第4章 碧落《へきらく》と黄泉の狭間

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第4章 碧落《へきらく》と黄泉の狭間

 結菜は叔父さんの運転する車の助手席に乗っていた。早朝から高速道路を走る車は,途中で何度かサービスエリアに寄りながら北へと向かっていた。    今回は叔父さんが新しい単独男性を3人募集したと言って,群馬県の草津温泉に宿を取っていた。草津温泉は初めてだったが,叔父さんは数年前に社員旅行で行ったことがあり,その時に気になる宿があったので,今回はそこを予約したとのことだった。    最近は露天風呂や混浴温泉が叔父さんのお気に入りらしく,どこかに行くとなると温泉が多かった。以前は,カップル喫茶やハプニング・バーなどに通った時期もあったが叔父さんは参加を嫌うこともあり,そういったお店に行くのを嫌がった。    車の窓をほんの少し開けただけで,車内に置いた荷物が飛びそうになるほど騒がしくなった。すぐに窓を閉め,大人しく車窓から流れる景色を眺めた。結菜はずっと頭の中で全身拘束をされたまま両手両脚が麻酔もなくもぎ取られるように切り取られ,すべての歯を古い錆びたペンチで乱暴に抜かれ,焼けた鉄の棒で両目を(えぐ)り取られ血だらけになっている自分の姿を想像していた。    叔父さんは結菜が考えごとをしているのに気づき,結菜の頭を優しく叩いた。     「どうしたんだ? 全然やる気を感じないぞ。体調でも悪いのか?」      叔父さんに何度も注意をされたが,叔父さんの言葉はまったく頭に入ってこなかった。これから知らない男性の相手をすることも,いままで感じたことがない抵抗を感じていた。    自分がしていることが誰かを傷つけているんじゃないかと思うと,心が締め付けられるように苦しくなった。本当の自分を理解して受け止めてくれる相手が欲しかった。    叔父さんが嫌がるのを無視して車の窓を開け,腕をめいいっぱい外に出した。風に当たる素肌が細かく切り刻まれ,膝から先を切り取られる姿を妄想した。腕がなくなる瞬間を想像しただけで全身が熱くなりイキそうになった。思わず笑みがこぼれ,風に当たる手をひらひらさせた。     「なにやってるんだ……どうしたんだ?」     「ん……なんでもない……」      叔父さんは少し心配そうに結菜を見ると,運転しながら腕を伸ばしそっと頭を撫でてきた。     「どうしたんだ? 体調でも悪いのか?」     「ううん……そんなことないけど……」      結菜は,自分の変化に戸惑っていた。もう数え切れないほどの男達に抱かれ,名前も知らない男に脚を開くことに抵抗すら感じなくなっている自分が嫌だった。お爺ちゃんのような年齢の男達を相手に,一晩中身体を好き勝手にされることも嫌だった。いつお風呂に入ったのかもわからない臭い男たちに抱かれるのも嫌だった。    もしタイムマシンがあれば,小学生だったころに戻って幼い自分を守ってあげたいと思った。お父さんがいなくならないように,お母さんと一緒になんとかしようと想像した。そして走る車の窓から腕を出し,手で風を掴むかのように何度も見えない風を握り締めようとした。     「大丈夫か……? 今日はこれから3人に会うけど……」      叔父さんは結菜の体調を心配しているのではなく,3人に来てもらうのにキャンセルになることを心配しているのが手に取るようにわかった。結菜は叔父さんの性格をわかっていたので,とくになにも言わなかったが,いつ頃から自分は物のように扱われるようになったのか不思議だった。     「大丈夫だよ……」      叔父さんは心配そうに結菜を見ながら,草津温泉に向かう細い道を急いでいた。むせ返るような雑木林の匂いが心地よかった。きっと花粉症の人だったら悲鳴をあげるのだろうと山々を見ながら,緑色のグラデーションを楽しんだ。     「あのね……私ね……いつか沖縄で暮らしたいの……」     「え? なんだ,突然。お前,沖縄に行ったことあったっけ?」      叔父さんは,結菜がおかしなことを言い出して驚いていた。     「ないよ~。でもさぁ,暖かくて……海が綺麗で……のんびりしてそうで……いいところなんじゃない?」     「観光で行くならいいかも知れないけど,住むのは大変だぞ」     「そんなことないよ……。きっと,いいところだよ……」      結菜は外を見ながら,深い緑色の山々を沖縄のどこまでも青い海と重ねて想像していた。それはテレビや雑誌でしか見たことがないが,どこまでも透き通っていて綺麗な珊瑚礁があたり一面に広がり幻想的な景色だった。いまだ感じたことのない沖縄の風は暖かく,その空気は身も心も癒してくれるような気がした。     「じゃあ今度,沖縄に遊びに行ってみるか?」     「叔父さんと2人で?」     「なんだよ,不満か?」     「ううん……別にいいけど……」      誰もいないビーチで全身に日焼け止めを塗ってパラソルの下に横たわり,青い空に浮かぶ真っ白な雲を眺めている自分の姿を想像した。どんな空気なんだろう? 空気に匂いはあるのだろうか? 風は暖かいのだろうか? 砂浜の砂はどこまで細かいのだろうか? 海の水は冷たいのか? それとも温かいのか? 緑の山々を見ながら沖縄の景色を想像した。     「じゃあ今度,知り合いの旅行会社のやつに聞いてみるよ」     「うん……」      草津温泉に向かう畑や山々を見ていると,自分がどこか暗い世界に閉じ込められているような気がした。世の中には毎月のように旅行に行っている人もいれば,絵ハガキに出てきそうな海外の綺麗な街に住んでいる人もいる。    自分だけ,どうして暗い小さな世界に閉じ込められていなくてはいけないのか考えていた。いつから自分の意思はなくなったのだろうと考えていた。     「ねぇ……どうしたら沖縄に住めるのかな?」     「なんだ,まだ言ってるのか」     「英語が話せたら……海外でもいいなぁ……」     「まったく。お前はいくつになったと思ってるんだ?」     「27……もうすぐ28……」     「ほら,もう子供じゃないんだから,いつまでもそんなこと言ってないで……」      結菜は流れていく景色を見ながら,涙が溢れて止まらなくなっていた。急に自分の人生が叔父さんによってすべて壊されたような気がした。いま自分がこうしているのは,すべて叔父さんのせいだと思った。    元夫と出逢って付き合ったのは叔父さんが命令したからだったが,その後結婚まで進んだのは元夫と自分で決めたことだと思いたかった。しかし,それもすべて失った。すべて叔父さんのせいだと思った。    結菜の中でほんの少しだけ,なにかが壊れた。その瞬間,叔父さんに対していままで感じたことのない憎しみと怒りが小さく爆発した。気が付いたら結菜が車を運転する叔父さんの上に飛び乗るようにして抱き着き,できるかぎりの力を込めた。     「うわっ! なにやってんだ! おい! 危ないから離れなさい!」      結菜はなにも言わずに叔父さんの体を必死に抱きかかえ,結菜を振り解こうとする叔父さんに抵抗した。     「危ないって言ってるだろ!」      車は急ブレーキの音とともに減速し,乱暴に路肩に停まった。     「なに考えてんだ! 俺を殺す気か!」      叔父さんの目は,いままで見たことがない怒りで真っ赤に充血していた。結菜は叔父さんの怒る顔を初めて見たように思えた。それは子供のころから大好きだった叔父さんの面影はなく,醜く老いた不快な中年の顔だった。     「…………」     「お前,狂ってんじゃないのか? 頭おかしいんじゃないのか?」      結菜は,なにも言わずに俯いていた。     「いい加減にしろ!」      草津温泉はもうすぐだったが,これからどうするのか気になった。叔父さんがこんなに怒っている姿を見るのも初めてだったし,このまま3人の男を相手させられるのかと思うと気持ち悪くなった。     「もう,いい。行くぞ」      叔父さんはなにも言わず,再び運転をした。明らかに不機嫌で結菜を見ようともしなかった。さっきまでの運転とは明らかに違っていて,乱暴に感じた。    そんな車内で結菜は真っ白な雲を見ながら,小さく鼻歌を歌っていた。窓から手を出して,まるで空を飛んでいるかのように掌をゆらゆらさせた。    何度か雲を捕まえるような素振りをしながら,車の窓から顔を出して外の空気を思いきり吸い込んだ。涙が止まらず,どうしようもできない自分の環境が心を押し潰しそうで苦しかった。    誰でもいいから今すぐ自分をこの世界から連れ出して欲しいと願った。両手も両脚も両目もいらない,なにも見たくないしなにも触りたくない,誰にも危害を加えられることなく人形のように可愛がってくれる人が欲しかった。  悠人に会いたいと思い,悠人がいまなにをしているのか想像した。そして悠人の顔と元夫の顔が重なるようになり,どっちがどっちかわからなくなっていた。指先からこぼれるような風の感覚が結菜の不安な気持ちをさらに苦しめた。     「どうして……どうして……私はあの人を……主人を裏切ってしまったのだろう……あの人はずっと優しかったのに……私を大切にしてくれたのに……」      無意識に声に出して元夫のことを口走ってしまった。ふと振り向くと,叔父さんが恐ろしい形相で結菜を見ていた。車は法定速度を守り,ゆっくりと走っていたが横には雑木林が広がり,叔父さんの表情をより恐ろしく見せた。    その表情に恐怖を感じた結菜は,シートベルトを握りしめて力いっぱい叔父さんを蹴りつけた。 「きゃあぁぁぁぁーーーーーーいやぁーーーーーー」  悲鳴をあげながら無我夢中で何度も何度も蹴りつけた。結菜の脚を振り払おうとする叔父さんの手や腕も力いっぱい蹴り続けた。細く長い脚が当る場所,届く場所は片っ端から蹴り続けた。ハンドルも思いっきり蹴った。 「来るなぁぁぁぁーーーーーー私に触るなぁぁぁぁーーーーーー」    車が蛇行し何度かガードレールに車体が擦れ,激しく火花が散った。鉄が焦げるような臭いと,踏みしめられた草の臭いが車内を充満した。それでも躊躇なく蹴り続けた。悲鳴をあげながら蹴り続けていると,叔父さんの身体がぐったりするのがわかった。    途中までは叔父さんの悲鳴にも似た助けを求める声が聞こえていたが,結菜は必死だった。そして一瞬,車が宙に浮いたかと思うと目の前が真っ白になった。    次の瞬間,強い衝撃と大きな音が全身を包み込み,体が何度もシートに叩き付けられた。ガードレールを突き破り,車が勢いよく雑木林の急斜面を加速しながら進んでいった。激しい衝突音とともにすべてがスローモーションになっり,ぐったりした叔父さんの身体が人形のようにグニャグニャとシートの上で激しく揺れていた。    運転席の叔父さんは,シートベルトを緩めていたせいで急斜面に生えた木に衝突したと同時に驚くほどの勢いで窓ガラスを突き破って車外に放り出された。その姿はまるで汚らしいズタ袋のようで,木々の中へと飛び出していく叔父さんはとても人間とは思えなかった。    グチャグチャに壊れていく車を感じながら,結菜はまるで自身の身体が壊れていくように錯覚し,何度も身体を打ち付けながら口元が緩み,目の前が血で真っ赤な世界になっていくことに異常な喜びを感じていた。    転落する車が止まった瞬間,一瞬意識を失っていたことに気付き口元が緩んだ。潰れた車に閉じ込められ,口から泡状の血を吐き出していると鼻先を微かに硫黄の臭いが流れていくような気がした。 「あ……温泉のにおいがする……」  薄れゆく意識の中で結菜が覚えているのは,車がガードレールを突き破って急斜面を落ちるように走っていくところと,運転手が意識のないまま大きな木の間を縫うようして走る車だった。そして大きな木に車が刺さる瞬間,フロントガラスを頭から突き破って飛び出していく叔父さんの姿を思い出したところでテレビのスイッチを消すようにすべてが真っ暗になった。     「悠人……会いたいな……」    
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