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水無月①
徹は、はるの手からマイクを取った。両手でゆっくり、穏やかに。はるがキョトンとした目で徹を見る。
徹はピアノの前に座り、マイクスタンドにはるからとったマイクを取り付ける。さっきまでの熱気の残滓が、徹の周囲にまとわりつく。
徹は、小さく深呼吸をする。緊張を和らげる時は腹式呼吸だったか?やり直す余裕も時間もない。
最終から計画していた訳ではない。守が気まぐれで起こした、偶然の舞台だ
それでも、と徹は思う。自分には、この伝え方しかないと。
徹が細く綺麗な指を動かし始めた。はるは、あの曲だと分かった。徹は、私にマイク無しで歌えと言ってるのだろうか?
違う。はるは本能ですぐ察した。徹の見たことが無い真剣な表情。緊張で薄氷を踏むような危なっかしい演奏。
徹は自分で歌う気だ。あれ程歌う事を拒んでいた彼が。
六月のよく晴れた日。丘ノ上はるは、退屈そうに黒板を見ていた。眠そうに目を細めると、長いまつ毛がより長く見える。
目は一重だが、彼女の目を覗き込んだ人は、瞳が奥二重だと気づく。
頬杖していた左手が痺れたのか、その手で後ろ髪を掻く。肩に届きそうで届かないその髪は、艶と張りのある髪だか、後ろがくせ毛のせいか、少しハネている。
それは父さんの血ね、と母親に断言された事がある。確かに父は後ろ髪が伸びるとハネている。
はるは髪のハネ具合など、意に介さないとばかり乱暴に掻きあげた。
はるのクラスでは今、秋の文化祭の出し物について議論していた。いや、議論と言える物だろうか?
喫茶店、お化け屋敷、迷路、遊園地とお決まりのお題が出てから意見は止まった。
ニつ隣のクラスで、学年一とまで言われる美女、松高慶子がウエイトレスをやるとか、やらないとかで騒いでいる辺りで雰囲気が怪しくなった。
現在は昼休みと変わらない有様だ。各々席を離れスマホをいじり、文化祭とは関係ない話で喜声を上げている。
はるはスマホを持っていなかった。電話やメール、そしてラインとやらで、拘束し合う友誼に全く興味が無く、嫌悪すらしていた。
「家が貧乏なんで携帯は持ってません」
二年生になり今のクラスに変わった初日に
、担任の教師に言った。
今は高校生ぐらいになると、ほぼ全員携帯電話を所有している。学校側も生徒に緊急な連絡事項を伝える時、便利なのだろう。
ホームルームの時間、担任が出席を取りながら、携帯電話の有無を生徒一人一人に聞いていた時だ。
わざと大きい声で答えたので、クラス全員に聞こえただろう。それでいい。
これで「ライン交換しようよ」と言ってくる輩は皆無だ。
その煩わしさ、鬱陶しさ、いちいちスマホを持っていない理由の説明、その全てから解放されるのだ。
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