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プロローグ
中央動物研究センター附属博物館は、全ての階層が吹き抜け構造となっている特殊な建物だ。その一階から五階までの展示フロアを全て使って、原始生命から人間誕生まで、進化の道筋を展示するのだと言う。
相澤翔は、博物館の入り口で、モスグリーンのワンピースに丈の短いレースカーディガンを纏う早瀬綾を見つけると、彼女の手を取り、誰もいない館内に入って行った。
「休館日に入って大丈夫なの?」
「館長の許可をもらえたの。貸切状態でしょう?」
「うん、すごいね」
展示物はリアルに再現された生物たちだ。地球誕生から多種多様な生命が誕生したカンブリア紀、そして恐竜が絶滅した白亜紀から現代にいたるまで、地球上に存在したといわれる、あらゆる生物が精巧に再現されている。
「近くで見ると迫力あるね、目力がすごい」
ベンガルトラの展示ブースの前で、相澤は左側にいる早瀬を振り返った。
「ですよね~。この子が目の前にあらわれたら人間はどうにもならないだろうなぁ」
フロアをゆっくり一周しながら、相澤はなんとなく違和感を覚えていた。展示物の目がこちらを凝視している。それはあの時のヘビと同じ目だ。その違和感はやがて現実となって二人の目の前に現れた。先ほどのベンガルトラがしなやかな動きで通路に出てきたのだ。早瀬もその異様な事態に気付き、相澤のシャツを引く。
「こういう、展開なんだ……」
――相澤、お前も入団した方がいい。でなければいずれ命を狙われることになる。
頭の中で良太の言葉が反芻される。相澤は隣を歩く早瀬の腰に手を回しながら、ゆっくり後ずさった。出口を目指すため、一階へ通じる階段の踊り場に向かったが、驚くべきことに二頭のライオンが通路を歩き回っていた。
「これってピンチだよね?」
「綾ちゃん、大丈夫。とりあえずこの建物から逃げよう」
「待って、オフィスに散弾銃がある。こっち」
職員用通路に入り込んだ二人は、同じ建物内にある東京都猟友会の事務所に向かった。幸い、動物たちは一般通路のみを徘徊しているようで、何事もなく事務所へたどりつくことができた。早瀬は部屋の奥にある二重扉を開けると、散弾銃を取り出し、それを肩に担ぐ。
「こっちから、研究センターの管理室を抜けて正面広場に出られるよ」
二人は足早に職員用通路を抜け管理室へ向かう。しかし、一般通路に出た直後、金色の毛並み鮮やかな猛獣が飛び出してきた。ライオンにも、トラにも似つかないその容姿。ネコ科の動物なのだろうが、異様に巨大な生物だ。荒い息づかいが、はっきりと聞こえてくる。
「翔さんっ。下がって、耳を塞いでいて」
散弾銃を構えた早瀬の瞳が猛獣を見据える。命を狙うという行為に倫理はあるのだろうか。早瀬は自身に対して常にそう問うてきたが、この瞬間に迷いはなかった。奪われる命と奪う命、その狭間で局所的な正しさはこちら側に宿っている。そう確信できた。
パンという乾いた銃声が響き渡り、飛び掛かろうとしていた猛獣の頭部を弾丸が貫いく。床に倒れこみ、小刻みに痙攣している猛獣の瞳には、まだ命の痕跡が残っていた。二人は、そのまま管理室に逃げ込むと、扉に鍵をかける。
「あの端末……」
薄暗い管理室に一台の端末がシャットダウンされずに稼動していた。相澤は鞄に手を入れると、良太から預かったUSBを取り出し端末に接続する。程なくして画面にはオパーリン財団のロゴマークが表示されたが、そのすぐ直後にデザインアースのロゴマークが表示された。
「オパーリン財団とデザインアース!?」
画面には良太本人が映し出されている。
『この映像を見ているということは、俺は既にこの世に存在しないだろう。さて、物事を知り、考えたり判断したりする能力、それを知性と呼ぶが、知性はいつから生命に宿ったのだろうか。それは進化の賜物なのか。それともこの宇宙にあらかじめ存在したものなのか。今、宇宙は覚醒しようとしている』
「これはなんなんだ……」
「翔さん見てっ。空がっ」
管理室の窓際で、早瀬が指差した先には、夕空に浮かぶ巨大な白い構造体だった。あまりの異様な光景に言葉を失う。
『知性はミクロ次元に織り込まれている。人間が生命と呼んでいるものは、知性をマクロ次元に具現化するための道具でしかない。そう、進化とは知性の次元展開の歴史』
「綾ちゃん、外に出よう」
早瀬の手を握りしめ、相澤は管理室の裏口から建物の外に出た。外の薄暗さは夕刻だからではない。上空に浮遊する謎の構造体のせいだ。中央広場は人ごみであふれ、みなこの異様な空を見上げていた。
「カラビ・ヤウ空間の四次元展開……あれが知性そのものなのか」
人ごみの中から、どこからともなく拍手が沸き起こり、「球主様の再来」という叫び声が混じる。
――主は地球のはるか上に座して、地に住む者を、イナゴのように見られる。
広大な宇宙の中で、人間の目に見えている範囲だけが世界の全てではない。いつだったか良太はそう言っていた。人間が観測できていると信じているこの世界は、実はごく一部の特殊解に過ぎないのではないだろうかとも。
相澤は空を見上げながら、隣に立つ早瀬の手をしっかりと握っていた。
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