第30話

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第30話

 その男は白いセダンで駐車場に現れた。その前の電話にはいつもの飄々として声で答えた。重みも何もなかった。 『会いたかったよ。忘れられてなくて良かった。気が変わった? 連絡来るの、待ってた』  この男も結局は同じ穴のムジナなのだと私は知っている。ソーマは「佐野さんは悪魔だ」と言った。雅や権藤と根っこは同じ。違法風俗店を脅し痛い腹を抱えるパチンコ屋を脅し私腹を肥やしているのだという。ブロンズで行われていることも知りながら、搾取される女の子を救わずにそれをネタに金銭を要求した。この善人ではない刑事は手を広げ過ぎて命すら狙われている。  私に「もうこれ以上傷つかなくていい」と言った。「本気で好きだ」とも。でもその本気はただの浮気だ。 「俺は結婚してる」 「だから君のすべてを欲しいなんて言わない」 『すべてはいらない』とは『必要なところだけをつまみたい』ということだ。悪魔が気まぐれに私に興味を示しただけ。刑事だと明かし雅と別れろと言った。私を脅かしただけで救う気なんてありはしない。 「抱えてるものを軽くしてやることはできる」とは『多少のお手当てを出してやる。お前の出方次第でな』とでも訳することができるだろうか。  信用してはならない。わかっている。でも私は電話をかけた。この男の力が、今の私には必要なのだ。  一度帰って身支度を整えてから、十時に待ち合わせたパチンコ屋の駐車場に向かった。一番端の角にフェンスに向かって前進駐車したその車の助手席に、トートバッグを手にした私はなんの躊躇もなく乗りこむ。公務員に買える金額ではないはずの白い国産最高級車。悪魔はいつも通りの長い前髪で目元を隠し、けれど気安い顔をして笑う。 「……なんか久しぶりだな。良かった、また顔が見えて。今日は『みさき』なのかな。営業用の顔じゃないから『愛』か。大人の忠告を聞く気になった? 俺、本気で心配してたんだよ」  言いながら、京介は車のエンジンを切った。ここから移動する気はないらしい。助手席に若い女を乗せているところを誰かに見られるのを恐れているということだろうか。あさましい。軽蔑が湧いてくるけれどそれを表情には出さずに私は口を開いた。 「ええ、そう。私あなたに助けてもらおうと思うの。雅の小狡さにはもうついていけない。でも、しつこいから」 「そうか……良かった。目が覚めたんだな。あいつは天性の悪党だから、もうだめかと思ってた」  京介がそう言いながら右手をドアとシートのすきまに差し込むと、運転席のクリーム色の皮のシートが電動音とともにゆるく傾いた。雅の型遅れのフェアレディZがみすぼらしい車であったことに、今さらながらに私は気付いた。 「天性の、悪党? 雅が、悪党だって言うの?」  あなたが言うの? という意味を込めて私は訊き返した。けれど京介は違う意味に受け取ったらしい。ふん、と鼻を鳴らして笑ったようだった。 「そう。『私は雅のもの』なんて言うくせに『雅のことなんて何ひとつ知らない』なんてのはな、君もあいつの常套手段にハマってたってことだ。素性を明かさず綺麗さっぱり女を洗脳する。コマシの雅なんて呼ばれ始めたのはあいつが十三の頃だった。最初に俺があいつを補導したのが売春の斡旋」 「売春……」 「ああ。クラスの女子生徒を定年退職したじいさんたちに売りつけてたんだ。交渉の場所はなんと市立図書館。どうして年寄りにターゲットを絞ったかを聞いて呆れた。『ジジイなら弱いしその後も脅しやすいから』『ジジイとヤッてたなんてダサくて女も口を割らないから』。……天才だろ。売春は売る側から足がつくことがある。特に中高生なんてのはイキがりたい年頃だから、すぐ友達に漏らして噂が立って足がつく。まあまだその頃はあいつもひよっこで、締め上げがすぎて人がひとり死んじまった。七十過ぎのじいさん。女に写真を撮らせてそれをネタにだいぶ巻き上げたらしい」  思い出話をするかのように、フロントガラスの向こうに目をやりながら京介は言った。十三の時から狡かった雅。取り締まる側の立場であるはずなのに、やんちゃな後輩の未熟さを嗤うような軽さで京介は続ける。 「その後もあいつはトラブルを起こし続けた。カツアゲ、恐喝、十八番の売春斡旋。手にする金額も半端じゃなかった。その頃少年係をやってた俺は週に一度はあいつの顔を拝んでた気がするよ。俺の顔を見るとあのクセのない笑顔でニコッとやるんだ。『刑事さん仕事を増やしてごめんなさい。次はバレないようにやるからね』なんてな。怒鳴ろうが脅そうが効きやしない。少年院に入っても大した罪状じゃねえからすぐ出てきちまう。しまいには妙にあいつが気になって仕方なくなってたよ。あれを『人たらし』っていうんだろうな。あいつの天性の才能。女があいつに騙されるのも仕方ないことなのかもしれない。君もな。身体に叩きこまれたって言う女もいたが」  ちら、と視線がこちらを向く。私はタートルネックの首元を引き上げる。  そろそろ話を本題に持ち込まなければならない。咳払いをした。また充電が危ういなんてことになったら、計画が水の泡になってしまう。 「……そう。雅は本当に悪党なのね。私、気付けて良かった。でももう雅は私をお金にするつもりになってる。あなた、私を助けられるの?」 「『助けられるの』って。ひどい言われようだな。俺は刑事だよ。大体あいつは捕まる理由なんていくらでもある」 「いくらでも? 例えば?」 「例えばって……!」  そんな簡単なことを今さら訊かれるとは、とでも言いたげに、京介はいくつかの例を挙げた。その中には私の知らない事実も含まれていた。  パチンコ屋に『ゴト師』と呼ばれる不正集団を引きこみ、その手引きをしていること。泥酔させた女性を集団で乱暴し写真を撮影して脅していること。勤めているホストクラブや周辺のスナックなどから窃盗の被害届が出されているということ。そして、雅の周辺で数人の女性が謎の失踪をしていること。  まるで今すぐにでも捕まらなければおかしいほどの罪の数々だった。私は素直な気持ちで訊いた。 「そこまで知っていて、どうしてあなたは雅を捕まえようとしなかったの?」  すると京介は面食らったような顔になった。 「……どうしてって……。いや、俺は生活安全課の人間だから。成人になったあいつをしょっ引くのは刑事課の仕事なんだ。大体証拠も固まってないし、俺にはその権限はない。俺の範疇で仕事は色々あるし、あいつのことにまで構ってる暇は……」 「じゃああなたには雅を捕まえようなんて気はないってことね? なのにどうしてあの店で私を指名したの? 店のボーイはあなたを呼びこんだのは私だって言ったわ。まさか偶然だなんて言うんじゃないでしょう?」 「ああ……、ああうん。わかった、じゃあまあそこは認めるよ……!」  はあ、と大きく息を吐いて京介はハンドルに腕をつき顔を伏せた。痛いところを突かれた、と言わんばかりだった。 「俺の所属する部署は保安課って言ってパチンコ屋だの風俗店だのの取り締まりをするところなんだ。夜の街にも出入りするからあいつのことは耳に入ってた。その相変わらずの悪たれ坊主が、君を連れてるのがパチンコ屋の事務所から防犯カメラ越しに見えた。『女神』って呼ばれてるって店の人間が言ってたっけな。君が次の犠牲者かと思うと、なぜかわからないけど居ても立ってもいられなくて」 「それで私を付け回して調べたの? 仕事の範疇外なのに? 私が風俗嬢だなんて知るはずがないのに」 「そう、そうだよ。俺の相棒は大の仕事嫌いでな。お気に入りのソープに一日中入り浸ってるような人間なんだ。お姉ちゃんの上に乗っかって書類を一枚書けば仕事はおしまい、だから俺も毎日ヒマでしょうがない。内偵の顔をして君を指名したが別に悪いことをしたわけじゃない。俺は君に一目ぼれした。会って話して本気になった。それで実際君は目が覚めたんだ。いいだろう? 結果オーライってやつだ」 「そう。ずいぶん安い本気なのね。じゃあこれは? 仕事嫌いな保安課のあなたはどうやって私を助けるつもり? 雅を逮捕する証拠も持ってない。結婚していておおっぴらに動くこともできない。今だってこうやってこそこそと隠れてる。奥さんのお父さんは県警のトップに近い場所にいるんですってね。ねえ、どうするの?」 「そんなものは……!」  一瞬、京介が声を荒らげた。先ほどのわざとらしいため息は演技だったとわかる、本気の狼狽が垣間見えた。  でもそれは本当に一瞬だった。吸い込んだ息を飲みこみ、京介はくす、と笑う。 「……どうとでもなるんだよ。俺は夜の闇社会に通じてる。裏から手を回せばあいつひとりぐらいいつでも消せる。俺の一声で、やつらはなんだってやるんだよ」 「そう……」  膝に乗せたトートバックに、私は目を落とした。P2102Vが一番上に見えている。最後のひと言を、口にさせなければ――。 「心強いのね」  笑ってみせる。商売用の、『みさき』の笑顔で。 「聞いたわ。あなたはいろんなお店を脅してるんですってね。うちの系列のブロンズって店も。ボーイが頭を抱えてたわ。系列全部潰されそうだって」 「……そんなことまで知ってるのか。違法営業を見逃すわけにはいかないんでな。俺は警察官だ。悪を叩いてる。それだけだよ」 「私ね、ほんの少しだけお金が必要なの。すべてを捨てて逃げる気だった。毎月の支払いがキツいんだもん。あの店で働いてたんじゃそのうちブロンズに沈められちゃいそうだし。……ねえ。もしあなたに毎月決まって入ってくるお金があるんなら、私に少し、回してもらえない? もちろんただじゃないわ。いい子にするから……」 「……そうか……」  京介の手が伸びてくる。膝のバッグを私の足元に下した。それからその手は頬にそえられ、耳元にくちづけが降り、そして、はっきりと口にした。 「ああ、いいよ。クソみたいなやくざ者に警察権力ちらつかせて巻き上げたあぶく銭だ。俺はこの額の傷をつけたやくざどもを死ぬほど憎んでる。君が俺に心から忠誠を誓うなら、毎月いくらか融通しよう。あいつらに騙され必死に生きてきた君には、俺がやつらを脅し上げて奪った金を受け取る権利がある」 「ありがとう……」  長いくちづけ。コートのボタンを外してセーターの胸元に京介の手が入ってくる。   スーツの膝が助手席のシートに乗り上げてきたから、私の首筋をひげの感触がくすぐる前に……。 「最後までしてくれる? ここで。奥さんを、裏切ってくれる?」 「ああ。忠誠を誓えるならな。俺がいなきゃ一生借金に追われる生活だ。もう俺を裏切れない。そうだろ? 哀れで可愛い愛。一生、俺のものだ……」  ――もう、いいだろう。  私は首をかくすタートルネックをそっと引き上げた。手の甲に無精ひげが触る。異変に気付いて京介が不思議そうに私を見る。息が止まる。その無垢な目に吸い込まれた。この男が哀れだ、と思った。  正義の振りかざし方を間違えたこの男は、きっと私と同じ人種だ。私とは違う方法で目の前の恐怖から逃がれようとしている。その果てに自らの命が狙われていることを、この男は知っているのだろうか……。 「……ごめんなさい。私、嘘をついた。本当はあなたのものになる気なんてないないのよ」 「……は?」  すっ、と京介の身体が私から離れた。一瞬で警戒の色が目元に浮かぶ。この男は百戦錬磨。私の言葉の意味を瞬時に理解したに違いない。 「どういうつもりだ。五十嵐に送りこまれた? それともブロンズか。俺を脅す気か? でも何の証拠もない。嫁の実家にでも行くか? 風俗嬢のたわ言なんか誰も信じない」 「そうね、誰も私の言うことなんか信じてくれない。私だって大人の言うことなんか信じない。だから、あなたの言葉を録音したのよ」  足元のトートバック。取り出したのはP2102V。 「テレビ電話。ほら、あなたの顔を映したわ。これ、今通話している相手がいてね。録画してくれているの。この車に乗った時からのすべての会話がこちらの手にある。このケータイを奪っても壊してももう遅い。あなたは、もう私に逆らうことはできない――」 「金か」と京介は言った。百戦錬磨だからこそ、自分の置かれている状況を明確につかんだんだろう。毒づくことも、暴れることもしなかった。  だから私は京介に要求をする。お金じゃない。京介にしかできない、脅しでもしなければ絶対にこの男が腰を上げようとしない些末事に、手をつけさせるために。 「違うわ。難しいことは言うつもりはない。簡単なことよ。女の子をひとり、法の下で正しい手段を使って、救って欲しいの」
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