしていた。手をついて身体を起こそうとするけれど下品な靴がそれを許さない。そのうち這いつくばったまま懐に手を差し入れているのがわかった。そこからつかみ出した紙の束を権藤の足元に叩きつけると、脇を固める男たちが歓声とともに競うようにしてそれを拾い上げた。札束だった。 「ひのふの……四百か。おいおめえら、中を確かめな。ちいと足りねえな。俺は五百と言った。さあ、この不足はどうしたもんかな?」  権藤は笑っていた。邪悪な顔をした小男は、孝太郎踏みつけたままポケットからケータイを取り出すとどこかへ発信したようだった。すぐに会話が始まり、「おお、取りに来い」とだけ言うとすぐにケータイを元通りポケットにしまった。そして孝太郎の頭から足を離したかと思うと、思い切りその腹部を蹴り上げる。 「こういう半端が一番いけねえんだよ……。俺たちはビジネスをしてるんだぜ? 惚れた女を買い上げようっていうんならきっちり耳をそろえて金を用意しなきゃなあ。……お、もう来たか。兄ちゃん、お友達のお出ましだぜ」  地面の孝太郎は腹部を押さえ苦しげに身体を捩じっている。ろっ骨が折れたのかもしれない。そんなことを思う間もなく私はバンとセダンの間深くに後ずさりした。車が入ってきたのだ。この地下駐車場に、重低音を漏らしながら一台の車が滑り込んでくる。 「……え?」  二台の車の間で身を固くしながら、目前を通り過ぎた車に私は目を見張るしかなかった。思わず声が漏れた。その車は車高の低い赤いスポーツカー。私も乗ったことがある。少し古い型のフェアレディZ。  車が黒のセダンのとなりに駐車したようだ。誰かが運転席から降りてくる音がして、私はもう一度ケータイとともにもう一度助手席のドアまで進む。頭を起こすと、そこにいたのは私を支配しようとするジャージを着た背の高い男。 「待ちくたびれましたよー。どこに停めてもすぐ知り合いに声かけられちゃうんですもん。んなことやってる間に女に客ついたんでそこのホテルに送ってきました。そろそろ終わるころだから、迎えに行かなくちゃ」  いつもの天真爛漫な雅が、醜悪な権藤に笑いかけている。ジャージのポケットに両手を突っこんだまま。犬のような愛くるしい笑顔。私の呼吸は止まる。ケータイを、思わず取り落としそうになってしまう。 「仕事熱心なことだな。まあ若いうちは這いずり回って稼いどけ。しかし『コマシの雅』たあよく言ったもんだ。金になる女が切れねえんだからよっぽどの一物を持ってるに違いない……なあ、兄ちゃんよ」  権藤が孝太郎の鼻先をつま先で小突く。雅、権藤を止めて。私は祈りに近い哀願を雅に向ける、飛ばす。でもそんなものは届かない、届くはずがない。雅はしゃがむと、血まみれの孝太郎を覗きこみ明るく言い放ったのだ。 「もうー、こーちゃんたら。人の彼女に手えなんか出しちゃ絶対だめだよ。おいたしたら怒られるのは当然のことだから。それ相応のおわびの姿勢は見せなきゃね。もういい大人なのに、人として恥ずかしいよ?」  そして健康サンダルで踏みつける。孝太郎の頬を。足を捩じるからぎりぎりと肉をひねる音がする。横顔の雅は笑っている。笑っている。笑っている。傍らの若い男たちが雅に四つの紙の束を渡す。受け取る雅の足はまだ孝太郎の頬に載っている。一瞬支配者の横顔を見せて、目線を落として、親友だと私が思っていた相手に唾を吐いて、それから権藤ににっこりと笑いかけて言った。 「ダチの不始末つけてくださってありがとうございました! こいつの誠意はしっかり俺がお預かりしましたから! あとはよろしくお願いします! じゃ、失礼しますっ」  最後に長い脚が振り上げられ孝太郎の顔面にさく裂した。ぼこっ、という打撲音の中にぐしゃりと何かが潰れた音がした。きっと鼻骨が、折れた。  扉が閉まりエンジンが目覚めるとともにまた重低音が早いリズムを刻む。残った三人の悪党はまた暴力の限りを尽くす。コンクリートの上をつるつるのタイヤが滑って高い悲鳴を上げた。嫌な匂いをさせてフェアレディZがスロープを走り去る。私は思わぬ人物の登場と退場に唖然とするしかなかった。右手の手首を左手でつかんで、何とか正気をたもつだけで精いっぱい。  だから気付かなかったのだ。走り去る車の後にまろび出た人影に。それは一番かくまわなければいけなかった可憐な少女。 「ぎいやああああめてええええええええっ!」  唯が、黒のセダンを蹴るようにして飛び出したのだ。声にならない絶叫を上げ孝太郎に覆いかぶさる。居並ぶ三人の悪党がたじろぐのがわかった。今にものどが潰れそうな唯の慟哭。けれどたちまち若いふたりが唯を孝太郎から引き離す。孝太郎にしたように左右から唯を拘束し、叫び続けるその白い頬を権藤は拳で殴りつけた。そこに、一切の力の加減はなかった。 「……ついてきてたのか。本気らしいな。ばかな女だ。仕事はどうした? 放り出しやがって」  もう一度拳。きゃん、と子犬のような悲鳴が上がる。ピンクのくちびるから血しぶきが散ったのが見えた。這いつくばっていた孝太郎が突如ばねのように跳ね起きたけれど、それは一瞬で権藤の足技にまた地べたにひっくり返った。正面から蹴られた膝が、おかしな音を立てた。  ぎゃああ、ぎゃああとコンクリートに反響する唯の金切り声。その奥で権藤のつぶやきに近い捨て台詞が漏れる。これだ。これを私はとらえなければいけないのに。 「……兄ちゃん、おめえもいいお友達を持ったもんだ。『情報料は一割でどうですか』だとよ。まだガキのくせに脅しにコマシにピンハネ上手な立派な詐欺師だ。友達は選べとは、昔の人はよく言ったもんだな」  今度は唯のみぞおちに拳。絶叫が途絶えた。唯が、権藤の手に戻った瞬間だった。 若い男の片割れが唯を引きずったまま紺色のバンの後部座席を開ける。もうひとりは運転席の扉を開けたらしい。唯が後部座席に押し込まれる。連れ去ろうというのか。私は思わず駆けだしそうになる身を必死にこらえた。それでは元も子もない。私が見つかるわけにはいかない。 「……唯をっ」  助手席の扉が開いたようだった。権藤が乗り込もうとしたのだろう。私はバンとセダンの間に身を深く沈めたのでその様子はもう見えない。叫ぶ孝太郎の声だけが聞こえる。血だまりを噴き出しているような不明瞭な発音。でも、その声音に一切の恐れはない。毅然としたその声に、私は歯を食いしばる。 「唯を置いていけ! 残りの金は必ず用意する! 四百万、渡しただろう! 残りは分割必ず渡すから、唯を、唯を、唯を、解放しろ!」 「……なんのことかねえ」  人を食った、とはこういう口調を指すのか。見えないけれどきっと笑っている権藤が最後にどろりと吐き出したのは、真っ黒で臭気を放つ汚物によく似た絶望だった。 「そんな金、もらったかなあ。俺の手の中にはねえみてえだが。金ってやつには名前が書けねえ。はて、記憶にねえなあ……」  ばたん、と音をさせて、ドアが閉まったようだった。それからパワーウインドウが開く音がして、「待て」と孝太郎は言ったのだけれど……。 「さあ、耳そろえて五百万持ってきな。そういう約束だったよなあ? 俺はもういじり倒して飽きちまった。金さえだしゃあこの女、お前にやるぜ」  ぶおん、と排気音。ディーゼル車特有の匂い。私は唯を座らせた壁の隅に身をひそめる。痛い。心臓が焼けそうなほどに熱い。叫び出したい。あの紺の車を追いかけて唯を救い出したい。  でも激情に駆られれば間違いなく自滅する。唯を乗せたバンがスロープに消えていくのを感じながら、手の中のケータイをポケットに戻した。孝太郎は。孝太郎は、無事なのだろうか。 「こ、こ、孝太郎っ!」  コンクリートの床は砂と埃と煤にまみれていた。そこに孝太郎がまるでぼろきれのようになって打ち捨てられていた。ぼろきれの方がまだましなのではないかとすら思った。抱き起した孝太郎の鼻や口からはしたたかに血が溢れ出していて、灰色になった調理服をさらにどす黒く染めていた。私の腕や手にも血が滴る。 「生きてるっ? 孝太郎、すぐに救急車を呼ぶからっ」 「いや、い、いや駄目だ愛ちゃん! 救急車はだめだ。それじゃ唯に迷惑が……!」  すでに変形した赤黒い顔の孝太郎が、それでもはっきりと私を拒絶した。開いた口には前歯がない。口の中に血が溜まっているのが見えた。こんな状態で救急車を呼ばずにいたらきっと死ぬ。私は聞かずに右手でポケットのケータイを取り出した。  二つ折りのそれを親指一本で開く。けれどたったの三桁のその数字を押す間もなく、孝太郎は私の手からケータイを奪い取った。これだけ痛めつけられて、まだ俊敏に動けることに驚いた。ケータイを握って、孝太郎は私の膝を吐血で濡らしながら言う。 「病院は警察に通報するよ。俺が口を割らなくてもこの駐車場には防犯カメラがついてる。警察があの男にたどり着いたら、あの男は唯に何をする? 俺なら大丈夫だから」 「そんなっ。大丈夫なわけないじゃない! 私全部見てたのよっ、唯ちゃんから電話がきてそこの陰で一部始終を」 「そっか……。じゃあどうして唯を止めてくれなかったんだよ。あのまま帰さなければ俺のものになったのに。どうして唯を逃がしてくれなかった。もう五百万なんて金を作ることはできない。チャンスが消えてしまった。もう、俺に唯を救うことはできない……!」  ほとんど開かない目から、どくどくと涙があふれていた。私は反射的に灰色の調理服を抱き寄せる。同じように泣いていた唯にしたように。  ああ、ああ、と声を上げて孝太郎が泣く。血まみれの頭の重みに、高ぶる感情とは裏腹にまた脳は冴えていく。私は考えなければならない。  まだチャンスは消えていない。打つ手はある。唯と孝太郎、このふたりが自由になるために。  打つ手はある。血まみれの手からケータイを受け取りながら、私は息を詰めすべきことを考える。
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