第三章 ふたり

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 その時、思い出した。父には腹に一箇所、皮膚を削いだような古傷があったのだ。   (まさかあれは、自分で痣を刃物で削いだのか?)   そんなオレの動揺など気づかない様子で、深山さんは昔話を続ける。   「実はあなたのお母さんと出会う前に、小学校で教師をしていた近藤(こんどう)久(ひさ)恵(え)さんという女性とおつきあいがあったんですが、その方は二十四歳の時に肺炎を患って亡くなっているんです。まあ、婚約者が亡くなったのが、よほどショックだったんでしょうねぇ。赤い痣の妄想にとりつかれて、伝説の痣と久恵さんの頭の痣を一緒くたにしてしまったんです」  「頭の痣ですか?」  「いやなに、彼女は自分の頭に赤い痣があるのをひどく気にしていましてね、髪の毛で隠れるから、彼もわたしも気にしなくてもいいと言ったんですが――」  「蝶の形をしていたとか?」  「偶然ですよ」と、深山さん、首を横に振る。  やはり近藤久恵の痣は伝説と同じだったのだ。  しかし親父にも同じ痣ができたんだろうか?  「父にできたという痣は、ご覧になったんですか?」  「ええ、あれは蝶の形でもなんでもなかったですよ、ただの赤い湿疹です、たぶんストレスが原因だったんでしょうが、彼は『蝶の形になる前に切らないと!』 と、錯乱して……」  深山さんは、すぐに(これは余計なことを口走った)と、思ったのだろう。  慌てたように言葉を継ぎ足した。  「いや、なに、すぐに落ち着いたんですよ、正気になってバカなことをしたと後悔されていました。それからすぐにあなたのお母さんと出会って郷土研究をやめてしまったんです」  その話を聞いて嫌な予感がした。  (錯乱? 親父はなにを恐れたんだ?)  まるで野獣が棲んでいる洞窟の前にいるような気がする。なぜだろうか?  「その久恵さんという人は、どのような方だったんですか?」と、訊いてみた。  すると深山さんは、溜息をつき、  「やはり気になりますか? まあ、そうですね、痩せて色が白い綺麗な方だったですな。いつも本を読んでいて、躾(しつけ)には厳格な先生だったので生徒には怖がられているようでした」  もっとも重要な証言だった。  思ったとおり、それはかつての母の姿そのものだ。
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