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第7話
すぅっと冷静になった時、兄の腕の中にいた。
随分と苦しかった呼吸はすっかり元に戻ったが、酸素不足で指先が若干痺れている。小さな手がゆっくりと背を摩ってくれるのがとても心地よかった。
「…ごめん」
細い肩に額を預けて呟くと、そっと微笑む気配。背中を摩ってくれていた手でふんわりと龍樹の手を握られて、ゆっくりと立たせてくれた。いつもは自分の方が体温が高いのに、この時は水樹の手の方が温かかった。
「お茶淹れよっか」
龍樹は過呼吸持ちだ。
幼い頃の凄惨な体験から、何かというと発作を引き起こして軽い錯乱状態に陥り、そしてそれを宥めるのは大抵水樹の役割だった。
成長と共に少しずつ頻度は減ってきたし、症状も軽くなってきていたので、今回のように水樹のところへ駆け込んできたのは随分久し振りのこと。
目の前に現れた湯呑みは湯気を立てている。そういえば随分と喉が渇いているような気がしてすぐに手を伸ばした。
「あっつ」
「淹れたてだからね」
少し火傷したかもしれない。
結局、せっかく出してくれたお茶は温くなるのだった。
暫く静寂が訪れる。
水樹は手持ち無沙汰なようで頬杖をつきながらスマホをいじっていた。仲が良いとはいえ、二人きりのときに大した言葉もないのは珍しくないので気にしていないのだろう。どこか落ち着かないのは、龍樹の方だった。
「…聞かないのか」
何があったのか。
言外にそう伝えると、水樹は漸く顔を上げた。んー、と小首を傾げる仕草はあどけない。
「聞いて欲しいんなら、聞くけど」
「けど?」
「聞いて欲しくなさそうに見える」
違う?と続けられた言葉に、龍樹は緩く首を振った。
敵わないのだ、この兄には。
隠し事も出来ないし、心の奥底で望んでることもバレてしまう。
「…お見通しかよ」
「お兄ちゃんだからね」
「数分な」
いつものやりとりが、心を安らげてくれる。その後暫くお互い無言だった。
水樹はすっかりリラックスしている風だったが、龍樹はやはりどこか落ち着かない。何度か様子を伺ってみたが、それにも気付いていないようだった。
「…聞いてもいいか」
やっとの思いで口を開いたのに、水樹はキョトンと間抜けな面構え。
少しの間まじまじと顔を見てきたが、やがて小さくこくんと頷いた。
「水樹は…その、水無瀬と初めて会った時のこと覚えてるか?」
「…へ」
また、間抜け面。
無理もない、龍樹の口から二人の関係に関与することはほとんどないからだ。
今でこそ水無瀬と水樹は番として周りにも認知されているが、元々水無瀬は龍樹と恋人同士だったのだ。あの日の出来事は確かに不運が重なった上での事故だったし、被害者は一生ものの鎖に繋がれてしまった水樹だ。だというのに、水樹は泣いて謝った。
ごめん、ごめんなさい。
悲痛な声でただそう繰り返す水樹を見て、水無瀬とは何もなかったことにしようと決めた。手助けはしても口出しはしないと。
だから龍樹がした質問を怪訝に思ったのかもしれない。いや、もしかしたら聞かれたくなかったのかも。
「悪い、やっぱ」
「いいよ、なに?覚えてるよ」
やっぱりいい、という言葉を遮って、水樹は脚を組み替えた。
「水無瀬の存在を知ったのは中等部の入学式だけど、会話したのはずいぶん後だよ。中1の秋かな…ほら、ジャージ借りに行ったでしょ、あの時」
明後日の方向を向いて語り出した水樹の表情は読めない。懐かしんでいるようでありながら、どこか必死で記憶を手繰り寄せているような。或いは、言葉を探しているような。
「ほんとにびっくりしたよ、噂通り絵画から出てきたみたいなんだもん。でも、」
そこで一旦水樹は言葉を切った。
そして次の言葉に、龍樹は驚愕した。
「…怖い人だな、と、思った」
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