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第9話
ふっと意識が戻ってゆっくりと目を開けると、いつもと違う景色に龍樹は少し混乱した。
(ああ、水樹の部屋…)
乱雑に本が積み上がっている自分の部屋とはまるで違う、スッキリと整頓された部屋。水樹はそもそも物をあまり持たないので、同じ間取りなのにとても広く感じた。
一緒に寝たはずの布団はすっかり冷えている。
不審に思って時計を見れば時刻は既に11時近くて、龍樹はやっと覚醒して飛び起きた。
「あ、やっと起きた」
キッチンスペースからひょいと顔を出したのは、すっかり身支度も整えた水樹だが、着ているのは制服ではなく普段着だ。龍樹の記憶が正しければ、今日は平日。
しかも、よりにもよって。
「…1時間目の科学、実力考査…」
「うわぁ、それはご愁傷さまとしか言いようがない」
ていうか寝癖すっごいよ、と指をさされて、龍樹はがっくりと項垂れた。
「ごはんは?朝作ったのあるけど、もうお昼までいい?」
「…食う」
「じゃ温めるから待ってて。顔洗ってきたら?」
言うだけ言って、水樹はまたキッチンスペースに引っ込んでしまった。
あの様子だと水樹も学校に行く気はもうないのだろう。龍樹もすっかり気が抜けてしまって、欠伸をひとつして頭を掻いた。触れた髪の毛は指摘された通りあちこちに好き放題跳ねている。これは簡単には直らないなとまた項垂れるのだった。
元々毛が細く柔らかいために、寝癖はつきやすく湿気に弱いという大変面倒な髪質なので、梅雨の時期になると朝は余計な早起きが必要なほどだった。いっそ頭からシャワーを被って乾かした方が早かったりする。予想通りいつもより強固なそれをなんとか見れるようにして洗面所を出れば、丁度水樹が炊飯ジャーを開けて白米をよそっているところだった。
その後姿のある一点に、目が釘付けになった。
「保温しっぱなしでちょっと硬いかも。龍樹がねぼすけだから仕方ないねー」
こちらを見ないまま水樹がふふっと笑う。
ゆっくりと水樹に近寄ると、普段は髪の毛とシャツの襟に隠れてあまり見えないそれが姿を現していた。
噛み跡。
水無瀬との、番の証だ。
吸い寄せられるようにその項に手を伸ばし、ほんの少しだけ指先が触れたその瞬間。
「…っ!?」
ガチャン!
と鈍い音を立てて茶碗が割れた。
2人の間に張り詰めた空気が流れる。
触れられた項を守るように手で覆い、大きく見開いた目で自分を見上げる水樹は、誰がどう見ても怯えていた。その水樹に思い切り撥ね付けられて行き場を失った龍樹の手は、所在無くその場に浮いている。
「あ、…ごめ…」
水樹が発した声は弱々しく震えていて、らしくないその声が、今の水樹の動揺の程を物語っていた。
その声を聞いて龍樹は激しく後悔する。
驚かそうなんて、ましてや脅かそうなんて。水樹が心穏やかに過ごせることを第一にずっと生きてきたのに、自分が怖がらせてどうする。
まだ怯えを滲ませたその瞳は信じられないものを見るように龍樹を凝視して、そして少ししてから深く息を吐いた。
「なに、なんか付いてた?」
「あ、あ…ゴミ」
「もー言ってよ!びっくりしたなぁ」
「悪い…」
急所だよ急所!
と続けた水樹はもういつも通りだ。
その場に突っ立って呆然としている龍樹の足元に散らばった茶碗の破片と無駄になった米を拾っている。
水樹は気持ちの切り替えが異様に上手い。
龍樹はといえば、撥ね付けられた手をじっと見つめることしか出来なかった。
━━━
その翌朝のこと。
「水樹の匂いがする」
極々普段通りの会話の最中、突然首筋に顔を寄せてきた水無瀬はそう呟いた。
水無瀬の顔はつくづく心臓に悪い。
龍樹が真っ赤になって反射的に飛び退いたので、水無瀬は少し意地の悪い顔でくすりと笑った。
「そんなにビックリしなくてもいいじゃない」
「ビックリするだろ…」
はああ、と大きく息を吐き出した龍樹は火照った顔をなんとかしたくて手の甲を頬に押し当てた。
自分はどちらかというと表情豊かではないと思っていたが、水無瀬の前ではまるで当てはまらない。意思に反してすぐに赤くなる顔は、赤面症のようだとさえ思う。
「そんなにフェロモン移るほど何してたのかな」
「なんもねぇよ」
「ふぅん?」
わかっているくせに。触れることすら容易ではないことくらい。
と、昨日の水樹の怯えた目を思い出す。
噛み跡を見つけて、なにを思ったかそこに触れてみたいと思ってしまって。抗うことなく触れたら、あんなに驚いて怯えて。
普段から兄弟間のスキンシップは多い方だと思う。あんな風に拒絶されたのは初めてだった。だからこそどうしていいのかわからなくて、言葉も出てこなくて。
龍樹は頭を振って、水樹の残像を追いやった。
「…なんだよ、嫉妬か?」
「んー?うん、そうね、ちょっと妬けるかな」
嫉妬の影など微塵も見せずに、水無瀬はそう言った。
それきり会話そのものが途絶えてしまって、龍樹は俯いて靄のかかった思考回路に沈み込んでしまった。
(嫉妬してるのは、俺の方だ)
名実共に水無瀬のものになった兄に。
元々は、自分がこの美しい人の隣にいたのに。
たまに考える。
もしも自分がΩだったら、噛んでくれたのだろうかと。
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