2180人が本棚に入れています
本棚に追加
/219ページ
グッと握った拳が震えている。
無骨な大きな手だ。
あの手がぐしゃっと頭をかき回してくれるのが、可愛がってくれているのを実感できて好きだった。
と同時に、例のあの日胎内に侵入してきた感触を思い出して、嫌悪に眉根を寄せる。
「…すいません。」
「いや…」
ゆっくり顔を上げた佐藤の方が苦しそうだった。
スポーツ特待生として私立校に入学するくらいだ、今までこんな不祥事起こしたことないだろう。
佐藤はじっと水樹を見て、それから少し振り返って廊下の向こうを見た。
「今の、水無瀬 唯だろ?」
「え?ああ、はい。」
「初めて近くで見たけど、すごいな。仲良いのか?」
「…どうですかね。」
突然振られた話題に狼狽する。
水無瀬の話なんて、今の流れにあっただろうか。
「…好きなんだろ?」
と。
確信を持った言い方をされて。
まさか、そんなことないですよ、とか適当に否定しておけばよかったのに、何の言葉も出て来なくて。
そんな様子を見て、佐藤は苦く笑った。
「あの日、首輪をしっかり握りしめたまま落ちたお前が…呼んでたよ。」
───
部活、行くよ。
そう言い残して去っていった佐藤の後ろ姿を見送って随分経つ。
もう午後の授業はとっくに始まった。むしろそろそろ終わるかもしれない。
水樹はただボーッと自販機の横にあるベンチに腰掛けて、手の中のお茶を見ていた。
『仲良いのか?』
イエスと答えることができなかった。
彼の中で自分は友達ですらないかもしれないから。
恋人の兄って、どういうカテゴリなんだろう。
水樹は温くなったお茶のペットボトルを開けて、ほんの少し口に含むと徐にスマホを取り出して、一枚の写真を呼び出した。
写っているのは、龍樹だ。
片膝を抱えて、真っ赤になってこっちを見ている。それを見て、ふっと笑いがこぼれた。
「あいつこんな顔するんだなー。」
照れることはよくある。けれどそれを必死に取り繕うのが水樹のよく知る龍樹だ。ちっとも隠せていないけれど。
こんな、まるで甘えるみたいな顔は知らない。
「水無瀬には、甘えられるんだ」
ポツリと呟いて、それがグサリと胸に刺さった。
龍樹は水樹には甘えてこない。
それは水樹が龍樹にとって守るべき対象だから。
幼い頃、Ωの水樹がαの叔父に犯されたその時から、龍樹にとって水樹は甘える場所ではなくなった。
αばかりの家族に寄り付かなくなって、いつもどこかピンと糸を張り巡らせて水樹をαから守ろうとしていて。
「…辛かったよね、ごめんね。」
安らぐ場所がどこにもなかった龍樹。水無瀬がそれを与えてやれるというのなら、決してそれを奪ってはならない。脅かしてはならない。
「……っ、…」
ぼろぼろと涙が溢れた。
元より望みなどカケラもなかった。
気付いた時には失恋していた。
それでも好きでいた。
諦めきれなかった。
けれどこの恋心そのものが、龍樹の安らぎを脅かす。
もしも気付かれたら、龍樹はきっと気にしてしまうだろう。心に小さな蟠りを作って、せっかく見つけた安らぎを邪魔してしまうに違いない。
『…好きなんだろ?』
「好き、だった。」
いっそ恋人の兄という微妙な立ち位置で良かったかもしれない。どこまでも望みが薄い立ち位置で良かった。
望みなんてあったら、きっと、もっと。
「…っあー、つら…」
今だけ泣こう。
次に顔を上げた時には、笑顔で龍樹に会おうと決めた。
やーめた。
それで好きでいることをやめられたらいいのに。
最初のコメントを投稿しよう!