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ある日会社員の女性は、いつものように満員電車に乗った。
女性が暮らす街は所謂『地方』の田舎でそこまで人数が多くはないが、朝となると話は別。一両編成のワンマン電車ということも相俟って、そこにいる人間の数たるや乗せる電車が可哀想になる程。いつもいつも車内は、通学や通勤の老若男女でごった返していた。
しかし――。その日はなぜか、少しばかり様子が違っていた。
(? みんな、前の方に乗ってるわね?)
電車に足を踏み入れると前方がいつもよりギュウギュウで、大袈裟ではなく圧死しかねないレベルになっていた。実際傍に居る男子高生2人の身体は互いにめり込み、時折唸り声が漏れるほどだ。
(??? どうしたのかしら……?)
そんな風に思いながらも女性はどうにか車内に身体を捻じ込み、自身も周囲の人間と酷く密着しながら電車は進んでいく。
「もう、なんで今日はこんなに混んでるの……? てか、なんで奥に行かないわけ?」
「外から見た時は、後ろが空いてたよな……? どうなってんだよ……?」
そうしていると我慢の限界が近づいた若い女性と男性が愚痴をこぼすようになり、そんな感情が車内に伝播してゆく。
が、だ。
どうしてかソレが広がるのは、『ついさっき乗り込んだ人達』のみ。女性達より前に乗っている人達は、女性達よりも苦しい時間が多いにもかかわらず、理不尽とも思える状況に文句一つ言っていないのだ。
「もしかして、アレ? 後ろの席が壊れた、とか?」
「ああそれだな。じゃないとこんなの、ちょっとした暴動が起きるもんな」(…………そう、かしら? それだと運転手さんが、断わりを入れるわよね……?)
座席のトラブルは、運営する会社の責任。ならばその会社の一員である運転手が、少しもその点に触れないのはおかしい。
(だとしたら、原因は別。理由はなんなのかしら……?)
それを把握するべく後方をチェックしたいが、小柄な女性は長背の男女に阻まれており確認をできない。
そのため仕方なく諦めようと、していた時だった。三つ前にいた中年男性2人が、先程乗り込んできたグループに向けて声を発し始めた。
「すいませーんっ。みなさん聞いてくださーいっ!」
「え? なになに?」
「急に、どうしたの……?」
「実は電車の後ろに、怪我をした子犬を連れた女性がいるんですよっ。二つ前の駅に弱った犬が来たのでその人が介抱して、獣医がある4つ先の駅まで運んでくれてるんですっ」
「なので新しく乗って来た方達は、あと少し我慢してくださーいっ。よろしくお願いしまーすっ!」
「この子はすごく弱っていて、押されたりしたら大変なんですっ! すみませんが、ご協力をお願いしますっ!」
男性2人に続いて後方から女性の大声が響き、それを合図に車内から不満の声が完全に消える。
そしてそれと引き換えに、電車内では新たな声が上がり始めた。
「後ろ、スペースに余裕ありますかねーっ? ギリギリなら、もっと無理して詰めますよっっ?」
「席に座ってる同性の膝に乗れば、多少ゆとりはできるはずですっ。大丈夫ですかーっ?」
車内では配慮に満ちた言葉が飛び交うようになり、乗り込んできたばかりの者達も、次の駅で乗り込んできた者達も、気遣って身体をしっかりと寄せ合う。
「獣医がある駅まで、あと3つですっ。みなさん堪えましょうっ」
「ええっ! わんこちゃんのために、みんなで頑張りましょうっ!」
そうしてその後も、この空間から思い遣りの気持ちが途絶えることはなく――。負傷した子犬と女性は、無事に下車。一人と一匹は苦を共にした仲間達に見送られ、近くにある建物に消えていった。
「ふぅー、よかったぁ。あの子が助かって、本当によかったぁ」
「ですよねっ。みなさん、お疲れ様です!」
「乗客の皆様、ご協力ありがとうございましたーっ!」
「そういうアンタらもお疲れさんで、もう一度みんなありがとう! ここにいる人間は皆、最高の人間だっっ!」
(ええ、そうね。ここにいる人達はみんな素敵な人達で、あたしは生まれて初めて人ごみが好きになれたわ)
歓声が上がり続ける混雑が幾分解消された車内で、女性はくすりと微笑む。
この女性が乗ったのは、いつも通りギュウギュウな満員電車。朝起きた時から嫌気がさしてしまう、満員電車。
でも今日のギュウギュウは大勢の優しさが生み出したもので、こんな人ごみなら悪くはないと思ったのであった。
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