失ったもの

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「ここだよ」  佳緒留が連れてきたお店は来たことがない場所だった。カウンター席と三十台のテーブルが置いてあるこじんまりしたバーで、壁はモスグリーンだった。  なんだか森の中のいるみたい。なんか不思議な色……  私は冷えてきた頭できょろきょろと店内を見渡しながらそう思う。  お客さんは私達しかいなかった。  まあ、平日でこんな時間だし。    私はそう自分に言い聞かせて佳緒留の隣に座る。そして店員に勧められるままカクテルを頼んだ。彼も同じように適当に飲み物を頼んだ後、私をじっと見つめる。その茶色の瞳は怒りを帯びているようだった。 「並子。僕の誘いを断っておいて、前野さんとは寝れるの?」  佳緒留は開口一番でそんなことを言う。 「そんなこと、何考えてるのよ!」  信じられない。 「いくらお酒が入ってるとは言え、それくらいの危険は自覚してたよね?」  怒りで顔を赤らめる私に、間髪いれずそう言葉を続ける。口調は穏やかだが、その茶色の瞳が責めるように私に向けられていた。 「それは……」  自覚してなかったというのは嘘だ。  肩に手を回され、嫌な予感はした。  でもどうでもいい私は、その予感を無視した。 「自暴放棄な気持ちになるのはわかるけど、その相手は僕にしてくれないかな?僕なら紳士的に対応するし、君への気持ちも本気だ」  彼は私から視線をはずすことなく、そう言い放つ。 「そんなの、できない。不倫なんかするつもりないから」  佳緒留に身を任すなんてできるわけがない。   そんなの最低だ。 「だったら、なんで前野さんについていったの?」 「そういうつもりはなかったの!ただ、悲しくて元の世界に戻りたくてどうでもよかったの!」  どうでもよかった。  お酒で楽になりたかった。  考えることが、思い出すことが嫌だった。  声を震わす私に、佳緒留は大きな溜息を洩らす。   「……なんで戻りたいの?あんなに、嫌がってたのに。毎日、溜息ばかりついたのに。この世界なら僕が君を絶対に幸せにしてあげれるのに」 「?」  なに?  佳緒留?  何って言った?  この世界? 「もう嘘をついてもしょうがない。僕は君の同級生じゃない。この世界は現実ではないんだ」 「どういうこと? だって、あのカエルが世界を変えたんじゃ」 「父さんは世界を変えたんじゃないんだ。君のために世界を作ったんだ」 「父さんって、世界を作るって?!」  わけわかんない。  確かにこの世界は私が知ってる世界だ。  作られたってどういうこと?  お父さんって? 「佳緒留!」  混乱してる私に聞き覚えのある声が届く。そして緑色のカエルが木製のカウンターの上に現れた。 「ばらしてどうするんだ。お前は」  カエルは腕を胸の前で組み、佳緒留を叱り飛ばす。 「カエル!どういうこと!説明して」  事実が、事実が知りたかった。 「ふん、ばれたらしょうがないな。その通り、この世界は偽物だ。わしが作り上げた」 「だったら、元の世界に戻してよ!」 「嫌だな。わしは息子の願いを叶えてやりたい」 「息子?」 「父さん!」  何言ってるの?  だいたい、父さんって。  カエルと佳緒留は親子なの?  憤る私をカエルはちらりと横目で見る。大きな口は皮肉げに歪んでいる。 「佳緒留よ。お前も欲がない奴だな。並子は、前の世界が嫌だと思い、家族を捨てて独身になりたいと願ったのだ。お前はこの女の日々の生活を見ていたんだろう? だったら、お前がこの女を幸せにしてやればいいじゃないか!」 「父さん!」    カエルの言葉は事実だった。  私はそう願った。  それは変えられない事実だ。 「並子。僕は水の鏡を使ってずっと君を見ていたんだ。だから僕は君を幸せにしてあげたかった。この世界で」    佳緒留の優しくて悲しい笑顔が私の胸を突く。  こんなに思われることが嬉しかった。  でも、 「佳緒留よ。遅くないぞ。わしが手を貸してやろう」  カエルはそう言い、その手に杖を出現させる。そして私に向かって振り下ろす。 「父さん!」 「並子よ。お前の悩みを根本から解決してやろう。次に目覚めたとき、お前は幸せになっている!」  私がその意味を考える時間はなかった。 「!」  次の瞬間、私の体は宙に浮いていた。驚く私にカエルは虹色の光を浴びせる。  開放感を感じた後、すぐに衝撃が体に加わった。 「並子!」  名を呼ばれ、ぎゅっと抱きしめられる。 「父さん、なんてことを!」  ぼうっとする頭に佳緒留の声が響く。彼が心配そうに私を見つめていた。どこにいるかわからなかった。浮遊感が消えていたから多分床の上なんだろうと想像ができた。 「これが並子にとっても幸せなんだ。お前もそうだろう?」  はっきりしない意識の中、カエルの声がそう聞こえる。 「でも!」  見上げる佳緒留の表情は眉が寄せられ、辛そうだ。  なに?  どういうこと?    私、どうなってるの?  体全体に電気が走ったように感覚がなかった。体が動かず、意識は消えかかっていて、かすかに見えていた視界も徐々に暗くなっていた。  私、死ぬの? 「並子!」  近くで聞こえていた佳緒留の声が遠のいていく。  声が完全に消え、暗闇が私の世界を支配する。静寂が流れ、私は自分の存在を探す。しかし、私は意識だけのようで、体は存在してなかった。  ぼんやりと光が急に現れ、その中に子供の姿が見える。  優斗、優斗だ!   私は彼を抱きしめようと手を伸ばす。  でも体がない私はただそう願うだけに終わる。  何?  何なの?  混乱してる私に今度は別の姿が見える。 「並子」  そして聞こえたのは優の声だった。 「並子」  私を呼ぶ声は、穏やかな声。そう、私の好きな彼の声。  光の中で微笑むのは優だ。  まっすぐに私を見つめる瞳はいつも真摯で、口元には優しい笑みが浮かんでいる。  彼が好きだ。  彼と一緒にいる日々が大好きだった。  そんな大事な気持ち、忘れていた。  優。ごめん。  今やっとわかる。  私は優じゃないとだめなんだ。  でも遅いよね。  ごめん。  光の中の優はただ笑っていた。  私の謝罪に答えることなく。  ふいにぼんやりとした光が一気に拡大し世界を支配する。そして暗闇の世界は一変して真っ白な世界に変わる。それは私の意識すら呑込み、全てを塗り替えた。
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