第6話

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第6話

 その夜には私の部屋に雅がいた。そんなつもりはないはずだった。けれど深夜の突然の来訪を断るには、私の身体は疲れきってしまっていたのだ。  電話が何度も鳴った。次第に間隔は詰まって十分おきに鳴るようになった。着拒にする元気もなかった私は、次第に腹立たしくなってきた。私がこんなに疲れきってシーツをチョコアイスで汚したのは、一体誰のせいだと思っているのだろう。  もちろん私は途切れない客に疲弊させられていた。出勤直後からフルで客がつくのは正直しんどい。でももう三年もやっているから慣れたものだ。ヘルスの仕事というのは講習でセオリーを叩き込まれるから、覚えてしまえば流れ作業でどんどん客をさばくことができる。にこにこして世間話をしてから、身体を触らせローションまみれにして最後には決められた技を使って抜けばいい。  最早私にとって、その一連の流れはルーティンでしかなかった。今日のように変わった客が来ることはは珍しいけれど、それ以外は目をつぶっていたってできる自信がある。男の身体のつくりなんてみんな一緒。触りたいところもしたいことも判を押したように同じなんだから、あとはローションまみれのエアマットの上で体勢を崩さないように注意さえすれば、頭の中で好きな映画を再生していたって客は満足して帰っていく。  でも、出勤の前にセックスをしてしまうとだめなのだ。とたんに私の身体は消耗する。いちいち与えられる客の下手くそな愛撫にも感じてしまう。火がつくということなのだろうか。消火するまで私は、演技ではない喘ぎ声を上げしまいには泣かなければならなくなる。それが客の加虐志向を刺激するとかで、みさきというヘルス嬢のさらなる人気につながると言ったのはソーマだった。  とにかく、私がこんなにぐったりしているのは雅のせいなのだ。なのにあの能天気な顔で笑う男は、この上まだ私の身体をまさぐろうというのだろうか。  椎名林檎のCDが低くかかる部屋に、何十回目かの『歌舞伎町の女王』が鳴る。ちょうどコンポも『歌舞伎町の女王』を流していて、メロディが輪唱のように重なった。  ――その瞬間、私の中で何かが弾け飛んだ。キレた。頭が真っ白になって心臓が倍の大きさに肥大した。  飛び起きて今まで敷いていた枕を掴むと、息を止めてアイボリーの布団カバーに叩きつけた。イラ立ちをすべて詰めこみ気が済むまで振り下ろした枕は、バフっと音をさせて無残にも破れてしまう。  周囲にふわふわの鳥の羽根が飛び散った。部屋を舞う羽毛はまるで天使の羽根のようだった。私の中の怒りも羽根とともに霧散した。とても綺麗で繊細なこの浮遊物にうもれて眠れたら、どんなに気持ちいいだろう、そう思った。  止まらない『歌舞伎町の女王』を自分の手で止める。電話の向こうで、雅は通話が始まったことに驚いたように、『わっ』と小さく声を上げた。 『……良かった。出てくれたんだ。愛ちゃん? 怒ってる?』  怒っている、と言ってやろうか。  非常識な鬼電。私は「明日電話する」と言ったのだ。それは『今日』ではない。電話に出るという約束もしていない。私は、間違ったことは何もしていない。  けれど沈黙を恐れているのか、次に口を開いたのも雅だった。 『ごめんね。もう俺どうしていいかわかんなくて。どうしていいかわかんない。部屋の前にいるよ。おねがい、鍵開けて』 「……今日も、する気?」  一番冷たい声で訊いた。怒られた子供のように、雅からこぼれるのはとぎれとぎれの言い訳。 『しな……い。愛ちゃんが嫌なら、しない。したいけど……しないから、おねがい、ドア開けて……』  捨て犬のような雅は玄関で私に抱きついてきた。何に対してかはわからないけれど「ごめんなさいごめんなさい」と謝った。  私は「苦しいから離して」と言ってその腕を振りほどいて再びベッドに横になった。枕はぺたんこになり、動くたびに羽根がふわふわと舞い上がる。 「愛ちゃん、天使になっちゃったの?」  雅がコートも脱がずにベッドの私に覆いかぶさる。コートの下はスーツ姿。鼻をグズグズいわせている。雅の背後にも舞う白い羽根。  私はそれを見てもういいかという気持ちになる。ちょっと笑って、雅の頬の涙を指で拭ってから言った。 「ううん、そんないいもんじゃないの。羽根をむしられて焼かれそう。捕まって丸裸にされて、焚き火に投げ込まれてこんがりおいしいローストチキンになっちゃいそうなのよ」
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