第28話

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第28話

 繁華街のラブホテルには何回か来たことがあった。  けれどあのビルから一番近くにあったのは、新築で私の知らないホテルだった。孝太郎に肩を貸し、出来る限り何食わぬ顔で踏み込んだそこは、今風にタッチパネルで部屋を選べる方式になっていて安堵した。フロントを通れば通報されていたかもしれない。  けれど部屋に入るまで安心はできなかった。誰かをホテルに送っていたという雅に出くわす可能性がある。けれどあの天真爛漫な笑顔に見つかることはなかった。私たちはまだ、そこまで運に見放されてはいないらしい。  室内は十二畳ほどの広さだった。白を基調にした清潔な洋室。部屋の隅には大花火の実機が置いてある。もちろん今はそんなものを打っている時ではないはずなのに、孝太郎はその前の簡素なパイプ椅子に腰を下ろした。そのまま筐体に肘をかけて上半身を預け切ってしまうのは、おそらくベッドやソファを止まらない血で汚さないようにという無意識の配慮に違いない。  私は脱衣所から白のバスローブを持ってくる。「脱いで」と言うと筐体に突っ伏したまま右手だけが動いて調理服のボタンを外しているようだった。外し切ってぶらりと右腕が垂らされると後ろからその服を脱がしにかかる。中に着ていた白のTシャツまでもが同じように灰色に染まっていた。きっと胸のあたりはどす黒い染みができている。無理にそれも脱がすと、上からバスローブをかけて汚れた衣服を手に脱衣所に戻る。洗面台にそれを投げ込み、アメニティのボディソープを振りまくと上からざぶざぶ水を注ぐ。  ついでにハンドタオルを二枚水に浸し、硬く絞った。部屋に戻り大花火の前の孝太郎のうなじを拭う。  びく、とバスローブの背中が震えた。「どうして唯を止めなかったのか」と私を責めた孝太郎を、これ以上傷つけたくはなかった。私は注意深く声色に気を遣って口を開いた。 「これ。顔、拭きなよ。こういうところのタオルってどうせクリーニングに出すんだって。だから汚れても迷惑かからないよ。フロントに電話して救急箱借りるね。とりあえずの応急処置、私がするから」 「……いい。救急箱とか怪しまれるだろ。騒ぎにしたくない」  それだけ言って孝太郎はまた身じろぎもしなくなった。唯を見殺しにした私を拒否しているのか。でも私は聞かずにベッドサイドの電話の受話器をとった。ワンコールで出た電話の向こうに「救急箱を貸して下さい」と頼む。 『何かありましたか』と訊かれたけれど、「爪が折れてしまって」と言えばそれ以上は追求されなかった。  すぐにきんこん、とチャイムの音がして、入り口のドアのとなり、食事の提供に使われる小窓から木製の小箱が差し入れられた。私はそれを手にすると部屋の隅の大花火を抱きかかえる孝太郎の側に寄り、その肩に触れる。 「まだ……」  自分に言い聞かせるように。 「まだ終わってないよ。ちゃんと手はある。考えよう。そのためにも治療しなきゃ。いざって時、動けないんじゃ何もできない」 「『まだ手がある』?」  孝太郎が顔を上げた。岩のように腫れ上がった顔面からはまだ血が滴っていた。そして、涙も。 「何ができるって言うんだ! 唯は連れて行かれた! すぐにどこか遠くに売り飛ばされる! 一生檻から出られず人生を終えるんだ! これ以上俺にできることなんて」 「ある。あるわ。私たちにできること。ねえ孝太郎、これ見て」  私はその場で黒いトレーナーを脱ぐ。胸元から首筋についた痕を孝太郎に見せた。蚯蚓腫れの背中。靴下を脱いで爪を失った小指も。その血豆のような傷跡を見た時に孝太郎の赤黒い顔に苦悶の表情が浮かんだのが見てとれた。喉の奥からきゅうっと小動物の鳴き声のような音を出して、途方に暮れたように泥だらけの手で口元を覆う。 「……雅? あいつ君にまで、そんなことを」  そう、雅。私は黙って頷く。孝太郎の頬を踏みつけた雅。唯の恋心を金にした。たった四十万で孝太郎を売り唾を吐きかけ去っていった。私が盲目的に命を預けようとした男は、愛らしい少女を売春婦にし親友を足蹴にして笑う最低な男。  抜け出ることのできない迷路の最後の突破口だった。雅と行く先には新世界があると信じた。快楽の先には死。すべてを放棄すれば安楽。抗いようのない支配者に屈すれば誰を見殺しにしても許される。 『ごめんなさいママ』。そう言ってもきっと許される。『そんな男にたぶらかされたのママもそうだったのよ愛、これでお互い様ね』。そしてママはかんかんかんかん赤い轟音の下敷きに。私は白い世界の黒い穴に。やっとふたりは解放される。目の裏の遮断機が長い点滅を終え残るは静寂。私が欲しかったのは赦し。そのために、潰そうとしていた目を。  開いたのは唯だ。私は私だった唯を救うために目を開く。傷つけられた身体は力を取り戻し武装する。痛い痛いと泣いているのか。あきらめ投げ出し誰かの思惑通り魂の死を迎えるのか。  選ぶのは私だ。 『自分の意志が存在しない場所で搾取される人生なんて死んでいるのとおんなじだ』。そう言った孝太郎に、私は渾身の力を込めて言い放つ。 「私、もう委ねない。雅に身体も命も差し出してもいいと思ってた。でもそれは間違い。私の人生は、私のもの」  ポケットの中のP2102Vを握りしめて。 「出来ることはすべてする。唯を必ず取り戻す。あきらめたらもう戻らない。あの子を見殺しにすることは、私の半分が死ぬことだって、私、わかっているのよ」
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