強きものは泣かないけれど、煙を吐く

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「憲吾さんが死んだの」  淡々とした声で沙織が電話で知らせてきたのは、三ヶ月と少し前。突然の事故であっけなくこの世を去った、らしい。  雨が降って肌寒い日だった。私のアパートの裏では、咲いたばかりの桜が雨に打たれてうな垂れていた。濡れて黒く染まったアスファルトに点々と散らばる花びらは、どこか夜空に浮かぶ星のようにも見えた。もしかしたら、その中の一つは憲吾さんの魂なのかもしれない、なんて思ったことを覚えている。  七年前の結婚式で初めて会った人。近所に住んでいたこともあって、沙織とはときどき会っていたが、彼と顔を合わせ、言葉を交わしたことなんて数えるくらいだ。  友人の夫。それ以上でも以下でもない人だったが、それでも突然の死は衝撃だった。人は死ぬ。三十二歳の自分とは遠いところにあると思っていた常識に、するりと背中を撫でられた気がした。  告別式で遺影を見て「ああ、そういえばこんな顔だったな」とどこかぼやけていた私の中の憲吾さんにようやくはっきりとした輪郭が与えられた。そんな自分が、悲しんでいる人たちの中で、ひどく薄情に思えた。  沙織は、私の顔を見て小さく笑みを浮かべた。そして、 「忙しいのにごめんね、千鶴」  と、まるで待ち合わせのカフェに私が現れたみたいに言った。その隣で二人の娘、六歳になったばかりの美咲は、大きな目でじっと父親の遺影を見上げていた。  私は、きっと二人は悲しみと不安に溺れているだろうと思っていた。もしかしたら、朝も晩も泣き暮らしているかもしれないとさえ思った。これから先、彼女たちを守っていくはずだった大きくて強い存在が、波打ち際の落書きみたいに、さあっと消えてしまったのだから。  なんとか励まさなくてはと、そんな二人に掛けるべき言葉をずっと探していた。  それなのに、二人は泣いていなかった。あまりにも突然の出来事だったので、気持ちが追い付いていないだけなのかもしれないが、散歩中に知らない路地に迷い込んで「あら、どうしよう」みたいな顔をしている沙織と、その沙織のそばでじっとしている美咲は、なんだか私よりも薄情に見えた。  これから仕事も探さなくちゃ、と言う沙織に、 「私にできることがあったら何でも言ってね」  そう声を掛けた。そこに社交辞令以上の気持ちがあったのは確かだが、そんな記憶も薄れた三ヶ月後になって、沙織が美咲と二人で私のアパートに現れるなんて、そのときは思いもしなかった。
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