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甘露の微笑
左の頬がピクリと引き攣り握り締めていたナイフを置いて右手の甲でそこを押さえる。
向かい側で両腕を組んでいる孝介が眉間を寄せて小首を傾げた。
時々こうして左の頬がいまだに疼く。
法学部を受験しろという父の命令に背いて勝手に美大を受験したことがバレたとき、気絶しそうなほど何度も父に殴られた。
こうなることがわかっていたのか堅実な人生を僕に強いた父とは
画家の夢を捨てきれず実家を出るときに絶縁した。
最初に僕に絵をおしえた母とも四年前にぷっつりと連絡が途絶えて
突然届いた父からの手紙で母が逝ったことを知った。
母の死に目にも会えないまま僕はまだ何者にもなっていない。
母が死んだことが僕のせいだと言わんばかりの罵詈雑言が書き殴られた父からの手紙を燃やして僕はそれまでの僕を捨てた。
すべての親類縁者からは病気の母を見捨てた人でなしと唾棄されて
狡猾で八方美人の弟はあっさりと多勢に付き僕を黙殺した。
母が死んで実質僕は孤立無援の天涯孤独。
誰もが持っている家族も生来の苗字も僕はこのとき失った。
母が逝くと同時に元の名前の僕は死んだ。
「収入は?三上さんの養子じゃなくなったらまもるはどうやって生活するの?」
「……バイトする」
「出来るの?もう何年も働いてないでしょ?」
僕はムッと眉根を寄せて顔をあげた。
「人を専業主婦みたいに」
「専業主婦っていうのも主婦の方に失礼だよね。
家事だってろくにやってないし」
「孝介……」
ズバリと痛いところをつかれて尻込みすると彼はクスリと笑い「ごめんごめん」と片手をあげる。
綺麗に平らげた鉄板と大盛りライス、スープを見やり「満足した?」と小首を傾げて彼は尋ねる。
僕は膨れ過ぎた胃袋を擦りやや自己嫌悪に陥る。
ストレス任せの『わんぱく大盛り定食』一気食いはさすがにちょっとやりすぎた。満足を通り越して最早……。
「苦しい……」
腹を擦りながらテーブルに片手をついて悶える僕をみて孝介はまたもやクスクスと笑う。
「じゃあタクシーはやめて腹ごなしに歩こうか」
伝票を手に取り彼が席を立つ。
思わず彼を見上げると孝介は僕を見下ろして包み込むように柔和に微笑する。
「身の振り方が決まるまで俺がお世話しますよ。
というか、そのつもりで呼び出したんだよね?」
胸の内を言い当てられて僅かに狼狽する。
その反応すらもわかっていたかのように
彼は僕の目前に砂糖菓子のようなビロードを広げた。
「俺はかまわないよ。友達でしょう?」
そんなふうに誘われたら僕は二つ返事で飛び込んでしまう。
甘いお菓子は大好きだ。いくつになってもお菓子の家は夢見ていたい。
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