一欠片のパンのために

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一欠片のパンのために

「孝介、この羽根この角度で持ってて」  羽根の根元を再び孝介の手に握らせ、 その手を掴みながらしゃがみ込んだ僕の目線の高さで羽根を斜めに構える形で停止させた。 「……描くの?」  腑に落ちない様子で孝介が尋ねる。 僕は頷きながら羽根を観察しつつスケッチブックに鉛筆を走らせる。  鈴の音が聴こえる。 シャンシャンと鳴るいくつもの小さな鈴の音。ハンドベルの音色だ。 脳裏に浮かぶ映像を目に映るもののように スケッチブックにデッサンする。 ……あれは、中世ヨーロッパの街並み。 長い黒髪にカラスの羽根を髪飾り代わりに刺して 両手にハンドベルを持っておどる踊り子。 着古したボロボロの衣装を身に纏いヘソ出しの衣装からは 様式美を損なうように皮膚に浮くろっ骨が覗き、 腰回りは骨盤が張り出す程、骨の上に薄く皮がのるだけだ。 もう何日も食べ物は口に入っていない。 古いヨーロッパの街中で、それでも少女は笑顔で踊る。 その周りにはパンを齧りながら些々たる様子で鑑賞する男性、 しゃがみ込み、ひるがえる少女のスカートの裾ばかりを ニヤニヤしながら覗き込む客。 道脇に立つ集合住宅のベランダに洗濯物を干しながら、 鈴の音の方向を煩そうに一瞥するでっぷりした主婦。 様々な視線を浴びながら少女は、 今夜こそは口にしたい一欠片のパンの為に懸命に笑顔で踊る。 「……できた!」   僕は踊り子の少女のスケッチを描いた画用紙を伸ばした両手に掲げて眺め微笑んだ。 孝介がその絵を覗き込む。 「中世の踊り子?」 と尋ねる孝介に僕は「うん」と頷く。 「本当はカラスの羽根じゃなくてキラキラの髪飾りで踊りたいだろうね。 豪奢なドレスで良い舞台で踊って、お腹いっぱい食べたいだろうね」  画用紙の中で精一杯に踊る少女の、笑顔の奥の気持ちを僕は慮る。 僕の伸ばした両手に持つその絵を 傍らに立ちながら見つめて孝介が呟いた。 「……カラスの羽根から、踊り子」   真隣にいるはずの孝介の声が、なぜかとても遠くに聞こえた。
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