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Ⅰ
秋の気配を肌に感じ始めたある晩、夜のマンション七階の、共用通路を照らす薄暗い照明に小さな蝶が囚われていた。黄色く見えるが、照明の色に染まっているのかもしれないとも思われた。
そんなことを思う私の目の前には今、見知らぬ女が立っている。まったく知らない女性だったし、声を掛けられる理由も思いあたらなかった。
女はストレートパーマをワックスで固めた綺麗な黒髪を胸元に垂らしていた。私はその見事なラインを目線で撫でると、彼女の胸元へと視線は移り、少し大袈裟な素振りで顔を背けて見せた。それは彼女の凛とした瞳に宿る意識が、私の視線に向けられているのを感じとったからだった。
「駄目ですか?」
私には、彼女の発した言葉の意味が飲み込めずにいる。
「お願いです」
弱弱しく畳み掛ける声の抑揚に本能的な切実さを感じた私は、一瞬気持が絆されるのを感じたが、心の中に潜む何者かの冷たい眼差しに気を取り直して質問を返していた。
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