ゴリラ・ゲーヴがやってくる

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ゴリラ・ゲーヴがやってくる

 グレーのアスファルトは真夏の日差しを吸い尽くして、地上の光景を蜃気楼のように揺らめき立たせていました。  そんな渋谷の街並みはもぞもぞとうごめく人間の巣窟みたいで、わたしはそれを駅ビルの高層階から眺めます。そしてわたしの背中に冷たい汗が伝うのは、けっして冷房が効きすぎているせいではありません。  いつから人混みが恐ろしくなったのでしょうか、いえ、いつだっていいんです。こんな人間の集団の中に埋もれてしまうと、自分の存在がまるで価値のないもののように思えて息ができなくなるのです。  そういうことって、ありませんか?  だからこの人混みを前に、わたしはもう、家に帰れないような気がしてなりません。  そんな世界に向かってわたしは願うんです。  ――お願い、ゴリラ・ゲーヴ、どうかこの人間たちを視界から消し去ってほしいの。  いつしか人間(わたし)たちは、その現象をかつての名前で呼ばなくなっていました。気がついていますか? 流行って、ほんとうに恐ろしいものですね。言葉が言葉を殺すのですから。それってメディアの影響なんでしょうかね、それとも皆がそろいもそろって右向け、右なんでしょうか。  あの夏の風物詩は、スペイン語でいうところの「小戦争」という意味の言葉に置き換えられて、今やまるで悪意の塊のように扱われています。  世界をおかしくしてしてしまったのは人間自身だと皆、分かっているくせに、ですよ。  だからわたしはそんな殺意のこもった名前で呼ぶのを避けて、けれども時代に遅れないようにと、呼称にささやかなアレンジをしてみました。  わたしにとっては、あの恐ろしい人混みを一瞬にして消し去ってくれる天の恵みになのですから、畏敬の念を込めて、こう呼んでいるんです。 「ゴリラ・ゲーヴ」、と。  するとどうでしょう。わたしの願いが届いたのか、今の今まで晴れやかだった空が暗雲に覆われてゆきました。本当に、突然のことです。目も眩むほどに天が眩しく輝き、地が裂けるような轟音が鳴り響きます。  ――ああ、ゴリラ・ゲーヴが来てくれたんだ!  ゴリラ・ゲーヴ、それは無数の槍のように頭上から降り注ぎ、真夏の世界を一変させてゆきます。それが激しく地上を打ちつけると、人間が蹴散らされた蜘蛛の子のように視界から消えていくんです、まるで悲鳴が聞こえそうなくらいで、あれだけいたはずの人間がどんどん、どんどん、消えてゆくのです。  逃げ惑う人々の姿を高みから見物するのはとても心地よいことだと、知っていましたけれど、わたしはふたたび実感することができました。  ゴリラ・ゲーヴの脅威がこの渋谷の街一帯を呑み込むのは、ほんの数分のことでした。ゴリラ・ゲーヴが去り、雲の切れ間から斜陽が差し込むと、濡れた渋谷のアスファルトは、つやつやとした煌めきを放っていました。  その輝きは、まるで人混みが一掃された、わたしの晴れやかな心を象徴しているかのようです。  わたしの胸の中にわだかまる不安のすべてを、ゴリラ・ゲーヴは洗い流してくれたのです。ああ、よかった、本当によかった。これでわたしは人混みに巻き込まれることなく、帰路につくことができます。  小戦争(ゲリラ)豪雨――かつては「夕立」と呼ばれていた夏の風物詩――を、わたしはこれからもそう呼びつづけることでしょう――  ――ゴリラ・ゲーヴ、と。 【完】
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