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第2話
龍樹は昔から大人しい子どもで、とにかく本ばかり読んでいた。
それは成長してからも変わることはなく、有数の進学校であるこの学校の広い図書室は大のお気に入りだ。
特に窓際の一番手前の席は学校が仕入れたばかりの新書コーナーが近く、龍樹はいつも真っ直ぐにそこに向かう。
(…あれ、)
いつもはほとんど人がいない放課後の図書室だが、今日は珍しくその席に先客がいた。
別に名前が書いてあるわけでもないのに、そこは俺の席だと声をかけるほど龍樹は血の気がある人間じゃない。
先客がいたら別の席に座ればいいだけの話だ。
しかしその先客を龍樹は知っていた。
そしてできれば、関わりたくない部類の知り合いで。
「あ、」
気付かれなかったらそのまま立ち去ろうと思ったが、ドアを開ける音に反応したその男はしっかりと自分を見た。
ざわりと何かが背筋を走った気がして、半ば反射的に踵を返した。
「待って……っわ!」
ガタンッ!ドタンッ!
「………え?」
そのまま走り出そうと踏み出したが、予想外の鈍い音に龍樹は思わず振り返った。
目の前の光景が俄かに信じ難くて、思いっきり顔を顰めてしまったのは致し方ない。
男が座っていた筈の椅子は無残に転がり。
テーブルは定位置から盛大にずれ。
まるで古いコントのように人が倒れている。
---目を離した一瞬で何が起きた。
「…大丈夫ですか?落合先生」
死んだのかと思うほどに微動だにしなかったそれは、龍樹の言葉を聞いたその瞬間に勢いよくガバッと顔を上げた。
転んだ拍子に打つけたのか鼻の頭と額が赤くなっている。
なんとも間抜けな顔に痛みからくる生理的な涙がじわじわと浮かんでくるのを、心底呆れて見ていた。
「な、なんで、なまえ、」
「なんでって…さっき始業式で喋ってたじゃないですか」
「あ、ああ、そっか、へへ…そうだった」
涙のせいで若干鼻声になっている男にしては少し高い声は、マイク越しに聞くよりずっと耳馴染みがいい。
壇上では緊張の様子は見えたもののしっかりと自己紹介も挨拶も熟していたのに、酷く挙動不審だ。
「あ、あのね、昨日はごめん…びっくりしたよね、俺すぐ暴走しちゃって」
「別に…俺もスマホ見てたし」
「え、あ、え?え?違うぶつかったことじゃなくて」
「デコ赤くなってるから保健室行った方がいいですよ」
はいこれ、と龍樹は落合が読んでいたらしい歴史小説を差し出した。この作者の作品は龍樹もよく読んでいる。
新作出してたのか、とぼんやり思った。
これ以上この場にいたくなかった。
会話を続けてはいけない気がしたから。
「ありがと…あの、名前!名前聞きたくて!」
頭の中で警鐘が鳴る。
早くこの場を去りたい。
なにか根拠があるわけではない、ただ本能的に興奮のような、それでいて恐怖のようなものを感じていた。
「………橘です」
下の名前を告げなかったのは防波堤。
何か言いたそうな瞳を一瞬捉えたが、龍樹は立ち上がって軽く会釈すると、早足で図書室を後にした。
━━━
龍樹が落合と初めて会ったのは昨日のことだ。
寮内の売店に行った帰りに、スマホ片手に歩いていた龍樹は段ボールの山を抱えた落合とぶつかって2人して尻餅をついた。
あたりに散乱した段ボールの中身を集めて渡した瞬間、目が合って、時が止まった気がした。
そして落合はいきなり龍樹の手をしっかりと握ってこう言ったのだ。
『運命って、本当にあるんだね…!』
その先を聞きたくなくて、龍樹は落合の華奢な手を叩き落とした。
売店で買ったゼリーはその場に散らばったまま、そんなこと構いもせず逃げてきた。
そして今日の始業式で、新任教師として壇上に上がった落合を見た時、眩暈がする思いだったのだ。
『落合 優弥です。』
そうゆっくりと話し出した彼に確かに嫌悪感を抱いたのに、なぜか目を反らすことが出来なくて、それが堪らなく怖かった。
救いは全く接点がないことだろうか。
落合の担当は現国で、高校1年普通科を教えるらしい。
龍樹の在籍は高校3年特進科だし、部活にも入っていない。中学からずっと図書委員をしていたが、今年は委員会に入らなければいい。
会おうと思わなければなかなか会わないだろう。
この時はまだ運命の柵を軽く考えていた、と後に龍樹は思う。
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