第6話

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グッと握った拳が震えている。 無骨な大きな手だ。 あの手がぐしゃっと頭をかき回してくれるのが、可愛がってくれているのを実感できて好きだった。 と同時に、例のあの日胎内に侵入してきた感触を思い出して、嫌悪に眉根を寄せる。 「…すいません。」 「いや…」 ゆっくり顔を上げた佐藤の方が苦しそうだった。 スポーツ特待生として私立校に入学するくらいだ、今までこんな不祥事起こしたことないだろう。 佐藤はじっと水樹を見て、それから少し振り返って廊下の向こうを見た。 「今の、水無瀬 唯だろ?」 「え?ああ、はい。」 「初めて近くで見たけど、すごいな。仲良いのか?」 「…どうですかね。」 突然振られた話題に狼狽する。 水無瀬の話なんて、今の流れにあっただろうか。 「…好きなんだろ?」 と。 確信を持った言い方をされて。 まさか、そんなことないですよ、とか適当に否定しておけばよかったのに、何の言葉も出て来なくて。 そんな様子を見て、佐藤は苦く笑った。 「あの日、首輪をしっかり握りしめたまま落ちたお前が…呼んでたよ。」 ─── 部活、行くよ。 そう言い残して去っていった佐藤の後ろ姿を見送って随分経つ。 もう午後の授業はとっくに始まった。むしろそろそろ終わるかもしれない。 水樹はただボーッと自販機の横にあるベンチに腰掛けて、手の中のお茶を見ていた。 『仲良いのか?』 イエスと答えることができなかった。 彼の中で自分は友達ですらないかもしれないから。 恋人の兄って、どういうカテゴリなんだろう。 水樹は温くなったお茶のペットボトルを開けて、ほんの少し口に含むと徐にスマホを取り出して、一枚の写真を呼び出した。 写っているのは、龍樹だ。 片膝を抱えて、真っ赤になってこっちを見ている。それを見て、ふっと笑いがこぼれた。 「あいつこんな顔するんだなー。」 照れることはよくある。けれどそれを必死に取り繕うのが水樹のよく知る龍樹だ。ちっとも隠せていないけれど。 こんな、まるで甘えるみたいな顔は知らない。 「水無瀬には、甘えられるんだ」 ポツリと呟いて、それがグサリと胸に刺さった。 龍樹は水樹には甘えてこない。 それは水樹が龍樹にとって守るべき対象だから。 幼い頃、Ωの水樹がαの叔父に犯されたその時から、龍樹にとって水樹は甘える場所ではなくなった。 αばかりの家族に寄り付かなくなって、いつもどこかピンと糸を張り巡らせて水樹をαから守ろうとしていて。 「…辛かったよね、ごめんね。」 安らぐ場所がどこにもなかった龍樹。水無瀬がそれを与えてやれるというのなら、決してそれを奪ってはならない。脅かしてはならない。 「……っ、…」 ぼろぼろと涙が溢れた。 元より望みなどカケラもなかった。 気付いた時には失恋していた。 それでも好きでいた。 諦めきれなかった。 けれどこの恋心そのものが、龍樹の安らぎを脅かす。 もしも気付かれたら、龍樹はきっと気にしてしまうだろう。心に小さな蟠りを作って、せっかく見つけた安らぎを邪魔してしまうに違いない。 『…好きなんだろ?』 「好き、だった。」 いっそ恋人の兄という微妙な立ち位置で良かったかもしれない。どこまでも望みが薄い立ち位置で良かった。 望みなんてあったら、きっと、もっと。 「…っあー、つら…」 今だけ泣こう。 次に顔を上げた時には、笑顔で龍樹に会おうと決めた。 やーめた。 それで好きでいることをやめられたらいいのに。
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