第5章 白い部屋

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第5章 白い部屋

「あれ? 私,死んじゃったの?」      目が覚めると,真っ白な部屋で寝心地の悪いベッドの上に固定されていた。さまざまな薬品が混ざり合う,アルコールのようなその独特な匂いに包まれた結菜は自分がどこにいるのかまったくわからなかった。     「どこ……?」      少しでも動こうとすると体のあちこちに激痛が走り,起き上がれないことで全身を固定されているのがわかった。手で顔を触ろうと思ったが,両腕もしっかりと固定されていて動かすことができなかった。しばらく目だけを動かして部屋の様子を覗っていると,廊下を行ったり来たりする大勢の足音が聞こえた。     「ああ……そっか……」      最後に見た風景を思い出しながら,叔父さんはどうなっちゃったんだろうと思った。車が激しく木に刺さる瞬間に見た最後の叔父さんの姿は,まるで古い汚れた人形のようで現実味がなかった。フロントガラスを突き破り,雑木林の中に飛び込んで行くその一瞬の姿を見て心の底から嬉しかったのを思い出した。ボロボロになった叔父さんの姿を想像し,思わず口元がほころんだ。包帯がなければ声に出して笑っていた。     「あ,松浦さん。目を覚ましましたか。まだお薬が効いているので頭がボーとしているかも知れませんが,もう大丈夫ですよ」      年配の看護師の女性が,不機嫌そうに結菜のベッドの横にあるファイルになにかを書き込みながら話し掛けてきた。その声はどこか遠くから聞こえてくるようで,なにを言われているのかよくわからなかった。    それから覗き込むようにして結菜と目を合わせると,無表情のまま再びなにかを書いていた。乱暴なペンの音だけが部屋に響き渡り,途中で銀色の棒に吊るされた透明な輸液の袋に書かれている何かを書き写していた。     「あの……私……」     「いま先生が来るので,質問があれば聞いてくださいね」     「あ……はい……」      ぼんやりと自分の状態を認識し始めていた。結菜は自分でもなにを聞いてよいのかわからなかったが,初めての交通事故と初めての入院で不思議な感じだった。薬が効いているのか先生が来るまで意識を保っていられそうもなかった。まるで強制的に瞼を閉じられているようで,すぐに眠りについた。    どれくらい寝てしまっていたのかわからないが,気がつくと母親がベッドの横に座っていた。見覚えのある母親の顔をなんとなく見ていたが,それが母親本人なのかそっくりさんなのかハッキリしなかった。     「あれ? お母さん……?」      母親は黙って座っていた。その表情は疲れ切っていて,結菜の心配というよりも入院費やその他の親戚との体裁など,余計なことで頭を悩ませていた。結菜はちゃんと話そうと思ったが,唇が重く,顎も動かずうまく話せなかった。     「あの…お母さん……」     「本当に馬鹿な子だよ……」     「あの……ごめん……」      母親は必死に泣くのを堪えていたのか,それとも怒っているのかわからなかったが体が震えていた。微かに見える表情は決して結菜を心配しているものではなく,そこには憎しみに似たなにかを感じた。     「お母さん……ごめんね……」      結菜がどんなに声を掛けても母親は結菜を見ようともしなかった。子供のころに似たような経験を何度もしてきたことを思い出し,ベッドの上でなにもできない自分が情けなく涙が溢れてきて母親の姿を見るのが辛かった。なにか言ってくれればよいのにと思いながら,長い沈黙が部屋の空気を重たくした。     「あの……叔父さんは……?」      母親との間に微妙な距離を感じた。     「…………」      今さらながら,母親は結菜と叔父さんとの関係をすべて知っているんじゃないかと不安になった。子供のころから,母親が叔父さんにひどく媚びているのを不思議に思っていた。そして母親がずっと結菜を軽蔑するような目で見ていたのも感じていた。     「あの……」      母親は辛そうな顔をし,結菜に背を向けた。     「あの……お母さん……?」      どうしてよいのかわからなくなった。思い出せば,母親はいつも結菜に背を向けていた。抱っこして欲しいと両手を命一杯広げた幼い結菜を,母親は汚いものでも見るかのようにチラッと見ただけで去って行ったときのことを鮮明に思い出した。    あのとき,まだ幼かった結菜は母親には甘えちゃいけないんだと心の中で何度も言い聞かせた。母親はなにかに怒りながら台所に立っていたのは覚えている。それ以外はなにも覚えていないが,あのときから結菜にとって母親は甘えられる存在ではなくなった。     「あんたの叔父さんは……即死だったよ……」     「え……?」      母親はそれだけ言うと,静かに病室から出て行ってしまった。    結菜はベッドに固定されたまま,病室の天井を見ながら震える唇を噛み締めた。なんで泣いているのかわからなかったが,ずっと涙が止まらなかった。若かったころの叔父さんを思い出し,楽しかった思い出が走馬灯のように浮かんでは消えた。不思議なくらい嫌なことは思い出さなかった。    それから毎日,病室の窓から外を眺めて過ごした。少しでも身体を動かすと上半身に激痛が走った。上半身の激痛に比べると,下半身にあまり痛みを感じないのが不思議だった。トイレも自分の意思とは関係なく,チューブにつながれた袋に排泄物が溜まって行くのを他人事のように眺めていた。    徐々に身体が動かせるようになると,定期的にリハビリのためにベッドから起きなければならなかった。リハビリのプログラムは,まずは上半身の体操とストレッチだったので,1日2回,上半身を電動ベッドの力で強制的に起こし腕を挙げてゆっくり回す体操と手を握ったり開いたりする体操を繰り返し行った。結菜は自分でも驚くほど体力がなくなっていて,ペットボトルですら持ち上げるのが一苦労だった。    あまりにもなにもできない状況に,結菜は自分が想像していたよりも入院が長引きそうなのを知りストレスが溜まっていった。母親はなにも話してくれないが毎日のように病院に来てくれ,いろいろと世話をしてくれた。     「お母さん……私の脚……なにも感じないような気がするんだけど……」      これまでずっと固定され,満足に身体を動かせなかったのと鎮痛薬が効いているのが原因と思いハッキリしなかったが,脚の感覚がほとんどなくなっている気がしていた。ただ,ときどきつま先が痒く感じることもあり,自分の脚がどうなっているのかわからなかった。     「ねぇ……お母さん……」      母親はなにも言わずに,結菜に直接,陽の光が当たらないようにカーテンを引いてくれた。たったそれだけでも何年も感じることのなかった母親の優しさが嬉しかった。     「ねぇ……私の脚……どうしちゃったのかな……?」     「あんたは本当に……なにもかも親不孝な子だよ……」     「え?」      母親は結菜の横に座ると,結菜を真っ直ぐ見た。母親の顔にはいままで気がつかなかった皺やシミ,そして頭には白髪が目につき,母親が齢をとったのを改めて感じて複雑な心境になった。結菜にとって母親は幼かったころの記憶のままだったが,目の前にいる母親はお婆ちゃんのようにも見えた。     「あんたの脚は……下半身はもう動かないんだよ……たぶん,一生……」     「え……?」      結菜の頭が真っ白になった。交通事故で車椅子生活になった人の話は珍しくないが,まさか自分がそうなるとは想像できなかった。ベッドの上に横たわる両脚を見ながら,自分の脚がもう自分の意思では動かないんだと思い,どうしてよいのかわからずただただ眺めていた。     「でも……つま先が痺れたり……痒かったりするよ……?」      母親はなにも言わず立ち上がると,そのままいつもと同じように病室を出て行ってしまった。    1人で病室に残された結菜は,傷だらけになった自分の脚を眺めながら唇を噛み締めた。下半身不随になったと聞かされても,現実味がなく何度も脚を摩ったり摘まんでみたりした。その度に自分の脚が自分のものではないような感覚がし,本当に脚が動かなくなったという現実を叩きつけられた。    不思議なことに涙は出なかった。ただ,目の前の脚が今までのように動かないこと,いままで身体を支えてくれたこと,自由に好きな場所へ連れて行ってくれたことを感謝して何度も優しく摩り続けた。     「私の半分……動かなくなっちゃったんだ……」      結菜は,世の中の不幸がすべて自分の圧し掛かっているように感じた。それから数日間は食欲もなくなり,なにもしたいと思わなかった。しばらくして個室から6人部屋に移されたが,毎日病院の天井を眺め,気がつくと泣いていた。     「悠人に会いたいな……」      それでも毎日半強制的にリハビリは続けられた。ベッドから移動するのも人前に出るのも嫌々だったが,諦めて車椅子に押されて明るい陽射しの入るリハビリセンターで簡単な腕の体操をした。    毎日ほぼ同じ時間にリハビリに来ているオートバイの単独事故で脊髄を損傷し,結菜と同じように車椅子に乗っている17歳の高校生と知り合った。    彼は驚くほど前向きで,リハビリをしながら車椅子でできるスポーツをいろいろと探していた。最初はバスケットボールをやりたいと言っていたのだが,次に会ったときには車椅子マラソンの選手がいいと言っていた。     「結菜さん,やっぱり俺の場合,身体が小さいからバスケは無理っぽいんですよね。車椅子って言ってもコンタクトスポーツは向いてないっぽいです」     「そうなんだ……(いつき)なら,なんでも大丈夫だよ。なんでもできるよ」     「自分でもいけるかな? って思って調べたんですが,車椅子でもガタイのいいやつはハンパないんですよ。あんなのとぶつかったら,ダンプに撥ねられるのと変わんないっす。バイクで事故って,車椅子でも事故るなんて想像しただけでもテンション下がりますよ」     「じゃあ,樹の体格を活かしたスポーツを探さないとね」      リハビリが終わるといつも休憩室でお喋りをしたり,樹がスマホで見付けてきた屈強なアスリートが車椅子で身体をぶつけ合う動画を観たが,結菜はなにを観ても興味がなかった。ただ,樹が一生懸命話す姿は純粋で眩しかった。    同じ車椅子生活なのに,なにが違うのかわからなかった。結菜は樹を見ていると元気になれるような気がした。結局,樹は1番お金がかからないのが最大の魅力だからと,退院したら水泳を始めると言っていた。    結菜はそんなリハビリを頑張っている樹を見ていると,自分が19歳のときに結婚をして主人に嘘をつきながら生活していたころを思い出した。さらに年下の17歳の樹を見て自分が17歳のころを思い出しても,事故に遭う直前までとなにも変わらない男達の間を行ったり来たりする生活を送っていた記憶しかなく複雑な心境になった。     「私が17歳のころかぁ。もう……いろんな男の人にいろんなことをされてたなぁ。学校は楽しくなかったな。あの人とは……主人といる時は楽しかったような気がするなぁ……」      体重を支えられなくなった傷だらけの両脚を必死に伸ばし,手摺に捕まりながら苦痛に歪む樹の顔を見ながらつぶやいた。そして樹はきっと車椅子でもアスリートとして頑張っていくんだろうと,自分にはない明るい未来を羨んだ。    そんな樹を見ていると,ふっと悠人に連絡をしてみようと思った。スマホには悠人からのメッセージが何件も溜まっていたが,入院してから一度も返信していなかった。    悠人は事故のことをまだ知らないし,車椅子生活になった結菜に対してどんな反応をするか気になった。もう今までのようなセックスはできないだろうし,こんな身体の女に興味は示さないだろうと思い,返信をするのを躊躇していた。    スマホの画面を眺めながら,出会い系サイトで出会った身体だけの関係だった相手に強く惹かれている自分が不思議で面白いと感じ,この先悠人とどうなるのか興味が湧いてきた。もしかしたら感覚はないけど悠人を喜ばせるセックスはできるのかもしれないし,車椅子に乗っている人が出産をした話も聞いていたし,入口の感覚はなくても奥で感じることはできるのかもしれないと思い,悠人に会っていろいろ試してみたくなった。    そして悠人に簡単なメッセージを送ると,スマホをポケットに入れて車椅子に乗って休憩室に行った。休憩室にはお見舞いにきている家族とお喋りをする患者の他に,入院中に気分転換に集まってお喋りをする患者達のグループがいくつかできていた。    結菜が休憩室に行くと,家族がお見舞いに来ている患者の他に,点滴をつけたままお喋りに花を咲かせる老人のグループと,比較的若い骨折や簡単な手術を受けた短期入院の患者が中心のグループがそれぞれテーブルを囲むようにして集まっていた。    結菜がゆっくり車椅子で近づいて行くと,男たちがこっちにおいでと手を振った。老人達と若い男達が結菜を取り合う姿が面白く,お見舞いに来ている家族達もその様子を笑顔で見ていた。    結菜は笑顔で男達をスルーすると,窓際の陽当りのよい場所でスマホを眺めた。悠人からの返信はなかったが,既読になっていた。窓から外を見ていると,大きなため息が出た。     「結菜さん,どうしたんすか? そんなため息ついて」     「あ……。今日はもうリハビリ終わったの?」     「はい。いつも通り,激痛と挫折にコテンパンにやられてきましたよ」      樹は屈託のない笑顔で結菜を見た。結菜はその笑顔にどれだけ癒されているか,どれほど助けられているかを樹に伝えたかった。     「あんたは,本当に元気がいいね」     「まぁ,元気がよすぎてバイクで吹っ飛んじゃったんで……」     「結菜さんはリハビリ終わったんですか?」     「うん……。今日も軽め……」      樹が結菜が手にしているスマホが気になってしかたがないのが,手に取るようにわかった。樹も結菜の視線に気が付いていた。     「彼氏っすか……?」      結菜は思わず笑ってしまった。樹がまったく隠す素振りも見せずに焼きもちを妬いているのが可愛かった。     「そんなんじゃないの……友達というか……なんというか……」     「ふ~ん……」     「お互い,どう思ってるかはわからないけど,なんとなく気になる人ってとこね……」     「やっぱ,彼氏なんじゃん……」      結菜が苦笑いをしながら,樹を見た。樹はなぜ結菜がそんな表情で自分を見ているのかわからず,黙って結菜の言葉を待った。     「彼氏だったら,1回くらいはお見舞いに来てるよ……」      樹の「しまった!」という表情が愛らしくてたまらなかった。高校生らしい線の細さとニキビ跡が残る顔は子供っぽさばかりが目立ち,結菜からしてみれば10歳も年下の可愛い男の子だった。     「ただの知り合い……ちょっとだけ私のことを受け入れてくれる振りが上手な……わかった振りをしてくれる変な人だよ……私が入院しているの内緒にしてたんだけど,さっき初めて連絡したの」     「なんか……すいません……」      樹が申し訳なさそうにしていたのを見て,ちょっと意地悪したくなった。     「樹こそ……彼女はお見舞いに来ないの?」      結菜は毎日のように学生服姿の集団が病院内をウロウロしているのを知っていた。男の子だけの時もあれば,女の子の黄色い声が廊下で響き渡っているのを聞くときもあった。きっと樹の同級生なんだろうと思い,その集団がいるときは病室から出ないようにしていた。     「彼女はいません……」     「そうなんだ……お友達は多そうなのにね」      樹は言いにくそうにしながら,車椅子を前後した。     「俺,同級生とか興味ないんで……」      樹の態度がつくづく可愛らしく感じ,身体に痛みがなく下半身が自由に動ける,自由に歩ける状態だったらデートに誘ってパンケーキでもご馳走してあげたいと思った。     「じゃあ,私みたいなオバちゃんのほうがいいの?」      樹は顔を真っ赤にしながら,下を向いて慣れない車椅子を小刻みに動かした。結菜の周りには年配の男しかいなかったので,樹のような年下が可愛くてしょうがなかった。    そのとき,結菜のスマホの画面が明るくなり,バイブとともに悠人の名前が表示された。樹が画面を見たのはわかっていた。結菜はなにも言わずにスマホを耳に当てると,樹を見て居心地が悪そうにした。    そんな結菜の態度に樹は黙って車椅子を反転させ,なにも言わずにその場を去った。  樹の背中を見ながらスマホから聞こえる懐かしい声に,ほんの少しだけ下半身が反応したような気がした。しかし同時に,なぜが叔父さんの声も混じって聞こえてくるような気がして,うずく身体が結菜をひどく不快にした。
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