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第10話
それからしばらく穏やかな日々は続いた。
もともと接点のない先生だ。
落合が積極的に動いていたからこそ頻繁に顔を合わせていたものの、第3図書室での一件からぱたりとその気配はなく、廊下ですれ違うことすらなく、季節は梅雨が明けようとしていた。
龍樹は心の片隅で落合の存在を気にはしていたものの、戻ってきた日常と迫ってくる大学受験を前に、その懸念を追いやることは容易だった。
一つ変わったのは、あれから水樹の部屋に入り浸るようになったことか。
あの時不用意に触れたせいで水樹との関係に亀裂が入ったりはしないかと一抹の不安を覚えたものの、それは無用な心配だった。
水樹は寧ろ龍樹に頼られることが嬉しい様子で、いつも笑顔で受け入れてくれる。
必然的に水無瀬と過ごす時間も増えて、龍樹はそれなりに満足した生活を送っていた。
━━━
久しぶりに図書室にこもっていた龍樹は、ついさっき出された英語の課題に取り組んでいた。
というのも、つい昨日から水樹が発情期を迎えたので、水樹の部屋に行くわけにいかなかったからだ。
いつもの窓際一番手前、新書コーナーの一番近くの席。
夏が近付いて夕方でも日当たりがよく、窓を開けていれば風も通るため、湿気のある時期にしては快適だ。
すると、風に乗ってふわりと仄かに甘い香りが漂う。
反射的に視線を上げると、落合の大きな瞳と視線がかち合った。
「…たつきくん」
ほんの2ヶ月程度聞かなかっただけのその声は微かに震えていた。
少しの間気まずい沈黙が続いた。
けれど視線を逸せない。
数回、言葉に詰まった落合が口を開閉したところで、龍樹は漸く視線を問題集に戻した。
無視されたと思ったのか、落合の顔が少し落胆したのが目の端で捉えられたが、それこそ無視した。
「あ、の…ごめん俺、」
「入れば?用があって来たんでしょう」
少し躊躇して、落合が小さな歩みでこちらにやってくる。
すっかり萎縮した様子の落合は、抱えていたプリント類を握りしめた。
くしゃりという紙の音がやたらと響いた。
確かに脅かしたが、あの時はこっちだって脅かされた気分だ。
龍樹は思わず小さく溜息を吐いたが、それに気付いた落合はビクリと身体を跳ね上げて、それにまた溜息を吐きたくなった。
「…別に襲いませんよもう」
「えっ!あ、ちがっ」
「じゃ何ですか」
再び顔を上げて見れば、落合はボンッと音がしそうな勢いで赤面した。
「あの、その、えっと」
「なに」
さっきはあんなに視線が交わって外せなかったのに、今度は全くこちらを見ようとしない。
真っ赤になってそわそわと視線を泳がす落合に少々の苛つきを覚えて、それを隠さず声に出したつもりだったが、意外にも自分の口から出た声は柔らかかった。
「たつきくんが目の前にいるのが、なんか嘘みたいで」
嫌われてると思ってたし、と伏せた目は、少し潤んで見えた。
「別に嫌ってなんか」
嫌っていない?
そんな訳ない。
こんな風に煮え切らない態度もイライラするし、誰が聞いているかわからないような場所で立場を弁えない発言をする考えなしだし、なにより人のペースをこんなにも乱してきて、不愉快極まりない。
けれど、何故か嫌いだと口にするのは憚られた。
現に不思議と龍樹の心は今、凪いでいる。
発情期を迎えた水樹の元へ行く水無瀬の背を見送って、やり場のない虚しさで覆われていた。
それを忘れたくて図書室に来た。
何か読もうと思ったけれど集中出来なくて。
結局受験生だからと理由をつけて勉強しだしたのに。
「………それ、英語だよね、リーディング?」
黙りこくった龍樹をどう思ったのか、落合は話題を変えた。
幼く見えるが、落合とて立派な大人だ。
少なくとも龍樹よりも5つは年上だろう。
気を使われたことに若干の居心地の悪さを感じながらも感謝して、龍樹は小さく頷いた。
「特進科ってこんなのやるんだ、すごいね」
「…持ち上がりの普通科1年なんて、酷いもんでしょう」
「あはは、うん、まぁね」
不思議だ。
あんなにも避けていた落合と、こんな普通の会話をしていることが。
落合の少し高い声は、龍樹の耳によく馴染んで、とても心地いい。
図書室には、2人の他に誰もいない。
誰も、来なくていい。
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