知性の気配

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知性の気配

 風に揺れる木々の音に耳をすませながら、早瀬綾(はやせあや)はベンチに腰掛ける。少しずつ夏が透明になっていく感覚は、鮮やかな秋の訪れを感じさせてくれる前兆。吹き抜けていく風に少しだけ秋が混じっていた。  コンクリート製の巨大な建造物に囲まれた中庭は、趣のある風景とは縁遠い。しかし整然と配置された植木は、几帳面に手入れされており、景観は決して悪くない。周囲にそびえる建物は、東京都中央動物研究センターの外来生物管理棟だ。鳥獣保護法によって捕獲された外来生物たちが暮らしている。  アイスコーヒーの入ったカップを少し傾けながら、ストローを口元に運ぼうとしたとき、早瀬は視界に何者かの気配を感じて、その動きを止めた。中庭の中央にある水飲み場の右手から、一匹の動物がこちらを凝視しているのだ。シルエットは円形だが、細長い生物がとぐろを巻いている姿なのだと分かる。スクエア型の小さな顔とは釣り合わない下顎から、細い舌がチロチロと動いていた。 「ヘビ……。ちょっ。む、無理です……」  中央動物研究センター附属博物館の学芸員である早瀬は、動物行動学が専門であり、また東京都猟友会にも所属し、外来生物の防除も行う動物のエキスパートだ。しかし、ヘビはもちろん、ミミズやムカデ、ボウフラでさえ、細長い生物がどうにも苦手なのだ。やがて、スルッと光沢のある頭を持ち上げた細長い体が、ゆっくり早瀬に向かってくる。  彼女はベンチから立ち上がろうとしたが、足がすくんで動けなくなってしまった。コーヒーのカップを持つ右手だけが微かに震える。ブラック、グレー、クリーム、三色カラーの体色は鮮やかではあるが、その滑らかかつ鈍い動きには、異様な不気味さがまとわりつく。行動の目的や意味が理解できないから不気味に感じるのだろうか。鋭い眼光をじっと早瀬に向けたままゆっくりと近づいてくるその姿に、彼女は悲鳴をあげそうになった。 「彩ちゃん、大丈夫。飼育施設から逃げてきたんだろうか」  そう言って、彼女を後ろから抱きしめたのは、相澤翔(あいざわかける)だった。背中に感じる体温に、ほっと安堵の息をついた早瀬は、彼の腕に手を当てる。 「うん、逃げてきたみたい……。戻さないと」  相澤はそっと彼女から腕をはなすと、ゆっくりとヘビに近づいていった。警戒心の欠片もないそのヘビは、逃げようともせず、その視線を相澤へ向けている。体は細く、その体長は二メートルほど。  シーっと不気味な声を上げたヘビは、大きな顎を開き相澤へ飛び掛かった。瞬時にヘビの顎を交わした彼は、その後ろに回りこむと、首元をギュッと掴む。同時に体の真ん中あたりを抑え込みながらヘビを捕獲した。 「返してくるから少し待っていてね」  中庭の端にある外来生物管理棟の裏口に消えていく相澤を眺めながら、早瀬はゆっくり瞼を閉じた。あの視線に強い力を感じたのはなぜだろう。あれは確かに人間と同じ目をしていた。瞳に宿る知性。 「大丈夫だった? 彩ちゃん、ヘビが苦手だからね」  戻ってきた彼はそう言って、右手を彼女に差し出す。早瀬は彼の手を握りながら、ゆっくりとベンチから立ち上がった。 「ありがとう。やっぱり駄目だぁ。ヘビさんには申し訳ないのだけど……。でも、あのヘビの瞳、まるで人間みたいだった。なんていうか、人間と同じように考えている気がする。ねね、このところ動物たちの様子がおかしいように思うことがあるの。妙に頭が良いと言うか……上手く言葉にできないのだけど」 「どんな動物にも、その動物たちの世界に応じた知性があるよね。でも、知性はあくまで手段や方法に関するものだと思うんだ。だから、目的や価値のような意味は、僕たち人間にしか与えることはできなんじゃないかな。うん、大丈夫。きっと心配ないよ」 「翔さん、急に先生っぽくなった」 「あ、ごめん、つい。ああ、待たせてごめんね。少し遅くなっちゃったけど、ご飯食べに行こう」
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