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1 全ては成功のために
太陽がアスファルトを温め、アスファルトによる下からの熱気と太陽光による上からの熱気が人々を襲う。オリンピックを間近に控えた東京では連日「高温注意情報」が発表され、熱中症への注意喚起がされている。暑さは今後さらに厳しくなるとされており、人々は不快感を隠せない。
そんな日本の夏特有の暑苦しい空気の中、晃一は一人で道を歩いていた。国内ではクールビズが推奨されており、多くの社会人がジャケット無し、ネクタイ無しで日々を過ごす。そんな中、黒スーツを着て道を歩く晃一の姿は妙に浮いている。
三十五度を超える暑さの中で黒スーツを身にまとっているというのに、晃一の顔には汗一つ浮かんでいない。やけに膨らんだビジネスバッグを片手に、迷いのない足取りで道を進んでいく。時折腕時計で時間を確認するも急ぐことはなく、足を進める速さは変わらない。
楕円形を模した巨大な建物。上空から見るとドーナツのように天井の一部が空いており、そこから整備されたグラウンドが見える。建設してまもないこの建物はまだ周囲の雰囲気に馴染んでおらず、若干浮いていた。敷地内に一度足を踏み入れれば、耳障りな蝉の鳴き声が一際大きくなる。
晃一がやってきたのは、新国立競技場であった。様々なトラブルの影響で当初の予定より遅い二〇二〇年二月に完成した、真新しい建造物。東京オリンピック、パラリンピックのメイン会場となる建物であり、開会式と閉会式がこの新国立競技場で行われることになっている。
「改めて近くで見ると、でっかい建物だな」
これまで、映像や模型としてであれば幾度となくテレビやインターネットで確認してきた。しかし、そのようにしてこれまで見てきたものと、今、晃一の目の前にあるものでは、その存在感が大きく異なる。巨大な競技場を目の前にすると、自分が小人にでもなったかのような錯覚に陥ってしまう。
新国立競技場を前に、晃一の足が止まる。複数ある入口のうちどれが関係者の入口にあたるのか、わからなくなってしまったのだ。場内地図を確認するのも手だが、それをしたところで入口の一般名称がわかるだけ。数ある入口のどれが関係者専用なのかまではわからない。
「あれ、晃一さんじゃないっスか! こんなところで立ち止まってどうしたんスか?」
敷地内で不自然に立ち止まり、キョロキョロと周囲を確認する晃一。背後からかけられた声に、その体がピクリと跳ねる。嫌な予感を払拭したい一心で首だけを後ろに向ければ、そこには見覚えのあるシルエットがひらひらと手を振っていた。
晃一の声をかけたのは、若い男性であった。クールビズに則ってネクタイ無し、ジャケット無しのスタイル。ワイシャツは第一ボタンを開け、襟を大きく開くことで暑さを軽減。明るい茶髪とわざとらしさのない笑顔は、相手に爽やかな印象を与える。
現れた人物を確認した晃一は思わず大きなため息を吐く。なんとか笑みを崩さないようにするも、その笑顔はどこか苦しげだ。重たいビジネスバッグが手のひらからこぼれ落ちそうになり、慌てて両手でその持ち手を掴む。
「京橋さんこそ、どうしてここに?」
「『良亮』でいいっスよ。あと、その敬語もやめてください。年齢も経験も、晃一さんの方が上じゃないっスか」
「仕事上の立場は、良亮の方が上だろ? だから、近くに職場の人がいそうな時は敬語とか使うんだよ。他の奴も同じ。もう少し自分の立場、自覚してくださいよ。俺らはあくまでも有事に備えているだけ。何も起こらないのが一番なんだからな」
「そんなこと言わないでくださいよ。俺一人じゃ無理っス。この前のやつだって晃一さんがいなかったら――」
「そういう話は外であまりするな。そう、チーム結成時から言い続けているよな?」
良亮と名乗る若い男性は、晃一のことをやたら持ち上げている。そんな良亮の言葉に、次第に晃一の顔から笑みが消えていく。一瞬だけ眉間にシワを寄せ、良亮の顔を睨みつけた。かと思えばわざとらしく声を出してため息を吐く。
「で、晃一さんはどうしたんスか?」
「……入口がわからないんだよ。どの入口から入るように指示されていたのか、うっかり忘れたんだ」
「そういうことなら、俺が通りかかってよかったっスね。せっかくなんで道案内するっス。ここで迷うの、晃一さんだけじゃないんスよ。当日になれば、出入りする人の数とかで一目瞭然なんスけどね」
入口に迷ったのは自分だけではない。そう知らされると、晃一の両肩が遠目からもはっきりとわかるほどに下がる。顔には出さないが、相当緊張していたようだ。安心して脱力した拍子に鞄を落としそうになり、慌てて鞄を持ち直す。そんな晃一の様子がおかしかったのだろう。良亮が腹を抱えて笑い始めた。
良亮の手が晃一の肩に乗せられる。優しく肩を叩くと、今度は背中を優しく叩いた。太陽のように眩しい笑顔が晃一に向けられる。明るい茶髪が太陽に照らされ、黄金色に煌めく。困惑の表情を見せる晃一。その体には良亮の手が絡みつき、体感温度を上昇させる。晃一の頬を汗が伝った。
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