第一章 手書きの大学ノート

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第一章 手書きの大学ノート

その1 千巖寺村   このボロ寺に出会うことが出来たぼくは、強運に恵まれているといっていい。山に入って七日目の夜を迎える。  超えた峰々はいくつになるだろう。道なき道を踏み砕いて、リュックの食料も底を尽き、戻る方策も尽き果てた。この世も見納めかと覚悟を決めたころ、偶然に目の前に現れた崩れ落ちた立て塀とそれを支える支柱、それに連なる一部に残った天井らしきものがこのボロ寺だった。  更なる驚きは、この崩壊寸前の寺に住み着くヒト科に属する霊長類が居たことだった。  疲れ果て息も絶え絶えのぼくの目の前に立ったのは毛髪に埋もれたような年齢不詳のジジイだった。肩から斜め掛けのずた袋がなければ、類人猿と見間違えたかもしれない。懐にもなにやら、黒い毛皮状のものを入れており、ぼくに目を送る二つの眼光にぎょっとさせられたが、泣き声から黒猫だと分かった。 「ここで横になれ」  じじいは、かろうじて夜露のしのげる片隅を提供してくれたが、云われなくともここで横になるつもりだった。寝袋を広げるぼくの足元から二メートルばかり離れた柱の陰にいつ放たれたのか、先ほどの黒猫が、新参者の一挙手一投足を見守るような格好で座っていた。  いくらボロ寺でも陽の明かりは平等に差し込んでくれる。翌朝、寝袋から顔をのぞかせて、辺りの様子をうかがった。崩れ落ちた本堂の欄間に「千厳寺」と、彫り刻んだのみの跡が目に飛び込んできた。  心臓がひっくり返るほどの衝撃を受けた。  せんがんじ・・・!。  まさか! ぼくが目指していた寺だ!  一度に眠気が吹き飛んだ。  目をこらすと残された柱や壁は、それなりの補強がされている。天井や屋根がこれ以上落ちてくる恐れはない様だ。どのくらいの歴史をもつのかしらないが、この崩れようは単に長い間、風雨にさらされたというだけではない。壁や柱に残るかなりの数の小さな貫通した穴が、この寺の苦難を語りかけて来る。  間違いなく心に描き続けてきた寺だ。  目が覚めると空腹が体中の神経を刺激し始める。  リュックに手を入れて残り物を探す。手に触れたのはチョコレートが半かけだけ。最後のいのち綱。口に含んでとりあえずの飢えを凌ぐ。  突然、木がきしむような音が耳に入ってきた。  本堂に隣接する別棟のあばら家から渡り廊下を歩いて来るジジイを目にした。明るい場所で見るジジイは、白髪三千丈と云いたいほどの、伸び放題と云おうか、だらしがないと云おうか、尻のあたりまで垂れ下がる白髪をゆらしている。  ずた袋を肩からかけ、夜中に飼い主の元に戻ったのだろう、黒猫をふところに抱いている。部屋の中を歩くのに、いちいちずた袋でもあるまいと思うのだが、ジジイにへばりついて、一体になっている様子が見て取れる。  ぼくは目上に対する礼をつくすつもりで躰を起こした。  目の前に立つ骸骨が皮をかぶったような男に、 「おはようございます。ここ、せんがんじというお寺ですか」と念を入れて確認する。  ジジイは、「お前、あの欄間の字が読めるのか」と不思議そうにぼくを見据える。 「学校に行っていますから」と云うと、「えせ教育を受けてひねくれたガキになるだけだ」と、吐き捨てるように言った。 「ここへ何しに来た」  ジジイは腰を落として、迷い込んできたガキの目的を聞いてきた。 〈探しものがある〉  口から出かかったが、説明するのが面倒くさいので、一番簡単な言い訳を選んだ。 「道に迷いました」 「お前、いま、ここはせんがんじかと聞いてたな。やっとたどりついたといった口ぶりだった。おれの目はごまかせん。何しに来た?」 「お寺は、困った者に救いの手を差し出すと聞いています。お寺だと知ってほっとしました。・・・和尚様も人徳のあるお方のようですし」 「ガキのくせに、人をおだてる術(すべ)は心得ているようだな。幾つになる」 「十六才です。もうすぐ十七才になります」 「ついでだ。名前も聞いておこう」 「サエキといいます。サエキゴロウ」 「おれがここに来てそろそろ三十年になる。お前が、この寺に迷い込んできた始めての人間だ」 「えっ? 和尚様は三十年間、人にお会いになったことはないのですか」 「バカをいうな。こんなボロ寺でも、支えてくれる人たちがいる。近くには村があり、村人たちもいる。村の外から来た者としては始めてだと云ったのだ」  ぼくは分かりましたと、納得の表情をすると、 「お前は、まるっきりバカでもなさそうだ。察するところ、意とするところあって、ここへたどり着いたのだろう。まあいい、ちょうど、下界から来た人手が欲しかったところだ。居たければ居ればいい。おれの云うことを聞いて、手足として働けばの条件つきだ」 「よろしくお願いします。・・・あのう、力はあまりありませんので、肉体労働ではお役に立てませんが・・・」 「世話になる方が条件をつけるのか。云っておくが寺を出たくなったらいつでも出て行っていいぞ。ただし、お前が、この山を生きたまま出られるかどうかは別の話しだ」  じじいは、白髪の間から年に似合わぬ眼光で、ぼくの顔をじっと見据えた。  心の中を見透かされるような思いで、背中がのびて居住まいを正す。 「・・・お前のことばかり聞いて、自分のことを話さないのは公平ではないな」  十六才の子供に対する言葉にしては思いがけない言いように、白髪も無駄に伸ばしているだけではない、なかなか出来たじいさんだと思った。 「おれは、千厳法師という坊主だ。この寺を建て直すためにやってきた。しかし、三十年たってもこのありさまだ。相変わらずのボロ寺だが、この周囲に住む人たちはボロではない。・・・わしの誇りだ」  この坊さんが誇りだという村人を、ぼくは何となく、土にまみれた朴訥なじじばばのように想像した。人も通わぬ、文明に取り残された山奥に住み着く人々を思い描いて、ぼくのようなガキでも、少しは文明の香りが欲しくて、ここに居ろと云っているのじゃないのか・・・。  理由はともあれ、念願の千巖寺に居られることになったのだから、素直に和尚さんに感謝しよう・・・。  何か返事を返さねばと思ったが、口を開けば腹が減るので黙っていた。   「お前、腹が減っているようだな。用意してやるからちょっと待て」  ぼくの空腹状態を察して、なにか用意してくれるらしい気配りは、やはり、出来た和尚だと、ぼくは生つばを飲み込んで頭を下げた。  用意といっても、台所らしいところは見当たらないし、どこで調理するのだろうと、ぼくは渡り廊下をきしませてあばら家に姿を消した千厳法師の背中を目で追っていた。その躰には辛うじて布の切れ端が張り付いており、肩がけのずだ袋と薄汚れた越中ふんどしのような下着から立ち上がった異様な匂いが、まだぼくのまわりに漂っていた。  気付くと、柱の陰に、またもや例の黒猫が小さくうずくまって、ぼくに目を向けていた。 その2 大学ノート  きっかけから奇妙だった。  ぼくがこの山中を目指したのは、ぼくの住む団地のゴミ捨て場に積んであった古本の間に残された手書きの汚れたノートが原因だ。よくある大学ノートというやつだ。あんなものを目にしなければ、目指すマンガ・アニメ専門学校への受験に真面目に取り組んでいたのにと、ふと気持ちが折れることがある。まさに、文字通り何気なく手にとったのだ。好奇心だけは強くて、世間に漂う閉塞感にブログで憂さを晴らしているぼくにとって、世の中は動いてくれたほうがブログだねを拾うことが出来る。何気なくページをパラパラとめくったのだ。なにか健康関係のメモ書きらしく、栄養だの、血圧だの、そんな単語がやたらに目につく。それが終わって数ページ白紙が続いたあと、突然「千厳寺異変」の文字があらわれた。題目のあと、十数ページにわたって、判読困難な汚い文字が書き連ねてある。活字を拾うのが面倒くさいので、ただ、ページを繰っていくと、終わりかと思われるあたりで行を変え、少し大きめな文字で 「この事件に関与した者はすべて命が危険にさらされるという、しかし・・・」とあって、ここでページが切れている。完全に切れている。  後のページが破り取られているのだ。  破り取られたページを最後にこの大学ノートには、なにも書かれていない。 三文小説の筋書きを見ているようで興味をそそられた。  ブログだねを求めて何時もきょろきょろしているぼくにとって、宣戦を布告されたようなもので、続きをどうしても探してみたくなった。捨ててある幾つかの古本の束をさぐって、もう一冊くらい大学ノートがありそうなものだと目を皿にしたが見つからなかった。  それではと、ゴミ捨て場の隅に腰をおろして、拾った大学ノートの「千厳寺異変」と記してある判読困難な文字を拾い始めた。ミミズがはったような字というが、加えて、無理に字を塗りたくるように書き、判読困難にしている。一行読むのにたっぷり時間がかかる。シマタイコクの言葉なのがせめてもの救いだった。 『千厳寺境内は戦争中、離れ島を除き、国内でただ一つ戦闘があった場所である』  そんな書き出しで始まっていた。 『・・・多数の犠牲者を出し、いまだに行方不明のものがいる。地下には人の骨がたくさんねむっているとの話しがあるが、まだ、目にしたという話はきかない』  三文小説の筋書きと受け取らなかったのは、書いた時代の古さが原因だ。ノート自体の汚れ具合と、各ページのシミの状態。冒頭の健康関係と思われる記事も、風邪にはゲンノショウコと、今では耳にしないような漢方薬の名前がやたらに多いことで書いた時代が推測できた。  半ばまで読んでわかったのは、先の大戦中のある暑い日、西空で太陽が爆発したと噂が立った数日後、千厳寺の境内目指して、十人近くの白衣をまとった兵隊が、地下から湧くように突然やってきたということだった。当時の千厳寺はもう少しまともな寺だったようで、近隣の村人たちが十数人集まっていた。それも、若い男たちだったらしい。  この山村には若い男たちが残っていた・・・。  山奥のため兵隊集めの召集令状、いわゆる赤紙を出すための人口統計の整備が出来ていなかったとあるが、本当のことなのだろうか。  白衣の兵隊は、問答無用、その若者たちに突然、銃を向けて乱射した・・。  逃げのびた数人が、村に急を知らせると、村の男たちは、老若含めて防戦に立ちあがった。しかし、竹やりと農具以外に武器を持たない男たちは、その殆どが犠牲になり、戦い終わった千厳寺の境内には、竹槍や鎌などの農機具を取って応戦した百人を超える男たちが倒れていた。襲ってきた兵隊たちは機関銃など、大量殺人の武器は携えていなかった。狙撃にはメイワ時代の陸軍の制式銃であった旧式の歩兵銃が使われた。襲撃は一時間ばかりで終わり、兵隊たちは死体をそのままに引き揚げて行ったという。  しかし、この事件が後々までも『惨劇』として一部で語り継がれているのは、続いて起こった不幸な衝撃によるものであった。  ノートを残した主眼もこの辺りにありそうなことがうかがえる。  この戦闘が終わってから三週間ばかりたったある日、村を囲む山岳地帯に突然、聞いたこのの無いような爆音が響き渡ると、大鷲のような飛行機が飛んできて何やら投げ落とすと姿を消した。野に出ていた数人の村人がその ”大鷲” を目撃し、またもや村に凶事が起こるのではないかと、身構えていたとこりに突然現れたのは、身なりを整えた三人のシマタイコクの陸軍将校だった。リヤカーのような車を引っ張り、くるまには樽を幾つか積んでいる。 村人が、シマタイコクの将校を見るのは初めてのことだった。 「三週間ほど前、一部の兵隊の反乱があり村には迷惑をかけた。彼らは厳重に処罰された。ついては、この事件を調査するから協力を頼む」との口穏やかな将校の依頼だった。  この事件を “目撃”した村人たち全員が集められ、特に男たちは目撃したしないにかかわらず、すべて集まるようにとの命令に近い口調だった。聞き取りが始まった。目撃者は老若の男女三十人ばかりだったようだ。聞き取った内容は、将校たちによって記録が取られた。終わると「ご苦労だった。協力を感謝する」とのことで、ねぎらいの宴が催された。リヤカーのような車に積んであったのは村人たちにのませるためのアルコール類だった。千厳寺の裏山で酒盛りを催してくれたのだった。宴が盛り上がり、村人たちがアルコールで完全に出来上がってしまった頃合いをみて、三人の将校は突然拳銃を取り出し、酔って足腰の立たない村人たちは全員がその場で射殺された。そして、三人の将校たちは書き取った記録をもって姿を消したが、数日後、二人の将校がそこから一キロばかり離れた山中で撃ち殺されているのが発見された。  千巖寺にきた三人の将校のうち、聞き取ったノートを持って姿を消したのは一人ということになる。  これらの経緯を記したのがこのノートであり、その後に、 『この事件はその推移、結末からして、この国の歴史から消える運命にあった。村自体の存在も地図上から抹消された』とある。 書き物としては、一応、結末を示している。 〈終わり〉、としても納得できそうだ。  戦争をまったく知らないぼくは、こんなバカなことがこの国で起こる分けがないから、やはり三文小説の筋書き帳だろうかと、思いはくるくると回る。それも、あまり後味の良くない絵空事を書き連ねた筋書きだと思い、わざわざ、時間をかけて読んだことを、時間の浪費と悔いたほどだった。  しかし、ぼくにはモヤモヤ感が残った。  引きちぎられたページである。  三文小説にしても、それまでの内容が内容だけに、この書き手は、どのような結末をもってきたのか、なんとなく気になった。  結末が示されないミステリー小説を読んだ気分だった。  筋書き帳ならば、線でも引いてから書き直せばよいのに、ページを破り取っていることが気に入らない。結末と思われる最後の数ページだけ切り取る理由が納得できなかった。ことさらに興味をかき立てるためと、うがった見方が出来ないこともないが・・・。  もしかすると、これは、事実を書き留めた記録帳ではないか、ふと、そんな思いがかすめたのである。  その日から、ぼくはこの「異変」がなんとなく気になり出したのである。  本当に起こった事件なのだろうか。ノートには「異変」と記してある。事実だとすればまさに異変である。村の存在が地図から消されたとあるが、この狭い国土で誰も知らない場所などというものが未だに存在するのだろうか。異変の起こった日時は記していないが、冒頭の離島を除きとあるのは、オキジマのことを云っているのではないだろうか。オキジマの戦闘は一九四五年の六月末に終わっている。西で太陽が暴発するなど、空襲を思わせながら意味不明の表現があるところから、いづれにしろ、先の大戦末期に起こった事件と考えられる。これだけの変事、まさに異変なのに、日時を記していないのも気になった。  やはり、想像の産物、筋書き帳なのだろうか。  ぼくのちっぽけな頭で考えても、このノートはいろいろなことを示してくれる。興味をかき立てるのである。山の中というのも、関心を高めた理由のひとつだった。  ぼくは小学生時代から歩くのが好きで、ピクニックには良く行った。中学に入ってからはご多分にもれずサッカー熱に犯されたが、自分の運動能力に見切りをつける位の分別は残っていた。友人に気違い的に山登りに熱中しているヤツがいて、こいつは将来ヒマラヤを目指すのだと高い目標を掲げていたが、ぼくは、せいぜい、ヤマガールを連れての夏の北アルプス程度を目標に山登りを楽しんでいた。  高校に昨年進学したばかりだが、おふくろの家系に、メイワ時代、かなり有名な画家がいたとかで、その血脈を頼りに将来はアニメとマンガでもやろうかと漠然と考え始めていた。マンガの筋書きなど想像していると、妄想が妄想を広げ、自分は天才的な才能を持っているのかもしれないと、わくわく感で興奮してくるといった、冷静になって考えれば、どこにでもある単純なうぬぼれやだった。しかし、大学ノートに記してある内容は、そんな思い上がりの激しいぼくにも、久しぶりに冷静な高揚感をもたらせてくれた。  夏休みは始まったばかりだ。山を探索するには気候もいい。降ってわいたこの得体のしれない「千厳寺異変」を記した大学ノートをどう取り扱ったらいいだろう。兵隊が地下から湧くように突然やってきたなど、まゆつばらしいところがあるが、村自体の存在が地図上から抹殺されたとあることが、ぼくの心を突き動かした。行動を起こす前にもう少し確信を持ちたかった。  自宅に戻って、早速、ネット検索をかけてみたが、「千厳寺」(せんがんじ)という寺は見つからない。この国の地図に載ってない、誰も知らない場所と書いてあるからには、事実とすれば、ネット検索すること自体無駄である。それを承知で、何か手がかりをつかもうとしたのである。似たようなものに、仙厳山とか、仙厳峡とかあるが、千厳寺はなかった。もし、あったとしても、ネットに載らないようなちっぽけな寺なのだろう。  妄想野郎の想像の産物だとすれば、かかわること自体、時間の浪費である。要はこのノートの記述を信じるか否かということに尽きる。ぼくは、古本の束がこのゴミ捨て場に出されたということは、間違いなく、この団地の住人の行為だし、毎週、木曜が、雑誌新聞などの回収日にあたることを知ってのことである。このごみ捨て場は、九号棟専用なので、まず、間違いなくぼくと同じ号棟の住人だろう。ノートと一緒に捨てられてあった古本は、昭栄十年に出版された、世界文芸全集の一部である。何とも古い本で、よくも今まで保存していたと感じ入ったほどである。  この団地では顔の広い母親の言葉から、すぐに古本の持ち主を突き止めることが出来た。十階の田村さん。  田村家には九十才を超えたおじいさんが居て、大の読書好き。最近、立ち居振る舞いがかなり怪しくなってきて、介護施設に入れるかどうかでもめているとのことだった。  こんなことから家人がその老人の身の回りのもの、古い本や必要なさそうな書類などを整理しだしたらしい。生前整理ということなのだろう。このおじいさん、もと軍人だったという。もっとも、この年ならばシマタイコクの男子の九十パーセントは戦争を体験しているだろう。とにかく、一度だけ、そのおじいさんと話してみて、大学ノートの持ち主かどうか確認してみよう。捨ててあったとはいえ、内容が内容なのでそのくらいの手順は踏んだほうがいいと、ぼくの気持ちがつぶやいていた。でたらめのホラ話を本当にするバカがいると笑われればそれまで。自分の気持ちに決着をつけたかった。  夕刻、ぼくは九号棟の中央玄関の片隅で、一日一回夕方に散歩に出るというおじいさんが帰ってくるのを待ち続けた。一時間近く待って、やっと捉まえることができた。エレベーターに向かう老人にむかって声をかけた。 「ぼく、この団地の佐伯といいます。母がお世話になっています。あのう、千厳寺のことについて、ちょっと伺いたいのですが」  老人は立ち止まって、「なに?」いうように首を傾げた。  耳が遠いのだろうか。  僕は、少し声を大きくして云った。 「せんがんじについて伺いたいのですが」  あの時のおじいさんの驚いた顔は忘れられない。  ぼくの腕を掴むと、マンションのポストボックスが並ぶ玄関口の片隅にひっぱっていき、 「きみ、なんて云った?」 「あのう、せんがんじについて・・・」  ここまでぼくが口を開くと、おじいさんはあたりを見回して人気のないのを確かめると、 「せんがんじ? どこで聞いたんだ!」  辺りをはばかる低い声だが、言葉つきは強かった。認知症の気があると聞いていたので、ぼやけたおじいさんかと思っていたが、とんでもない、しっかりしていそうである。  ぼくは、おじいさんの語気の強さ、あたりをはばかる態度から、これは、大学ノートを見たという事実は云わない方がいいととっさに判断した。 「ある本で、みたんです。それで、おじいさんは本を良く読まれて物知りだとうかがっていたので・・・」 「本で見た? そんなバカなことがあるかい。本になど載るはずがない」 「どうしてですか。おじいさん、何か知っているような口ぶりですけど、たとえば、お化けがでるとか、何か秘密めいたことがあるのですか」  おじいさんは、むっと口ごもると、 「君の名前は何と言った?」 「サエキです。ここの六階に住んでいます」 「よし、明日午後三時にわしを訪ねて来い。そのことで話をしよう。ただし、誰にも云ってはならん。約束は守れるか?」 「守ります」  ぼくはエレベーターにおじいさんが乘るのを見届け、十階で止まるのを確かめてから、もう一台のエレベーターで自分の住居がある六階に向かった。  翌朝、騒がしい人声で目が覚めた。  朝食の支度で起きていた母が、父に話している声が聞こえてきた。 「飛び降り自殺ですって。十階の田村さんとこのおじいさん! 最近、認知症がひどくなったって若奥さん嘆いていたのよ」  十階、田村さん・・・  ぼくは飛び起きた。台所にいる母親を捕まえると、 「田村さんがどうしたって?」 「おじいさんが、飛び降り自殺したのよ。一時間くらいまえ、どすーんと、すごい音、感じなかった? 前にもこのマンションで二回くらい飛び降り自殺があったでしょう。あたしすぐに、ぴーんときたわ。またかって。・・・でも、まさか、あのおじいさんが・・・。昨日までお元気だったのに。そういえば、あなた、田村さんのことについて、なにか聞いていたわね。いやよ、おかしなことにかかわっちゃ」  マンションの共通廊下から下を見ると、救急車と警察の車が止まっている。  この団地は十四階建てマンションが三十棟もある大きな団地である。年に数回は、どこかのマンションから飛び降り自殺がある。しかし、同じ団地の住人が飛び降りるというのは、ほとんどなかったようだ。団地とは縁のない人が高い建物をみて、間違いなく死ねるとでも思うのだろうか、やってきて飛び降りるのがいままでの事例だった。自分の住むマンション、しかも、同じ号棟から飛び降りるなんて!  ぼくはすぐに、昨日声をかけたことが原因なのだろうかと、身体じゅうの血が逆流するほどの恐怖に襲われた。 「おじいさん、昨晩、人が変わったようにいらいらしていて、電話を自分の部屋に持って行って、いろいろ電話をかけていたらしいわ。今朝とんでもない早い時間に散歩に行くと云って家を出たけれど、それきり帰らずこの騒ぎよ。早く出たのは人に会いにいったらしいわ。早朝、人に会うなんておかしいわね」  自治会の役員だからだろうか、とにかくマンションで起こったことは、捨て猫の情報まで知っておかないと済まない母親の性格が、こんな大事件に無関心でいられるはずがなかった。生き生きした表情でマンション中を飛び回る母親を横目に見て、ぼくの脈拍数は上がるばかりだった。  ぼくが昨日田村さんに話しかけたのを誰か見ていなかっただろうか。もし、警察に聞かれたらなんと答えようかと、その日一日、生きた心地がしなかった。             その3 碧眼の美女   「腹がすいているだろう」と、気づかってくれたのは有難いが、一向に腹を満たすものが現れない。あの和尚、他にやることもないだろうに、何をしているのかと思い始めた頃、渡り廊下のきしむ音が聞こえた。  同時に、柱のわきの黒猫がニャーと小さく声を挙げる。 ・・・やっと飯にありつける。  このボロ寺じゃ、どうせ大した食い物はないだろう、精進料理とかいうやつだろうけど、飯のお替りはしてくれるのだろうか・・・。  一応、感謝を示す意味で、ぼくは正座して居住まいを正し、和尚の到着を待った・・・。 「お待たせしました」 ・・・えっ、なに??? えっ??  女性の声である!  思わず顔を上げて、渡り廊下を渡り終わり、僅かに形を残していた壁の後ろから現れた女性をみて、ぼくの心臓は膨れ上がり、血流は音を立てて逆流し始めた。あわや、失神の危機に見舞われたが、爪の先ほどの理性の働きが、恥ずべき行為に待ったをかけた。まったく考え及ばない奇跡のような現象に突然出あったとき、人間はどのような行動をとるだろう。  十六才のぼくがこれから先、何年生きるか知らないが、その生涯を通じても、二度とこのような驚きに遭遇することは無いだろう。  間違いなく〈無い〉と断言しておく。  地味な浴衣に身をつつみ、丈が短いのだろう、膝から下を丸出しにした、背の高さ百七十センチは超えていそうな、黒髪で碧眼、彫りの深いうりざね顔で、大きな瞳と形の良い鼻梁、ミスユニバース間違いなしの混血の女性・・。  スクリーンでもやたらにお目にかかれないであろう美しい女性に、ぼくは口を開けたまま、目の前に朝の膳が置かれたのもうわの空、ただ、見とれっぱなしで全身、宙に浮かんだみたいに浮揚の世界に漂っていた。 「ゴロウさんとおっしゃるのね。和尚さまから聞きました。滞在中、わたしがお世話いたします。ハンレイと申します」  その女性、ぼくの目の前に膝を揃えて座ると、膝の上までゆかたがまくれあがり、揃えた両ももが丸出しになっているのに一向に気にも留めない。鈴を転がすような美しいシマタイの言葉で話しかけてきたのである。柱の陰に居た黒猫は待っていたように、女性の膝の上に飛び乗った。 〈滞在中のお世話〉に、余計な気を回してみたが、それよりも丸出しの両ももが視覚にちらつくのが心臓に悪い。むかし読んだチャンバラマンガに、膝上十センチのゆかたを羽織った江戸の剣豪小町が大活躍するのを思い出した。敵の刃を一間以上も飛び上がって避けるのだが、両足を大きく開いて飛び上がったその場面を下から活写するのがこのマンガの売りだった。婦女子はノーパンだと云われていたこの時代、そこのトコロをどのように描くかで雑誌の売れ行きが違ったと云われていたが・・・。 「千厳寺へお越しいただいた記念に、マイリングを差し上げますから、お手をお出しください」  何かもらえるらしい。  こんな美女がなにかくれるというのに、躊躇するヤツがいたらお目にかかりたいものだ。  ぼくは、右の手のひらを広げて、そっとハンレイさんの前に差し出す。 「右手でよろしいですね」  妙なことを聞くと思ったが、ぼくは右利きである。ものを掴んだり、にぎったりするときは、まず、右の手が前にでる。 「は、はい、けっこうです」  ハンレイさんは、一見、細い木の弦(つる)を編み合わせたような腕輪状のものを、右の手首に巻きつけると、 「これで、この村に滞在なさっていることが証明できますから、不便を感じることはないと思います」  ぼくは、くれるというから、手のひらを出したことを、卑しい物乞い根性をさらけ出したと、ちょっと恥ずかしく感じたが、手首に巻かれるとは意外だった。  巻きつけられた “マイリング”を撫でまわしながら、 「千厳寺参詣記念のようなものですか?」  ハンレイさんの手で巻かれたことに、昂奮を抑えきれずに云うと、 「ま、ゴロウさん、うまいこと仰いますね。はい、そのように思って頂いて結構です」  ぼくは、後になって、とんでもないお人よしぶりを発揮したことに気付くのだが、それは、ハンレイさんのような超美女に接したことのない連中のやっかみだ。  ハンレイさんは、ぼくが腕輪に満足している様子をみると、 「では、お食事にしましょうか、どうぞ、召し上がって下さい」  召し上がるって・・・。  ぼくは、改めて、ハンレイさんが前に置いた膳に目を落とした。膳をみて、また驚いた。  膳自体、恐らく昔から寺にあったものを使っているのだろうが、塗りが剥がれて見栄えはお粗末だが、決して不潔ではない。問題は、膳の上に載っているものである。  おそらく、山菜の寄せ集めであろうが、それらが膳の上に、幾つかの束になって、ただ、置かれているだけである。  山から山菜を採って来て、膳の上に置くだけ・・・。  調理もなし、料理もなし。ただ、置いただけ。  美女の生出しの膝頭が気になるものの、飢えの苦しみも限界にきている。それにしても何ですかこれは・・・? さすがに、気持ちが萎えて来た。  食事を用意するも何もないではないか・・・  と、その時、 「ゴロウさん、この膳のもの、山から採って来た山菜をただ膳の上に置いただけ、と思っていません?」  ぼくの気持ちを見透かしたセリフが目の前の千厳寺小町の口から飛び出してきた。  一瞬、心臓が止まったような衝撃が走る。 「見た目にはそのように見えますが、これ、今朝、朝早くわたしがあなたの躰に合わせて山から採ってきました。年齢十六才、身長百六十五センチ、体重六十キロ、歩くのがお好きで、よく、躰を動かしますね。反面、本を読むことも好きで、知的な行為にも関心がある・・・。まだ、そんな程度しか知りませんが、それらを考えながら私が採ってきました。山菜は、新鮮さ、取り立てが命です。ぜひ、召し上がって下さい」  ぼくの為に、この人が朝早くから山菜採りに?  ぼくは毒キノコでも口に入れるよ! 「頂戴いたします」  ぼくは、精いっぱいの敬語を使って、膳を見おろし、箸をとろうとしたが、箸がみあたらない。箸で挟んで食べるようなものでないことは分かるけど。 「どうぞ、手で持って召し上がって下さい。当地の山菜料理には、特に作法といったものはありませんので、ご自由にどうぞ」  これを料理というのだろうか、この山寺では定義がかなり違うようだ。どれから手を付けようかと膳の上を見おろすが、何となく気持ちが落ち着かない。ハンレイと名乗る美女は、立ち去る気配がないのだ。ぼくの食べ終わるのを見届ける様子である。話に聞いたことのある、旅館の仲居さんのサービスというのは、こういうものなのだろうか。 「・・・旅館の仲居さんのサービスをしてあげているのではありません」  えっ? この女性、完全に人の気持ちを読み取ることが出来る!  ぼくは、ものを考えることも出来なくなってしまうではないか。 「ゴロウさんの為さり方をよく見届けて、これから、ご一緒に生活を送ることになりますので、万事、粗相のないように心がけたいと思いまして、観察させて頂いております」  ちょ、ちょっと待って!   ハンレイさん、何と仰いました?  さっきの〈滞在中のお世話〉に続いて、今度は〈これからご一緒に生活を送ることになりますので〉と、仰いませんでした?  いったい、それはどういう意味なのでしょう?  一緒に生活? もしかして、寝食もいっしょ?   ぼ、ぼくは、まだ童貞ですよ。何も知らないよ。それでもいいの? 「ゴロウさんが、童貞だろうと、何だろうと関係ありません」  ダメだ。ぼくの思考経路はこの女性の脳髄に占拠されている。 「あなたは、いま読んでいる読物に影響されやすい、柳のような頼りない精神構造を持っているようです。あなたがいま夢中になっている、レイモン・ラディゲの『肉体の悪魔』に描かれていますような、十五才の少年と十九才の人妻との関係は、ゴロウさんが十六才であっても、ここでは起こり得ませんから安心してください。私は十九才ではありません。十七才です。勿論、人妻ではありません。・・・ゴロウさんと同じように、私もなにも知りません。この村では、村人の仲間入りをすることを、〈一緒に生活する〉と云います。これからも、耳にすることがあると思いますので、その度にご自分の “経験の乏しさ” を恥じるようなことを考えない方がよいと思います。村人に、ゴロウさんの人となりが知れ渡ります。よろしいですね」 “経験の乏しさ”・・・と、なにやら、ぼくの使ったことの無い表現で、叱責を受けたような気持ちになったが、びっくりしたのは、リュックの底に入れてきたたった一冊の本『肉体の悪魔』。  何で知っているの!   昨晩、寝てる間にリュックの中を見たんじゃないの?   十五才の少年が、夫を戦地に送った新妻との不倫の物語。ぼくと同年代の天才少年が書いた心理小説の傑作と云われているが、ぼくの心の奥の願いごとを見透かされたようで恥ずかしかった。  ハンレイさんはぼくより一つだけ上。でも、云っていることはおふくろの説教を聞いているようだ。それよりも、〈村人の仲間入りをする〉と云わなかった?  腹をふくらますことも大事だが、自分の将来が決められているような物言いはしないでもらいたい。誰が、この村の住人になるといった! 「ぼくは、すぐに山を降りるつもりですので、この村の住人になるつもりはありません」 「ゴロウさんは、何のために、ここまで来たのかしら。なにか、目標を持ってきたのでしょ。その目標を達成しないで山を降りるなんて、今までの努力を無駄にするつもりですか」 「いえ、その目標を達成してから、その成果をもって、山を降りるつもりです」 「その目標とは何なの? 一日二日で達成できると思っているの?」 「多分、二三日で・・・」 「あの和尚さま、千厳法師さまでもいいけれど、ゴロウさんが抱えている目標とほとんど同じような目標をもって、この山に来られました。もう三十年近くになるそうですけど、まだ、目的を達成しておられないようです。恐らく一生、この山から下りることはないと思います」 「ぼくと同じ目標って、ハンレイさんはそれが分かるのですか?」 「千厳寺を中心にしたこのあたりを住み家としている人たちは、口には出しませんが、心に秘めていることがあります。皆さん、同じようなことを胸に抱きながら生活しています。私にしても同じことです。私もこの山村の住人ですけど、この世に出た時からその宿命を背負わされています」  この世に出た時から?  間違ってはいないけど、ちょっとおかしな云い方だなと思いながら、 「ハンレイさん、この村の住民ですよね? 失礼ですけど、外国の血筋を引いているようですけど、生まれたのもこのあたり・・・」 「・・・・・ゴロウさん、気分が良くなったようね。もう、お腹は十分ですか? まだ、あまり食べていないようですけど。私の採ってきた山菜ではお腹がいっぱいになりませんか」  答えをはぐらかされて、い、いえ、と、ぼくはあわてて、目の前にある山菜を手でつかむと、口にもっていった。かすかに、香料の匂いがする。何の匂いだろう。詮索は後回しにして、この美しい人がぼくのために採ってきたという山菜にかぶりついた。かぶりついた、という表現が適切かどうかわからないけど、夢中になって口に放り込んだ。野に咲く野草のようなものが中心だが、野菜を生で食べるときの青臭い感じがしない。野草のひとつひとつを口に入れると、確かに、草を生で食べている食感を感じるが、ハンレイさんが束ねてあるものを、まとめて口に入れると、草の匂いが飛んで、心地よい甘みさえする。ぼくの顔色がおいしいものを口に入れた時の、穏やかな満足感の表情を示したのをみると、 「そちらの、束を食べてごらんなさい」と、膳の左手に大人の親指程度の太さに巻かれた十五センチほどの長さの山菜を指で示した。舌触りがざわつくが、噛みしめると乳液が口の中に広がって、甘酸っぱい心地よさが脳を刺激する。 「他の山菜と、それを交互に口に入れると、食パンを口に入れて、ミルクティでそれを流し込んでいる感覚に近い感じて、食事を頂けます」  この山の中で生活しているのに、食パンもミルクティも知っているんだ。ハンレイさんの指示に従って、十分ばかりで、ぼくは膳の上の山菜を全部食べてしまった。母親の精魂込めて作った朝食を食べ終わったような満足感、そして、幸福感が体中に染み渡った。 「おいしかった、こんなに美味しい食事、久しぶりです」  ハンレイさんも、美しい顔に一面の笑みを浮かべてぼく以上に満足そうな顔をしていた。  ぼくは知らなかったのである。この食事は、回数を重ねると病みつきになり、麻薬のような磁力を持っていることを。そして、献立の立て方によっては、命を危険に晒すような、リスクを秘めていることを・・・。  そして、不用意に差し出した右手に巻かれた、細い木の弦を編み合わせたマイリング。孫悟空は三蔵法師によって、頭に取り外し不能の金色の輪っかを嵌められ、悪さをすると法師の呪文によって頭を締め付けられるお仕置きを受けるが、同じさる顔でも、ぼくに嵌められたのは、通称マイリング。木の弦とはいえ、当事者による切断も、取り外しも不能。思考内容が “生活を共にする” パートナーに筒抜けという、一方的なコミュニケーション機器によってコントロールされる仕儀と相成ったのである。 「和尚様から、ゴロウさんを村にご案内するように云われています。和尚様は、ゴロウさんを非常に気に入られたご様子です。・・・私には、まだ、人を見る目がありません。まさか、和尚様この村に動物園でもお造りになるおつもりではないでしょうに・・・」  裏を返すと、ハンレイさんは、ぼくのことをチビの類人猿程度にしか思っていないということなのだ。でも、考えてみれば、ハンレイさんのいうことももっともで、和尚こと千厳法師に会ったのが昨日の夜だから、半日程度しか経っていないのだ。和尚とは、ぼくの身辺調査程度の会話しかしていない。和尚は、山の外から来た人間に会うのは三十年ぶりだと云っていた。三十年の間、この寺を訊ねた外部の人間はいないのだ・・・。サルが迷い込んだと思い込まれても仕方がない。むしろ、その方が理に適っている。  三十年間この千厳寺を訊ねた者がいないということは目指したがたどり着けなかったのか、始めから、そんなもの好きは居なかったのか。ぼくは、自分がこの地を目指したいきさつを考えると、どうも、後者のような気がするのだ。あの、大学ノートを見つけなければ、千厳寺の名前すら目にすることはなかったろう。  ・・・あの大学ノートの出会いはぼくにしかなかったのだ。  その上、七日の山中放浪で目的の寺に出会うとは、どういうことだろう。  その大学ノートのオリジナルは、東京の我が家に厳重に保管してあるし、背負ってきたリュックの底にあるのはコピーだ。  しかし、この大学ノートを目にして、興味、関心を持つのは、どういった人たちだろう。ぼくみたいな単純な人間がそう多くいるとは思えないのだが。   ぼくは、ハンレイさんの前ではなるたけ、物事を考えないようにしている。考えれば、彼女に筒抜けだからだ。恐ろしいお目付け役がついたものだと、時間が経つにしたがって、美女と共にあるという喜びも徐々に薄れて来て、怖さを感じるようになってきた。しかし、それも、ハンレイさんはお見通しなのだ。 「私は、ゴロウさんのお目付け役ではありません。ゴロウさんが何を考えようと、しようと、・・・仮に、ゴロウさんが私を手籠めにしようと、これは当人同士の問題ですから、和尚様をはじめ、他の人に云いつけるようなことはしません。・・・この千厳寺を危険に陥れるようなことが起こらない限り・・・」  手籠めにしてくれといっているようなものではないか。手籠めなどと言う言葉を良く知っているなあ。でもね、ハンレイさん、ぼくも、身の丈に合うという言葉くらいはしっているから、当分は大丈夫だよ・・・。  それよりも、気になったのは、千厳寺が危険になるとはどういう場合のことだろう。  しかし、考えるだけ無駄なので、さっさとその思考を頭からおっぽり出して、村を案内してくれるという、その村とはどのようなものなのか、そちらに考えをむけることを心がけた。 「村までにはかなり距離があります」  ハンレイさんはそこで一呼吸置くと、思い切ったように云った。 「岩山を抜けなければなりません。・・・和尚様がどうして、始めて来られたゴロウさんを村にお連れするように仰るのか、私にはよく分かりません。でも、和尚様の云われることには従わなければなりません。岩山はこの村の歴史の入り口でもあるのです」  “村”とは、千厳寺村を指しているのだろうが、どうも、ここには、小難しいしきたりのようなものがあるようだ。外から来る人間を排除しているようにも聞こえるが・・・。  やはり、ぼくの思ったことはハンレイさんに筒抜けだった。 「この村の人たちに、外部の人たちを排除するといった考え方は全くありません。むしろ、反対だということを理解なさってください。そのうち、分かるでしょうがそれは、この村の成り立ちから来ています。私は、ゴロウさんがあまりにもお若いので、経験も少ないと思いますし、この村で見たり聞いたりすることが、あなたにどのような影響をあたえることになるか、その方を心配しているのです。取り越し苦労であることを願っています。私がいうのもおかしいですが、経験だけはお金では買えません」  ハンレイさんは、ぼくより一つしか上でないのに、おふくろのような物言いをする。おそらく、ハンレイさんの一才は、並の人たちの十年分くらいに相当するのだろう。 「時間があれば、歩いて岩山を抜けて村まで行くのが一番いいのですが、そのうち、機会があると思います。いろいろ行き方がありますけど、ゴロウさんに是非知っておいて頂きたいので、車で行くことにしましょう」 「クルマ? 都会を走っている自動車のことですか?」 「そうです。ゴロウさん、いま自動車といいましたね。まさに、自動車です。乗り場がありますから、そこから、呼び出しましょう」  まさか、人間の言葉が分かるとは思えないが、ハンレイさんが出かける様子なのを知ってのことなのだろうか、黒猫はハンレイさんの膝の上から飛び降りると、別棟の方に姿を消した。 「あの、ネコちゃん、和尚さんの飼いネコですか?」 「この寺で飼っているといったほうがいいかな。でも、朝晩ほとんど和尚様と一緒です。ジルというの。賢い黒猫だから、注意した方が良いと思います」  ハンレイさんの言葉は、ぼくの知能程度はネコと同じ程度と聞こえなくもない。別に否定するつもりはないけど、お言葉通り、注意することにいたします!  ぼくは唯一の持ち物であるリュックを背負い、ハンレイさんに続いて本堂をでた。  昨日、ここに死ぬ思いでたどり着いて以来の外の空気だ。今度は、〈ミスユニバース〉に比肩するに足る美女とのアベック。  気持ちが騒ぐのを抑えきれない。  ハンレイさんのさっきの言葉が気になって、彼女の着ている浴衣の長さが、なんでこんなに短いのかと、恨めしくなる。手籠めは当人同士の問題と、平気で言葉にする十七才。手籠めという言葉が頭をかすめるのだ。思い出すまいとすればするほどぽこぽこと頭を出してくる。ヒップアップした撫で回したくなるような形の良いお尻の後をついていくのは、かなりの忍耐を必要とする。ハンレイさんが自分から、手籠めといった言葉を出して、あらかじめ注意を喚起したのには理由があったのだ。妄想を振り払い平静を装うのに精いっぱいで、本堂を出て自動車乗り場とかに行く道筋が一向にあたまに入らない。  人の通行などまったくない林の中の一本道。  背丈からいっても、ローヒール仕立ての靴を履いているハンレイさんはぼくより十センチ程度高いし、ぼくは好むと好まざるとに関わらず、ハンレイさんのお尻を正面に見て歩かざるを得ないのである。 「人は迷いを振り払うには、思っていることを実行に移す以外にないそうです。そこで痛い目にあって始めて目が覚めるといいます」  さっさと歩みを進めながら、付いて行くぼくに語り掛ける。  思っていることを実行に移す? 本気で言っているの?  いや、それよりも・・・  痛い目に合うとはどういうことだろう?  辺りを見回せば、深い林の佇まいで、東西南北、人の気配などかけらもない。  実行に移すには絶好の場所だ・・・。  ぼくにそんな気も、勇気もないことを知って、からかっているのだろうか。  でも、ちょっと気になった。 ・・・痛い目に合うとはどういうことだろう?  「大丈夫です。ゴロウさんの命まで取ろうというのではありません。生物標本として、永遠に村の人たちと交流をすることになります」 「生物標本・・・?」 「言葉を変えれば、ミイラのことです。ミイラは、博物館で村人の人気者です」  命を取らないでミイラにするとはどういうこと? 「この村には、いま現在、九十九体のミイラがありますけど、一体増えると丁度いい数字になります。百体になると、村ではお祭りをするとか聞いています」 「お祭り?」 「ミイラになりたければいつでも云ってください。お手伝い致します」  ハンレイさんは、道すがら、諭す様にぼくに話しかけてくる。 「ここでは、妄想を抱いて生きることは自分で自分の命を縮めることになります。早く、取り払う訓練をした方が良いと思います」  は、はい、よく分かっています。一刻も早く妄想を取り払います。  十分程度で林を抜けた。松の大木の片隅に小さな赤い鳥居と小さな祠、そして二尾のキツネ。おなじみのミニチュア稲荷神社である。シマタイコクのどこにでもあるものが、この村にもあることを知って、やはり、抹殺された村といっても、根っこは同じだったのだろうとの思いを強くする。ぼくの視線がミニチュア稲荷に向いているのをみて、ハンレイさんは、 「お稲荷様は、村の人たちの信仰の対象になっています。千厳寺も昔は鳥居があったそうです。地震で壊れて無くなってしまいましたが、あまり気にする人はいません。神仏習合と云われる、神様、仏さまの両方が祭られています。和尚様によると、シマタイコクも百年くらい前まではそれが一般的だったそうですから、千厳寺が特別というのではありません。千厳寺はご本尊がお稲荷様です。仏教の宗派は知りませんし聞いたこともありません。和尚様は自称生き神様を名乗っています。わたし、和尚様の上げるお経、ハンニャシンギョウとかいうお経以外に聞いたことがありません。村人の弔いは勿論のこと、犬猫の死んだとき、村に赤ちゃんが生まれてお祝いに来られても、ハンニャシンギョウです」 「昨日、初めてお会いした時、ボロ寺を建て直すためにどこかから遣わされたと仰ってました」  ハンレイさんは、声を立てて笑った。 「昔、私には、偶然、迷い込んだと仰っていました。ゴロウさんと同じです」  ハンレイさんは、笑いをこらえる様に、赤いヨダレ掛けをしたおキツネさんにむかって、 「千厳寺、西門です。・・・ハンレイ、よろしく」 と話しかけた。  赤いヨダレ掛けは一瞬かぜに吹かれたようにはためいたようだった。  「自動車、二、三分で来ます」  ハンレイさんは、私に目を向けて、その大きな瞳を、ちょっとつむって、ウインクを送って来る。何の意味? ぼくはウインクなどしたことがない。不器用に、右目をつむってみたが、重症の眼病患者の目に虫が飛び込んだような無様な形相になったに違いない。  間もなく、むかしよく見た箱型の自動車らしきものが、すっと、目の前に止まった。夏の日差しが照り出してきたせいもあるのだろう。オープン仕様になっている。  巾一メートル五十センチ程度、長さ、先頭から後尾まで三メートルとちょっとくらい。  前席にはドライバーが座る席があり、飛行機の操縦かんのような操舵機構があり、計器類が並んでいる。  運転手さんはいない。  ぼくの住む街でも、自動車の無人運転化は常識で営業車の自動運転も数年前から始まっている。  だから、違和感はまったくなかった。  ハンレイさんに促されて自動車に乘り、二つある後部座席の奥の座席に腰を下ろした。ハンレイさんが続いて乗り込み、 「第一小学校にお願いします」と云った。  誰に声をかけたんだろうと思ったけど、行く先に気を取られて、小学校? 何しに行くのだろうと気をまわしたとたん、 「小学校の授業をみると、その国の、教育程度、教育方針が分かると云います」  ハンレイさんはさっさと先回りして、ぼくの疑問に答えてくれた。  自動車は、軽く警笛を鳴らすと、すっと車体が五十センチ程度浮き上がり、村道に添って滑るように進み始めた。 「ずいぶん進歩していますね。ぼくの住んでいるトウケイでも乗り物はすべて無人化されていて、くるまを自分で運転するのは金持ちの趣味のひとつになっています」 「何のお話です?」 「タクシーの自動運転です」 「ああ、そうでしたね、シマタイコクでは、タクシーも自動運転でしたね」 「まだ、数年しかたっていないようですけど」 「じゃ、運転者さんつきのタクシーなんて、なつかしくありません?」 「ええ、運転手さんが運転する車など、生まれてからのったことがありません。」 「よかった! ここでも、タクシーは原則、自動運転ですけど、要求すれば、運転手さんがついてきてくれます。今日は、ゴロウさんにある経験をさせてあげようと思って、運転手さんをお願いしました」  ハンレイさんは夢見るような顔つきをしてぼくの顔をのぞきこむようにしながら言った。 「・・・運転手さんつき?」  ぼくは目を皿のようにして、前の運転手席をみる。  頭を振り、目をしばたいて、もう一度運転席をのぞきこんだ。 「あのう・・・、運転手さん・・・?」  ぼくは、思わず、後ろを振り返った。 「ゴロウさん、なんで後ろ見るの? 運転手席は後ろになんかないわ」 「いえ、でも、前には運転手さん、いませんよ」  ぼくは、消え入るような声でハンレイさんの言葉に異を唱えた。 「このくるま、自動運転ですよね・・・」 「自動運転? この乗り物が?・・・」  ハンレイさんは驚いたように、ぼくの顔を見つめ直した。 「ゴロウさん、昨晩はよく眠れました?」 「はい、おかげさまで、ぐっすりと」 「わたしが冗談で、手籠め、などと云ったので、ゴロウさん、その妄想で頭がいっぱいになっていません?」 「大丈夫です。・・・話がちょっとおかしいです。この自動車、自動運転ですよね」 「ゴロウさん、・・・やっぱり変だわ。前に座っている運転手さんが見えないのですか」  ぼくは、再々度、前の運転手席に目を凝らし、何も見えないことを確認してから、 「ぼくには、何も見えません。誰かいるのですか?」 「間違いなく、何も見えません?」  ハンレイさんは、くどいほど念を押してくる。 「見えません。誰かいるのですか?」  ぼくは更に目を見開いたが、何も見えない。  ハンレイさんはぼくの表情を確かめるように見ていたが、突然、 前の運転手席にむかって、せかすように云った。 「第一小学校でなく、第二病院に向かってください!」  えっ、病院に?   何で、病院に行くんだ。ぼくは正常だよ! 「ハンレイさん、ぼくは病気なんかじゃありません。躰は正常です」 「前に座っている運転手さんが目に入らくないんでしょ。眼に虫でも入ったのかしら。運転手さん、ちょっと車をそこに止めてくれる」  車は、村道の脇に静かに停車した。 「運転手さん、この人、ゴロウさんというの」  ハンレイさんは、前の運転手席に向かって話し出した。  ぼくから見れば、空席に向かって口を開くハンレイさんが、何とも奇妙に見える。しかし、ハンレイさんの真剣な表情は、それが、決して芝居事ではないことを物語っている。 「昨晩、寺に来た新しい人。千巖寺でこれからわたしがお世話する人。・・・ちょっと握手してあげてくれる」 ハンレイさんは、更に、空席に向かって言った。 「あなたは、お幾つだったの?」 お幾つだったの?って、年を聞いているけど、・・・ だったの、とは過去のことではないのか?? 「36才? そう、・・・”営業化粧”は規則通りなさっているわね?」  営業化粧? ・・・タクシーの運転手さんがするもの? 「ゴロウさん、なに、恥ずかしがっているの」  ぼくがなかなか手を出さないものだから、ハンレイさんは少し、いらついたように言った。 「きれいな女の運転手さんだから? 」  きれいもなにも、無人の席にむかって簡単に手など出せるものではない。 「千巖寺村では運転手さんは皆さん女の人よ。さあ、手を出して」  もう、だめだ、  ハンレイさんの云う通りしないと気違い扱いされる。  ぼくは運転手席にむかって、こわごわと右手を差し出した。  冷たい冷え切った感触が体中に走った。  ぼくの手は誰かに触られた・・・。  手を握られた感触が伝わってくる・・・。  手に力が入って、身体じゅうに冷気が伝わっていく。  ぼんやりと、透き通るような青白い女性の顔が目の前に漂うのは気のせいだろうか。  その顔の笑みが少しずつ崩れて、  顔半分が潰れて血塗られた表情に変わってきた・・・  そして、青白い目玉が飛び出してきた!  ハンレイさんの前だが恥も外聞もなかった。  ぎゃっと、声を挙げてそのまま気が遠くなっていく・・・。  ハンレイさんの言葉が遠くから伝わってくる。  ・・・・・・・・・・ 「・・・運転手さん、営業化粧が剥がれてしまったのじゃない?」  ・・・・・・・・・・ 「あなたが事故にあって死んだときの顔を見せたら、初めての人はびっくりするわ。あなたの営業化粧の申請物件は?」  ・・・・・・・・・・ 「33才の時にお子さんと写した写真ね。さぞ、お綺麗だったでしょうね。営業化粧が崩れると業務上で失点になるの知ってるでしょ。今後気をけてね」  ハンレイさんは更につぶやいていた。 「ゴロウさんに千巖寺村では、運転手さんはみなさん亡くなった女性の方だってこと、言っておけばよかったわ」  間違いなく病院である。  ぼくは病院のベッドで目をさました。  心配そうに見つめる、・・・確かに、ハンレイさん。  ・・・そして、もう一人は、あのじじい、いや、和尚さんというべきだろう。千厳法師である。  「気付いたらしいな。おい、坊主、どうした、運転手さんと握手して気を失ったそうだな。相手が、きれいなご婦人でびっくりしたのか。・・・どうも、なにか、手違いがあったかもしれない。わしが、今朝の、ハンレイ、きみの作った朝食の献立を調べてみよう」 「和尚様、やはり、わたしの献立の立て方になにか・・・」 「いや、わからん、きみがいくら優等生だといっても、今朝初めて作った献立だからな。それに、相手はこの山村の者ではない。昨晩、外部から迷い込んだガキだ。後で、作ったレシピを出しておいてもらいたい。調べてみよう。目の前に座っている者が見えないとは・・・。おい、坊主、もう大丈夫のようだ。ハンレイに、この村を案内してもらえ。また、今夜、寺で会おう」    立派な病院である。あまり大きくはないが、内科、外科、循環器科、歯科、眼科、皮膚科、精神科等々、ぼくの知っている一般的な科目は揃っている。しかし、閑散として、トウケイあたりの病院のような喧騒さはまったくない。  和尚は、昨日のような、継ぎはぎだらけの衣装ではないが、まあ、それに遠からじの粗末なものを着ている。白髪は、背中に背負うようなかたちで丸めてある。肩から掛けたずだ袋だけが何か気になる。よほど、大事なものが入っているのだろう。  あの黒猫が和尚さんの懐にあった。  外に出るときも抱いて出るとは、その可愛がりようが異常にも思える。  でも、かんじんのこと、なぜ、ぼくがこの病院に入ったのか。  そのことについて、まだ、説明してもらっていなかった。
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