「更級日記」感想

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ところで「更級日記」の現代文訳と解説を、犬養廉とおっしゃる国文学の先生が書いておられます。多分有名な、犬養先生の見解によると、著者の孝標の女が「紫の上」や「明石の上」の栄耀栄華に目も向けずに「夕顔」や「浮船」にあこがれている点を取り上げ「慎ましく、野心が無く、地道である。」さらに「わが身の現実を省みての諦念がある」とおっしゃっている。これを読んで私は、なんと男性的な見解だろう!と、またまた笑ってしまうのでした。「紫の上」や「明石の君」より、「夕顔」や「浮船」のようになりたいと言うのは「諦念」どころか、私から見ると、すこぶる野心的なのです。 たしかに「紫の上」は実質ナンバーワンの地位、源氏物語のヒロインと言える。そして「明石の上」はシンデレラストーリー。辛抱我慢の末、王母の肩書きを手に入れます。ですが、そんな世間的な地位や肩書を欲しがるのは男の得意芸にすぎない。紫の上など、源氏に一方的に攫われた上、後半はすっかり源氏の「手に入ったモノ」になり下がり、辛酸を味わいます。明石の上に至っては、元々男性的な上昇志向の持ち主で打算的。初めから源氏に女らしい夢を抱いて近付いているわけではないのです。 それに対して「夕顔」は源氏に盲目的に愛され、その過剰な愛ゆえに逢瀬中に息絶え、永遠の「幻の女」として源氏に強烈な残像を残します。「浮船」も薫と匂の宮に取り合いされ、身も心も板ばさみになって川に身を投げ、姿を消します。つまり「夕顔」や「浮船」のようでありたいということは、たとえ愛されることが命と引き換えであっても、男の心に「見果てぬ夢」として残りたい、という願望です。これ以上の貪欲な「女の野心」があるでしょうか。それが叶わないと判った時こそ女は諦念し、お金や肩書きなど、外から見てわかりやすい「幸せレッテル」を欲しがるようになる。現実の三八歳の孝標の女がそうであったように。それは平和なことであるかもしれないが、「女の野心」としては挫折している。 「嵐のように愛され、求められること」への強烈な渇望が、一見地味な女の中にあるという「凄み」。そしてそれをテライなく書き綴ってしまう正直さ、これこそが更級日記の面白さのカギであり、作者の「妄想少女=素晴らしい書き手の素質」を証明していると思いました。 「更級日記感想」…おわり
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