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ハクハクは猫の女の子だ。
全体が雉虎柄で、アゴの下から胸前にかけてと、手足の先がちょっとだけ白い模様だった。まるで手袋と靴下をはいているような。
彼女と僕の出会いは、ある日の夕方だった。
当時の僕は塾講師のアルバイトをしていて、なんとなく無為な日々を送っていた。その日も塾に出かけるべく、オートバイでアパートを出たところで、住宅街ではノロノロと運転することを心がけていた。
住宅街の中には送電線用の鉄塔が立っていて、その根本のところは雑草が生い茂っている場所だった。緑色の中に何かが動くのを見つけ、僕は思わずオートバイを停めて観察していた。
ちょこんとすわって、一心不乱に草を食べているような子猫の姿に、僕は見とれてしまった。猫の知識なんてなかったから、肉食であろうはずの猫が草を食べているというのが驚きだったのと、その仕草がなんとも可愛くて印象的だったから。
ずっと観ていたかったが、塾の時間があったので、後ろ髪を引かれる思いで僕はその場を後にした。
それから何日か経ったある日。アパートのドアの前で猫の鳴き声がする。興味本位で開けてみたら、そこにあの草を食べていた子猫がいた。
なんか嬉しくなった僕は、その子を部屋に入れ牛乳をあげてみた。それを飲み終わると、ひとこと「にゃあ」と鳴いて、また外へ出ていきたいようだった。僕はドアを開けてあげた。
その後、何度かそんなことが続いたが、なぜかその子は簡単にさわらせてはくれなかった。ある日、その子は離れた座布団で寝てしまった。僕も疲れていたせいか、そのままいっしょに寝てしまった。
かすかに目覚めた意識の中で何かの音がする。玄関の鉄扉にぶつかるような音。外から誰かがノックするような感じではない。ぼんやりとしながら、玄関に向かってみた。
1DKのキッチンの床が濡れていた。
しまった! この子はトイレに行きたかったのだ。僕はそれに気がついて心の底から反省した。小さな猫に重い鉄のドアを開けられるわけもないし、僕の部屋には猫用のトイレもない。出してくれとドアに体当りして合図していたのを気がついてあげられなかった。仕方なく、被害が少なそうなその場所で用を足したのだろう。かわいそうに。
「ごめんよ」と抱き上げて、はじめてその猫がメスであることに気がついた。女の子になんて恥ずかしいことをさせてしまった。そう思った。
それから、その子はさわらせてくれるようになった。飼うつもりはなかったからまだ名前をつけていなかったが、出会った時の印象から、僕はその子を“ハクハク”と呼ぶことにした。
猫を飼うことに特別な意識も責任感もなかった僕は、安易に首輪を買って“ハクハク”につけてみた。鈴のついた真っ赤な首輪は彼女によく似合っていて、彼女の方でもそれが気に入ったようで、おすまし顔で得意げにそれを見せびらかせているようにも感じられた。
そして遅ればせながら、僕は猫用のトイレも用意した。
ときどき僕たちはさんぽに出かけた。彼女は鈴を鳴らしながら僕を先導したり、時には僕が途中で隠れて彼女が探しに来るなんてことを繰り返した。月明かりの下で、そんなことをするのが、なんだか僕はとても楽しかった。
それでも、いっしょのベッドで寝ることだけは、彼女は許さなかった。
僕の無為な日々の中で数少ない趣味が競馬だった。電話投票という方法があり、僕の土日の密かな楽しみであった。
“ハクハク”が来てから、僕が競馬新聞を開いていると、彼女が時折、白手袋の前足をその上に置くようになったことがあった。猫が飼い主の新聞の上に上がって邪魔をすることがあると聞いていたが、それだろうと思っていた。
何度かそれを繰り返すうちに、それがどういうわけか「あたり」を指し示しているのではないかと思うようになった。たしかに、予想してもいない馬がきて高配当になることがあった。
まさかね、と思いつつ試しに“ハクハク”の示す馬を買ったところ、大儲けになった。それからは外すこともあったが、何度かのあたりで生活が潤った。
しかし、あいかわらずベッドでいっしょに寝てくれない彼女に、僕はすこし不満があった。同じふとんで彼女を抱いていっしょに寝ることへのあこがれがとても強かったのだ。
寝る時はいつも強く願った。
「どうか“ハクハク”といっしょに寝られますように。もし願いがかなったなら、これから一生競馬がハズレてもかまいませんから」と。
雨上がりのある晩、僕は“ハクハク”とおさんぽに出かけてひとしきりかくれんぼを楽しんだ。家に戻ると、泥道を歩いたせいか、彼女の手袋と足袋はひどく汚れていた。気になった僕はユニットバスでそれを洗おうとした。彼女はものすごく抵抗して大鳴きして嫌がった。
その晩、“ハクハク”が僕の布団に入ってきた。どういう風の吹き回しかわからないが、念願がかなった僕は有頂天だった。あたたかくふわふわした彼女の感触を手のひらに感じ、とてもしあわせだった。
翌日、塾に出かけようとドアを開けた時、“ハクハク”がするりと僕のわきをすりぬけ飛び出していった。彼女は二度と戻らなかった。
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