第三章 千巖寺和尚の告白

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第三章 千巖寺和尚の告白

 ぼくとハンレイさんが待つ図書館の会議室に、和尚さんは、三十分ばかり遅れて入って来た。和尚さんのずだ袋は軽そうだった。今日一日で、これが、いっぱいになるのだろう。 「すまん、すまん、探しものをしていたのだが、見つからなくてな。整理整頓を人に説いていながら自分に隙がでるようになった。もの覚えが悪くなった。どうも先が見え始めたようだ」  そういいながらも和尚さんの顔色はよく、ご機嫌もよさそうだった。  早速、昨夜の礼を述べた。 「昨晩は、有難うございました。ハンレイさんにケイタイ借りて、おふくろに電話することが出来ました。何事もなく無事でした」 「そうか、よかった。しかし、まだ終わったわけではない。気を付けた方が良い」 「早速ですが、報告です。おふくろによると、自殺したタムラさんのお宅に、警察の捜査が入ったという噂だそうです。タムラさんの部屋が調べられて、使っていたコンピュータも持っていかれたそうです。警察に止められているらしくて、奥さんは口を閉ざしているそうですが、隣り近所の人が云うには、タムラさんところ、ポリスのような、ひと目でそれと分かるような人の出入りがあるそうです」 「うーん、シマタイコクはやはりとんでもないことになりそうだな。自ら命を絶ったといわれる九十才の老人が何かの罪で疑われている。ゴロウの話しのように、恐らく、この千厳寺の事件が関係しているんだろう。そのタムラさんとかいうご老人、わしと同じ年代の方のようだ。黙っていたって数年の寿命だろう。それを待てずに、死に追いやったとすれば、この事件の主体になっている組織は、事件の全容が明かされることがよほで恐ろしいのだろう。・・・ゴロウは国名のシマタイコクが、大陸の文字で書かれないわけを知っているかな」 「いえ、知りません。何かこの件でむかし、論争があったとか」 「うん、むかしは、島国(しまぐに)、島大国(しまたいこく)が一般的な書き方だった。しかし、自分から仕掛けた第二次世界大戦に負けたあと、戦場になり、植民地扱いされた大陸や半島から出てきたのが、死魔国(しまぐに)、死魔大国(しまたいこく)といった書き方だ。戦時中のさまざまの残虐行為が原因だ。 メディアによっても取り上げ方が違った。右側のメディアは、島大国と書き、左寄りのメディアは死魔大国と書く。横文字では、Shimataikokuだからというので、言葉は便利なものだ。カナ書きで、シマタイコクと書くようになった。わしのように、先の世界大戦を身をもって知っている者は、とても、島大国(しまたいこく)などと、口を拭って書けるわけがない。死の悪魔が百万住む国と云われても、首をうなだれるしかない」  和尚さんは考え込むように言葉を切ったが、 「この国の恐ろしいのは、我々の戦争を知っている世代が終わりをつげ始めると、待っていたように、戦争も、空襲も知らない新世代が、僅か、数十年前、自分たちの父親や祖父が歩んだ道をまた歩き始めたことだ。それを黙って見過ごす国民が半数いるということは、シマタイコクの終焉が決して遠くないことを示している。それに、これはほとんど公の極秘情報になっているから、お前も知っているだろうが、北半島のミサイルは、その殆どが、シマタイコクの原発に砲口を向けている。いま、世界中で原発を動かしているのは、いわゆる先進十ヵ国のうち、シマタイコクだけになってしまっている。半世紀の間に二回も大きな原発事故をおこしながら、まだ、原発にしがみつくシマタイコクの政府と経済界。滅びようとする技術、産業に、なぜ、狂ったようにしがみつくのか。商売としてのうま味と、ここまで、来てしまった以上、国民を道連れに原発と心中する以外方法がなくなってしまったのと違うか。先の大戦末期とまったく同じ状況に陥っている。そのうち、この国の住民は政府への忠誠度によって、呼吸の数も決められるといわれている。ぜひ、この国の将来を見届けてみたいが、こっちが持つかどうかだ」  和尚さんは残念そうに口にするが目は笑っている。シマタイコクがここ十数年で、地球上でも有数の軍備を持つ国になり、ついこの間の選挙で政府は宿願の徴兵制を手に入れて、国民をあやつるところまできてしまった。実施されるまでに五年の猶予期間がある。仮に、徴兵制実施で国論が割れても、今までやりたいことをやってきた今の政府が、おとなしく引き下がるわけがない。恐らく、軍隊を出して国論を抑えるに違いない。警察などと中途半端なことをしないのが、今のシマタイコクの政府だ。数年来、同じことをやってきている。二回目の原発の大事故が起こった時がそうだった。沸騰する国論を、軍隊で押さえつけた。それを支持する国民がいたのだから、仕方がない。 シマタイコクに徴兵制が本当に実施されたら、この国の地図に載ってない千厳寺村に、徴兵逃れの若い連中が押し寄せてくるに違いない。この村に、いま外国の大学の分校が開かれようとしているのを知っているか」  今日、ハンレイさんに聞いたばかりだ。彼女もこの大学に入るのを楽しみにしていた。 「ハンレイさんも入学するのを楽しみにしていました」 「この大学は、シマタイコクから来る徴兵逃れの連中を見込んでいるのだ。さもなければ、人口が二万人程度のこの村に大学を持って来たって、経済的に成り立つわけがない。ということは、どういうことだか分かるか」  このところ急速に百年前の軍国主義国家に先祖帰りしそうなシマタイコクの気配に、和尚さんは口では嘆いているが心では笑っているのだ。未成年のぼくにも和尚さんが、シマタイコクの熟成度を望んでいるのが見え見えだ。何か難しそうな言葉使っちゃったけど、熟成度たって、国が成熟して、他国から尊敬される位置に登りつめることではない。熟れた柿は枝から落ちるだけ・・・。和尚さんの解釈はそういうことだ。シマタイコクが枝から落ちるのを待ちわびている・・・?  落ちたシマタイコクを拾い上げるのはどこのダレ? 「 “センガンジ”という国家が生まれても不思議ではない。 ・・・そう思わんか?」  ぼくは、和尚さんがぽろりと洩らした、人口二万人という言葉を聞き洩らさなかった。確か、学生の数だったろうか、ハンレイさんに聞いたが、“別に秘密ではないが、和尚さんに聞いてくれ”と云って、口を濁したことがあった。人口不足がこの村の一番の問題だと云っていたが、ぼくにはよく分からないが、二万人ていどの人口では、将来の発展はなかなか難しいだろう。  人口はとっくに一億を切ったとはいえ、世界では大国の一つに数えられているシマタイコクを、人口二万人の千厳寺村がどうすることが出来るというのだ。 「実は、今日、君たちに話すことは、この村の将来の問題に関係している。ゴロウは、この村にとっては、まったくの新入りだが、この男がこの村に迷い込んだそもそもの理由は、千厳寺の昔の事件を知って、その事実を確認したいという意識からだ」  和尚さんがぼくのことを〈ゴロウ〉と呼んだ。  ガキ、坊主、お前・・・。いろいろな呼び方があるものだが、やはり名前を呼ばれた方が気持ちいい。ハンレイさんの〈ゴロウ〉は、アクセントが何となく“ロ”の字にあり、正直、シマタイ語の上手な外人に呼ばれているような気がしないでもない。土地によってなまりがあるのだろうが、千厳寺なまりとでもいうのだろうか。ところが、和尚さんの〈ゴロウ〉は、正真正銘、トウケイのアクセントだ。三十年間ここに住んでいるということだが、生まれは隠せない。 「・・・この事件のことは、いまではこの村では小学生でも知っている。村人たちの常識になっている。しかし、一方の当事者であるシマタイコクは、一部の歴史学者と、政府の責任者以外、誰も知らない。メディアの一部は知っていても、報道しようとはしない。しかし、ゴロウは、まったくの偶然からその事件を知った。それを確かめるために、ここにやってきた。ゴロウは新入りでその上未成年だが、村の歴史の一部を共有している人間として我々と一緒に生活を送る決意をしていると思う。昨日のハンレイとの一日の行動でも、この村に害を加えるような人間でないことはわかった」  やはり、ハンレイさんはぼくのお目付け役で、行動を一つ一つチェックされていたんだ。ハンレイさんの方をチラッと見たが、彼女はわれ関せずといった表情で知らん顔。 「なぜ、こんなに急ぐのか。幾つかの理由があるが、まず、ゴロウがもたらした、タムラというもと軍人の情報のこと。・・・もうひとつは、わしの体調だ。・・・元気そうに見えるが、実は・・・あまりよくない」  ハンレイさんの顔色が変わった。 「和尚様、どういうことでしょうか・・・」 「いや、いま云った通りだ。体調に異変を感じている。昨日、病院で精密検査を受けた。・・・わしも長く生きすぎた。確か九十五才になったはずだ。自分の年もあやふやになってきた。人の寿命の長短は、年月で計れるものではない。いまは、百歳越えが普通になりつつある。そんな世の中になっても、五十、六十の年齢でも、長く生きすぎている奴がこの世には多すぎる。特に今の世の中にな。わしには数年来、あの世からお呼びをかけている者がおってな、そろそろ潮時だということだ。  かといって、今日、明日ということでもないようだ。大事に使えば、二三年くらいは持つそうだ。あらかじめ、このことを云っておくのは、君たちの心構えをきちんと持ってもらいたいためだ。今日、ハンレイと、新参者のゴロウに来てもらったのは、君たちには、とくにやってもらいたいことがあるからだ。ハンレイはよく知っているだろうが、この村の日々の営みは、村役場によって行われている。役場の責任者は、幸いなことに、昨年、大幅な若返りが行われて、ハタ・トシヨになった。女性が組織のトップに立つのは、組織の活性化のために何よりも刺激になる」  和尚さんが口にした、ハタ・トシヨさんには、翌日、お目にかかることになるのだが、あらかじめ、ハンレイさんと並ぶ、この村の別嬪さんの一人であることを云っておこう。ハンレイさんと違うのは、いわゆる東洋系の美人で、ぼくにとっては、親しみやすい人である。  和尚さんの話は、ハタ・トシヨさんの名前が出たころから、一段と熱を帯びてくる。和尚さんのお気に入りである事がよく分かる。 「・・・君たちにやってもらいたいこと。公式な立場にある役人には出来ないこと、例えば、シマタイコクにおける、千厳寺の存在をどうするかといったことだ。千厳寺で起こった事件はこの国の歴史から抹殺されている。村の存在も無視されている。シマタイコクはいま、自分好みの歴史を作り上げている最中だ。歴史編纂局とかいう新しい部署が出来たそうだが、三十年ばかり前に、第二次大戦で失った三百万人の血で勝ち取った新しい憲法を今の憲法に変えてしまったが、今度は歴史を変えてしまうことが、いま、シマタイコクの国是になっている。その為には百人程度の犠牲者がでた事件など、事件のうちに入らないだろうと誰でもが思う。しかし、シマタイコクの施政者はこの事件に関与した者の生存を許していない。その執念深さは異常なほどだ。事件から八十年たち、直接関与した連中は既にこの世にいないか、わしと同じように、超高齢な連中だけだ。それにもかかわらず、新しく事件の存在を知った者は、年齢に関わらず抹殺しようとしている。なぜか? 彼らにとって都合の悪いことがあるからだ。まず、第一に、この国は、先の大戦を含めて約二百年間、離島は別にして内地に於いて戦いをしていないということになっている。二百年前の戦争? キュウシュウの端っこで、サイゴウとかいう男とドンパチやったことがあっただろう。   教科書をはじめ、すべての歴史書がそうなっている。これは犠牲者の大小に関係ない。しかし、実際は本土で交戦はあったのだ。この寺の境内でな。この事実を、何としてもシマタイコクの歴史の中に書き込ませ、死んでいった人たちの霊をなぐさめるかどうか、という問題。本来ならば、わしがやるべきだったろうが、その前に千厳寺村をこの国の歴史にかき込ませる価値があることを認めさせるという問題があった。住む人間がどうでもいい価値のない人間ばかりの集団だったら、国は従来通りの方針、存在を抹殺したままで一顧だにしないだろう。この村の存在価値を認めさせれば、国はだんまりを決め込むわけにいかなくなる。わしは、まがりなりにも、この村に存在価値を与えることに全力を尽くしてきた。その結果は、昨日、ゴロウが見たとおりだ」  ぼくは、トウケイでは見られない、かっこいい多くの若い人々、外面だけではない、ハンレイさんに代表される僅か十七歳の少女の知識の広さと、さまざまの分野での若い人たちの活躍。実はあまり認めたくはないのだけれど、人手不足を補うための死者の活用。ぼくはいまだに、あの瞬間だけ、何か別の世界に放り込まれているような気がしてならないのだ。でも、いまはハンレイさんの説明を信じる他ない。 「この千厳寺村をシマタイコクの地図に載せ、少なくとも千厳寺村の歴史を正しい視点から書き記すことをシマタイコクに求める・・・。これを今後、ハンレイとゴロウに考えてもらいたい」 「万一、それが叶わなかった場合には?」  ハンレイさんの質問に、和尚さんは、ぐっと、くちびるを噛みしめると、 「・・・最後の手段になるかもしれんが、考えておる」  その言葉は、ぼくが和尚さんから聞いた言葉のうちで、一番、力強い言葉だった。  一晩このボロ寺で過ごしただけのぼくに、心の中で千厳寺小町と名付けた十七才の女の子に手玉にとられるようなぼくに、ましてや、まだ十六才だよ、和尚さんは、なぜ、村の存在を左右するような大事な問題を託そうとするのだろう。  わが身を見回して、ぼくにそのような価値があろうとは、少しばかりうぬぼれが強いぼくでも、幾らなんでも考え及ばないよ。  ぼくのいまの存在価値?  そんなものがあるとすれば、そうだな・・・  まず、千厳寺村には縁もゆかりもない人間だということ。  次に、好奇心旺盛、一冊の大学ノートの記述に刺激を受けて、地図上にない、いや、それだからこそ、村の存在を確かめようと、人から見れば無謀な村探しにとびだした事。  これは、特に和尚さんが強調しているのだけど、七日間で目的の寺にたどり着いたこと。偶然だろうと、運が強かろうと、たどり着いたことは事実だと、和尚さんはその〈結果〉を非常に重要視しているらしいこと。  その宿命を背負っていると。  宿命とは、千厳寺に関わることをいうらしい。  そして、外部から人間が千厳寺にたどりつくのは三十年ぶりだということ。考えようによっては、今後、外部から人間がやってくるのは三十年後かもしれないということ。  更に加えれば、十六才の高校一年生。何も知らない青二才。  もうひとつ、小さな声で云わせてもらえば、ハンレイさんに冷やかされたけど、そう、まだ童貞だってこと・・・。  数え上げれば、これらがぼくの他の人間にない点だと思うよ。  和尚さんは、ぼくのどこを評価して、この大事なプロジェクトの一員に加えたのだろう。 「これは、長い仕事になると思う。だから将来のある若い人が必要と思ったのだ。そのメンバーの一人には、千厳寺に関係ない地域に生まれ育って、シマタイコクの歴史などほとんど勉強したことのない人間が望ましい。なまはんか、この国のあやしげな歴史教育など受けるとその先入観が邪魔をすることになる。それが、ゴロウを考えた理由の一つだ。勿論、他にも幾つかあるが、それは、少しづつ本人が自覚して行くだろう。・・・しかし、まだ、最終的に決めたわけではない。わしの生きている間、出来れば、一年以内に方向を出してもらいたい。分かるか?結末を見るには更に数年かかるだろう。シマタイコクに残っているこの問題に対する敵対勢力はきみたちの予想以上に強いことを覚悟しておいた方が良い」  シマタイコクの歴史を正しい道に引き戻すこと。  そして、千厳寺の存在と歴史をシマタイコクの施政者に認めさせること。  でも、さっきの和尚さんの口ぶりには、場合によっては、シマタイコクをおかしな方向に熟成させて、自然落下するのに手を貸すようなことも選択技にあるといいたげだった。  まさか、とは思うが、この和尚、人口二万人の千厳寺村が、人口減少に悩まされているとはいえ、まだ一億人近い人口を持つシマタイコクを支配することを夢見ているのだろうか。  何はともあれ、千里の道も一里から・・・。  大学ノートに書かれていることが事実かどうかをたしかめることから始めなくてはならないだろう。今まで犠牲者が出ていることを思えば命がけの仕事になりそうだ。  ぼくは、生まれて始めて、人に期待される人間として見られていることに興奮した。理由などどうでもいい、この期待に応えたい。 「やらせてください。何も分からないガキですが、好奇心だけはあります。それと忍耐力も。・・・多分」  ぼくは、付け足して、大きなことを言いすぎただろうかと、少し、顔が赤くなった。 「わしが、お前に、この任を期待するのは、先ほども云った通りだが、やはり、十六才と云う年で、よく、この千厳寺にたどり着いたという事実に、なにか、めぐりあわせみたいなものを感じるのだ。七日間かかったと云っていたが、山の中をさ迷い歩いた日数だけではない。大学ノートを見て決断し、この寺を目指した、その瞬間からのすべてだ。・・・わしは、たどり着くまで十年近くかかった。千厳寺の事件を知ってから、それがまったくのでたらめ、三文小説の筋書きではないことを自分に納得させるまでの期間が約三年。わしは、ある程度世間に名の通った会社の部長をやっていた。まあ、自分でいうのもなんだが、うまく泳ぎ切れば社長になれたかもしれない。いくら、因縁がらみの歴史的な事件を解明するためとはいえ、この地位は捨てきれなかった。大戦後の特需景気で、会社の業績はあがったし、おれには妻子があった・・・」 「和尚さん、一つ質問してよろしいですか。和尚さんは、なにがきっかけで千厳寺のことを知ったのですか?」 「大事な質問だな。わしも、うっかりしたわけではないが、それを云わなければこの事件に関しては、何の意味もない」  和尚さんは、ハンレイさんと、ぼくの顔を一人ずつ、確かめるように見据えると、 「くどいかもしれないが、もう一度云っておく。この事件については、君たちがどんなことでも知れば知るほど危険が増す、脅し文句のようだが、地獄の入り口に近づく。それを覚悟して聞いてもらいたい。いいかな」  ぼくは、既に一部であろうが知ってしまっている。問題は、ハンレイさんだ。彼女は、この問題については、どこまで知っているのだろうか。この村で十七年間生きてきた以上、かなりのことは知っているのではないだろうか。 「大丈夫です。覚悟しています」  ハンレイさんは、はっきりと答えた。  和尚さんが目をかけていて、まして、この集まりに呼んだのだ。覚悟していることは先刻承知なのだろうが、あえて、確認をとったのだろう。 「自分のこととなると、どこから話していいか、一部を隠したり体裁をつくろうわけではないが、なかなか話しにくい」  和尚さんは、目をつぶり一瞬、黙考の姿勢をみせたが、すぐに目を開くと思い直したように話し始めた。 和尚、千厳法師の話 「わしは戦時中大陸である業務についていた。秘密でもなんでもないがこの国はあの広大な大陸での軍費の捻出に、占領地域でのアヘンの許認可権、専売制を利用して莫大な利益を得た。アヘンとはケシの実から採取される合成化合物で紀元前三千年ころには栽培されていたといわれている。鎮痛作用があり薬用に使われていたが、同時に陶酔や昏睡作用もあり依存性が強く、離脱症状を起こすなど、躰を蝕んでいくところから代表的な麻薬といわれている。アヘンは国際条約で規定された世界的禁制品でこの国も条約に加入していた。当時、大陸のシナ帝国はアヘン撲滅に熱心で、非常に厳しい禁煙法を設定してそれなりの成果をあげていた。しかし、この国は・・シマタイコクのことだよ・・世界に向けては麻薬撲滅の旗を振りながら、一方では陸軍の特務機関がその下部組織に麻薬を取扱かわせ、大陸の国民をアヘン漬けにする政策をとっていた。シマタイコクは大陸やその北東部で大量のアヘンを生産していたが、当初アヘンは中東のサバクの国から密輸入されていた。シマタイコクのある大商社がその業務にからんでいた。商社にとっては大きな仕事だったのだ。わしは下っ端だったが、その商社の一員としてその業務に携わっていたんだ。この国のアヘン政策は、国の出先機関や軍の一部が行った偶発的なものではなく、政府のトップが企画し実行した国家犯罪だということが出来る・・・。  シマタイコクと、当時の大陸を支配していたシナ帝国との十年に及ぶ戦争は、第二次アヘン戦争と云った方がいいかもしれない。  シマタイコクのアヘン政策については、また、後で話にでてくるが、ここでは、わしがそういう任務を負っていたことを知ってもらえばいい。かなり危ない橋を渡ったが、戦後、なんとか無事に国に帰ることができた。財閥解体で、小さくなった商事会社で今度はこの国の復興のための仕事をやることになった。この頃、わしはある女性に恋をして結婚した。 この結婚がわしの運命を大きく変えることになる。  結婚後妻から聞いた話だ。  妻の兄は陸軍の将校だった。  一時、大陸にいたが、下半身に戦傷を受けて内地に帰国していた。敵の空襲が激しくなり、首都のトウケイが焼け野原になり、新型爆弾が国の西部地区に落ちて二三日経った頃だ。後になって振り返ってみれば、敗戦の一週間くらい前だ。トウケイ郊外に疎開していた母親の所にきて、新しい任務に就くことになったといって、その身の回りのものを母親に預けて出て行ったそうだ。それきり二度と親族の前に姿を見せることはなかった。戦後一年くらい経ってから、兄の戦死公報が来たのだ。もう少し任務が遅れれば助かったのにとの思いが消えなかったそうだ。兄の七回忌の法要のとき、母親から預かった兄の形見となった手帳を開いてみて、非常に特殊な任務を負わされていたらしいことを知ったのだ。  その後、妻はわしと結婚し、わしが戦時中に軍属として、特殊な仕事に携わって軍部の裏側を見て来たことを知り、その手帳をわしに見せてくれた。その手帳と、敗戦直前の行動などを聞かされて、義理の兄も、なにか、特殊任務についていたのだろうと推測できた。その手帳には、次のようにあった。 〈千厳寺上陸。白い奴らの作戦を助け、秘密裏のうちに終えんさせること。目撃者は全員洞穴に集合。・・・生きていても無用の躰。国の為に散れば本望〉  何回もよみ直したからよく覚えている。しかし、私には、意味が読み取れなかった。ただ、最後の〈生きていても云々・・・〉は、妻が、兄は大陸での戦傷で男としての機能を失ったしまったと、兄さんから直接聞かされたのだそうだ。 〈おれは戦争で男の機能を失ってしまった。成瀬家の跡取りを作れない躰だから、お前が立派な子供を産んで、出来れば一人は成瀬家を継がしてくれ〉と云われたそうだ。 このこともあり、妻は一人の兄が手帳に書き記したことを、何とか読み解いて、その思いに報いたかったようだ。 まず、千厳寺という寺がどこにあるか調べてくれと頼まれた。 〈千厳寺上陸〉などと、明らかに戦いを思わせる言葉で始まっているこの短い文章は、千厳寺の場所を確認すれば、すべてを読み解くのに、造作は無いように思える。  最初は、寺の年鑑などを調べれば簡単に分かると思っていたんだ。しかし、神社仏閣の年鑑など調べても載ってない。今は公的な宗教年鑑とかいうのがあるようだが、その頃は、私的な本がいくらかあるだけで、大きな寺や神社しか載っていない。私は、年鑑などに載ってないからちっぽけな寺なのだろう、もう少し待てと妻に云うほかなかった。妻には調べてみるよ、と云ったものの、本職の仕事が忙しくて、なかなか手がまわらない。たまたま会社の同僚に実家が寺だとかで、寺社関連に詳しい者がいて、その友人を頼って調べてもらったが、それでも千厳寺という寺は見つからなかった。軽く考えていて、妻に期待を持たせたことが仇になったかっこうだった。こんなことで、いたずらに月日が経ち、わしも海外勤めが多くなって、妻を伴っての赴任となり、わしら夫婦もこの件はすっかり頭から抜け落ちていたというのが本当のところだ。  出入りはあったが、二十年近い海外勤務が解かれ、本社に帰って、わしも役員の椅子が見えてきたころだ。突然、ある日自宅に電話があって、明らかに年よりの声で、いろいろ理由があって名前は失礼させてもらいたいが、成瀬信三さんの墓はどこにあるか教えて頂けないかというのだ。  成瀬信三とは、妻の兄、つまり妻に手帳を残して死に、戦死公報がきた義兄だ。  妻の実家はエチゴのウオヌマ郡だから、そこにある事は知っていたが、見ず知らずの男に応える義務はない。名前と理由を訊ねたが、成瀬さんとは軍隊仲間で友人でしたというだけで、名前は勘弁してくれとどうしても明かさない。ただ、成瀬さんの墓前にお花を供えたいだけです、というのだ。それだけなら、ということで、妻とも相談して、ウオヌマの妻の実家の寺を教えて電話をきったんだ。  それからふた月ほどたって、妻の実家の菩提寺に成瀬信三あてに花でも届いたかと聞いたら、八月十日の命日に供えてくれといって、立派な花が届いたという。妻が指を折って、今年は兄の三十三回忌だわというのだ。  三十三回法要とは、弔い上げといって、亡くなってから三十二回目の祥月命日に行う法要で、普通、これをもって、もう、法要は終わりにしますという、まあ云ってみれば、故人に対する最後の法要なんだそうだ。五十回忌法要も同じ意味で行われるそうだが、これを行うには相当に長生きしなければならず、稀だということだ。それともう一つ意味があって、この法要を行うと、故人の生前の罪科がすべて洗い流されて、地獄に堕ちる人でも極楽に行くことができるという、とにかく、大事な節目にあたる法要だそうだ。  妻はそれらのしきたりを知っていて花を送ってくれたのではないかというのだ。わしたち夫婦も、その年が兄の三十三回忌法要だとは知らず、そんなしきたりも知らなかった。勿論、わし等親族以外に、過去に兄の命日に、花など贈ってくれた人はいない。三十年も経って、兄の死を悼むなど、兄の死に関わっていた人でないと知る分けはない、花の送り人を調べてみたが、寺では送り人はTというイニシャルがあっただけだという。結局、送り地は札幌だということまでは分かったが、送った花屋も、電話で依頼され、クレジット決済でなく、Tと署名のある封筒に現金を入れて送って来たというのだ。それ以上のことは分からなかった。  これに触発され、我々の年のこともあって、妻はまた、千厳寺のことを口に出し始めた。妻をなだめるために、千厳寺は地方の寺らしいのでみつかりそうもない、ぼくが定年で会社をやめたら、一緒に四国巡礼でもして、兄さんを慰めようと約束したんだ。妻はぼくの定年をまたずに、それから、二年後に脳梗塞で急死した。ぼくの心には、痛烈な後悔の気持ちが残ってしまった。わしは死んだ妻の供養のために四国巡礼の代わりに、千厳寺探しに残りの人生をかけることにした。  定年まで、あと五年だったが、妻の死がわしの背中を押した。子供たちは、成人してそれなりに自立の目途も立っていた。妻を天命が尽きるかたちでなく失って自分だけが安穏と生きていていいのか。とてもやりきれない気持ちだった。  定年まで勤めたところで、退職金や年金の額が多少変わるくらいで、もっとやることがあるだろうとわしはせかされる思いで会社を辞めることにした。 かといって今後の自分の目標に対してはっきり自信があったわけではないのだ。自分を鼓舞する材料としては、下っ端だったとはいえ、五年間の大陸におけるアヘン関連のビジネス経験だった。間違いなくウラがありそうな千厳寺の件と、究極のウラビジネスだったアヘン取引を重ねてみて、むりやりに自身を奮い立たせたといったところだった。とにかく、人生最後の仕事だとの覚悟はあった。敢えて加えれば、それに永年の本業としての海外ビジネス。これらの経験がどこまで生きるか、とにかくやってみるしかなかった。  後戻りしないために、いや、出来なくするために、大したものではないが、家や家財を売り払い、子供たちに分けるものは分けて、裸一貫になった。千厳寺探しに専念することにした。  わしの覚悟が運を呼んだのか、貴重な情報を手に入れることが出来た。わしが定年を待たずに会社を辞めることを聞いた会社の大先輩、とっくに会社を辞められて、悠々自適の生活を送っている方だが、わしに会いたいという連絡を頂いた。渡したいものもあり、話したいこともあるとのことだった」 会社の大先輩の話 「大先輩の話しの前に、わしとその大先輩とのいきさつを話しておこう。 わしの友人で実家が寺だという男、むかし、千厳寺探しで世話になったヤツがニューヨーク支店長をやっていたのだが、かつてその大先輩の部下だったそうだ。大先輩はその部下から、何かのおりに友人にせんがんじという寺さがしをやっている変わったヤツがいると、聞いていたのだが、勿論そんな世間話はすぐに忘れてしまっていた。 そこえ、定年を間近に控えながら、会社を辞めて寺探しに出るやつがいる、昔、お話ししたことのある男です、今度はそれなりの覚悟をもってやるらしいです、という話をニューヨーク支店長から聞かれて、あっ、そうだと、せんがんじの名を含めて、昔のことを思い出したのだそうだ。  お会いして分かったのだが、その先輩は、戦争中の中東からシナ帝国へのアヘン密輸の仕事にもかかわって居られた方で、下っ端だったわしのことも覚えておられた。 わしがなぜ、定年を間近にして、得られる恩典を犠牲にしてまでこの問題に、のめり込むのかと問われたので、義兄が当事者の一人らしいこと、そして、亡き妻との約束であるとも話した。先輩は、感に耐えるように聞かれていたが、よし、良ければ今晩泊まっていけ、おれはもう先も短い、知っていることを君に伝えておこうと仰っていただいた。 ・・・大先輩が渡したいと云われたもの、それは、アヘン関連でシナ帝国の機関に捕まって死刑判決を受けたこの国の特務機関の男が残した遺書だった。 大先輩は次のようなことを話して下さった。 『きみも、その任についたことがあるから知っているだろうが、当時、シナ帝国の国民政府は、アヘンには非常に厳しい態度で臨んでいて、若干の取り扱いでもばれれば死刑だ。シマタイコクの陸軍特務機関の男は、アヘンの取引の現場をシナの官憲に押さえられた。シマタイコクは表面上はアヘン取り締まりの任に当たっていたから、いくら自国の人間で職務上と云い張っても、現場を押さえられては救う手立ては打てない。それでなくても、アヘン取り締まりの任にありながら、裏ではその取引で莫大な利益を挙げ、戦費につぎ込んでいるのを見ているシナ帝国の国民政府は、腹が煮えくり返っていたのだ。結局、その男は、見殺し、生け贄ということになった。男は自分を見殺しにしたシマタイコクの軍の遣り口に腹を立て、秘密事項をぶちまけて死んだんだ。そういう文書だから、極秘のうちに、一部が筆記コピーされて地下文書として、反軍部の考えをもつ人々の間に伝わった。幾つかの極秘事項、アヘン関係のものが主だったが、その中に一つだけ〈せんがんじに関する件〉という文書があった。勿論、アヘンに無関係というのでなく、大陸でのアヘン拡散の企画者だった内務省の一人の高級官僚が、〈せんがんじ〉という言葉を度々口にしており、恐らく内地におけるアヘンの栽培か隠匿場所ではないか、と告発する文書だったのだ。 しかし、これを見たおれは、内地におけるアヘンの栽培や隠匿は、その運搬経路を含めて、実働部隊であるおれの勤めていた会社の関与なしに出来ないことを知っていたから、この情報自体は、死んでいく男の単なる憶測、何でもかんでもぶちまけてやるという復讐の思いからきていることをすぐに覚った。 しかし、その当事者に挙げられた高級官僚はわが社にとっては、軍のアヘン取引の企画、運営の根っこの部分に携わる人物であり、我々商社は実行部隊だから、云ってみれば一心同体で動いている。だからその官僚との間にはアヘン取引については隠し事などあるはずはない、多分、別の件で、〈せんがんじ〉とかを口にしたのだろう、しかし、一体どういう意味なのだろうかということになった。 〈じ〉とあるからには〈寺〉ともとれるし、暗号のようにもとれる。死んでいく人間が遺書にまで残した件だから、放っておくわけにもいかない。 わが社は念のために、独自の判断でこの高級官僚の過去、特にドイチェ国のシマタイコク大使館に参事官として勤務していた当時のことを調べてみたのだ。二年間ベルリで勤務についていたのだが、当然のことながら、独裁者ヒラートの考え方に共鳴していたようだった。 〈ドイチェ民族を世界で最優秀な民族にするために障害となるユダ人の絶滅〉、即ちホロコースト、更に踏み込んで、長身、金髪碧眼の優秀な結婚適齢期の男女を集めて強制的に結婚させる〈ドイチェ民族の品種改良〉などに、この官僚は非常に興味を示し、いわゆる〈優生学〉の集まりにも度々顔を出していたようだ。 当時、ナチ政府は「積極的優生政策」というのを実施していた。多産のアーリア民族--ーインド・ユーロッパ語族の共通の祖先だが、ナチが使う場合にはドイチェ人を指す--ーの女性を表彰し、またレーベンスホルン、「生命の泉計画」と呼ばれているが、アーリア民族の独身女性が人種的エリートの「ナチ親衛隊」の士官と結婚し、子供をもうけることを奨励していた。ナチ政府による優生学や民族浄化への関心は、ホロコースト計画を通してユダ人・同性愛者を含む数百万の「不適格」なユーロッパ人を組織的・大量に殺戮する形となって現れることになる。 当然、この高級官僚は、ドイチェ人を自分の国の人間に置き換えて、民族の「品種改良」を考えたのだ。しかし、ユーロッパのような陸続きの土地に住み着いている民族と違い、シマタイコクは島国だ。それでなくても、この国は単一民族が二千年以上も続く国として、それを誇りに生きてきている。しかし、この単一の純化した民族は誇り得る民族だろうか。内面、外面を含めて誇れる民族だろうか。それは、メイジ時代に海外に出た人々の痛切な“痛み”によって知ることが出来る。 “痛み”とは今の言葉でいえば人種的なヘイトクライムだ。人種や民族、宗教などに対する差別意識や憎悪を動機とする犯罪行為のことだ。障害者や、同性愛のような特定の嗜好に対する差別や暴力も含まれる。  二三の例を挙げる。  十九世紀中葉以降、ユーロッパの新聞、雑誌にはシマタイコクの風刺画としてこの国の人間を『西洋人に比べ、背丈、体格が細身で小柄、狡猾そうなサル顔で描いて』いたが、これがシマタイコクの人間の典型的特徴を物語るとして、海外に出ていたこの国の人々の肩身をせまくしたのである。 『もっとも高度に西洋化した知識人』と評されるナツメソウセキなる学者は渡英まで、自分の肌が『黄色』などと思いもしなかったのに、アングロサクソンの国、イギリスにたたずむ『土気色』の自分は、『清らかに洗い濯げる白いシャツに一点の墨汁を落としたる』存在であり、実に『哀れ』であったと執拗に記し続けたのも、ソウセキにとっての人種体験であった。ソウセキの身長は、百五十七センチで当時の日本人男性の平均的身長で特に小柄であったわけではないが、ロンドンを徘徊して、現地の男たちとの身体的差異に自らを「一寸法師」と称して、留学中疎外感を持ち続けたのである。  この時から三十年後、一九三〇年代、タニザキ・ジュンイチロウなる作家は『陰翳礼讃』の中で、シマタイコクの人間の肌の色を同じように記している。『シマタイ人の肌にはどんなに白くても白い中に微かな翳りがある』ため、西洋人の集会に一人のシマタイ人が這入りこむと白紙に一点薄墨のしみが出来たようでわれわれが見てもその一人が目障り』と記している。  この辺にしておいたほうが良いと思う。外交官を含む、海外に出たこの国の名前の知れた人たちの、ある種の劣等意識は枚挙にいとまがない。  驚かされるのは、シマタイコクの『人種改良』への思いはメイジの初めからあったということである。数十例の中から初期の二例だけあげてみる。 一八七二年(メイジ五年)、高杉晋作の義弟である南貞助が海外遊学中にシマタイ人種改良論者になり、やがてイギリス女性のライザ・ピットマンと『日英混血児を得る』ことを目的に結婚をした事例がある。ライザがシマタイコクでの生活に馴染めず、人種改良のための結婚生活は失敗に終わったという。  一八八四年(メイジ十七年)、『時事新報』社説記者の高橋義雄は『シマタイコク人種改良論』なる書物を出版し、シマタイ人と西洋人の国際結婚により優れた子孫を残しシマタイ人種を改良できると主張した。  優生学に基づく、シマタイコク人種改造論は、ここにみるようにメイジの初期からあり、ここで培われた劣等意識の蓄積があの大戦を引き起こした一因になっているという者までいるのである。わしはこの考えに同調はしないが、敢えて、反対もしない。   ヘイトクライムの話が長くなったが、人種的にユーロッパの人間からヘイトクライムを受けていると、無意識のうちに感じているのが、シマタイコクの人間だ。それから百年の時を経て、いまはその矛先が、大陸や半島など旧植民地やアジヤの人たちに向けられている。過去に受けた、人種差別と恥辱をこれらの人々に向けることによって、シマタイコクの人間は偏屈な優越感に浸っている。テレビなどに、「この国スゴーイ」といった、外人による「シマタイコク礼讃番組」が氾濫するのは、このような実態の薄いやらせ番組でもいいから、見ることによって、心の安寧を計りたいという、まさに劣等感の裏返しである。シマタイコクの人間はその大半が、過去二千年の間に、これら、大陸、半島の人々との交わりによって文化を学び、民族を形成してきたにも拘わらずである。  先の高級官僚の話しに戻ろう。  この官僚は、もうひとつ、これは多分シマタイコクの政府の密命を帯びていたと思うが、同盟国ドイチェの原子爆弾の開発についても関心をもっていた。一番懸念していたのは、ナチのユダ人弾圧により、アメリークに亡命したユダ人科学者による原爆開発と、ドイチェ人科学者による原爆開発のどちらが先かということであった。同盟国とはいえ、原爆のような最高機密は明かしてもらえない。ところが、商社は情報が命と云われるように、わが社が張り巡らしていた網にある情報がもたらされた。将来のある優秀なドイチェ国籍の若い女性物理学研究者が同じ職場の同僚と同性愛に落ち、その噂のため職場から追放されそうになっているというのである。二人で亡命を計画したところ、その意図を職場の同僚に悟られてしまったというのだ。彼女らはユダ系であるところから、このままでは、二人とも強制収容所行は免れない。幸いだったのは、彼女らの意図を見抜いた職場の同僚というのは、その女性の性癖をしらずに彼女を想っていた男性職員だったということだった。自分の恋は成就できないまでも、先の有る若い女性科学者の強制収容所行を黙って見過ごすことは出来なかった。この件はまだ上層部に上がってなかったので、何とか国を出る方策を探った。その職員は同盟国のシマタイコクの物理学会に出席するということで、書類は作るから、女性二人、なんとかシマタイコクに連れ出せないかと、極秘でおれの会社に相談があったのだ。相手は同盟国のドイチェである。時期も時期で、一発触発の空気がユーロッパ中にみなぎっていた。万一のことを考えたら一商社が手を出せるような件ではない。それで、おれは上司に相談し、上司はそのシマタイコクの大使館の参事官をしている高級官僚に相談したのだ。その官僚はさすがに切れる男だった。更にその先を見据えていた。「これは俺にまかせてくれ」ということになり、わが社は表面上は手を引くことになったのだ。だから、正式には我々民間人は関知しないということになっている。しかし、表向きは関知しなくても、大使館に、極秘で自由に使える人間などいるわけがない。結局、万一の場合の責任を免れただけで、わが社がその官僚の手足となって手伝うことになった。  その官僚の考えたことは、ちょっと役人離れしていた。  近く第二次世界大戦が起こる。この戦争の決着は、恐らく、原子爆弾、ロケット弾、人間に代わるロボット兵士などを先に開発し、実用化したほうが勝つだろう、三国同盟のいわゆる枢軸国側か、或は、米、英、仏などの連合国側か。戦争は鉄砲を撃ち合うだけではない、科学的な、それも今の常識を超えたような、想像の世界にあるような優越性がこれからの戦争を制すると考えた。この官僚は、どうせ二人の女性科学者を連れだすのなら、もっと大きくやろうとの策略を立てた。ヒラート政権の下、急速にナチ化する中で、人種、宗教、信条など、何らかの理由でこの国に居づらくなり、命の危険のある研究者たち、特に彼が優生学会で出会った人たちを介して、優生学的に人種改良に興味を抱く女性たち六人を選んだのだ。  二人のユダ系物理学研究者に加えて、更にIQ(知能指数)の高い優秀な研究者六人は、健康診断の結果、子供を産むことに何の問題もないことが判明した。  計八人の若い女性研究者は、シマタイコクの船会社の欧州航路ハンブルグ線で、シマタイコクの物理学会の会合に出席するという名目のもとに、シマタイコクに向かったのだ。  高級官僚は、自らも帰国し、彼女らの到着を待って、ナチ・ドイチェが、人種改良のために実施したのと同じやりかたで、人種改良の実験に着手した。ナチが優秀な「ナチ親衛隊」の若い士官と人種的に純粋なアーリア人女性との結婚により、優秀な子孫の誕生を計画したのに習ったのである。  その官僚は、ドイツから連れ帰った優秀な白人女性と、シマタイコクの優秀な若い眉目秀麗な海軍士官及び陸軍士官との結合を計った。カルイザワに近い、著名人の別荘を使用して、八人の白人女性と、選ばれた海軍、陸軍の若い士官たちとのいわゆる見合いが行われた。優生学に興味を持つ、あらかじめ吹き込まれてシマタイコクにきたとはいえ、いざとなるとなかなか決まらず、シマタイコクの士官は三十人ばかりが呼び出され、見合いをさせられた。こうして八組のカップルが出来上がった。これらのカップルは、女性が妊娠するまで一緒に生活するが、妊娠が確認された時点で、士官たちは、本来の業務に戻される。最終的には、彼らはすべて激戦区に送られ、ヤスクニの英霊となることが計られたのである。この実験は男性を変えて、約三年間行われた。これは、順調にいけば、各女性は男親の違う二人の子供を産む計画だったのである。  この高級官僚は、思わぬかたちで関与することになった、この計画、彼はこれを『Kプロジェクト』と名付けたが、これらの実験に多額の資金が必要になることが分かって来た。単に女性たちをユーロッパからこの国へ運び込み、当面の生活環境の構築だけではなかった。子供が生まれれば、その養育費も永年に渡って面倒をみなければならないことを、この男にしては珍しいことだが、見落としていたのだ。もしかすると、何時戦争が始まるか予測不能のこの時期に、船で地球を半周するようなこんな大きなプロジェクトが、この地球上で最後までうまくいくとは思っていなかったのかもしれない。失敗したら失敗したで、女どもを放り出して、自分は手を拭って知らん顔をきめこもうと思っていたのかもしれない。しょせんは官僚である。責任逃れは必ず考えていたに違いない。ところが、ユーロッパに戦雲が急を告げ、アジヤでも大陸で戦線が拡大していく中で、Kプロジェクトだけは、非常に順調に事が運んでいったのである。もしかすると、この官僚にとっては予想外だったのかもしれない。どこかで破たんすることを考えていたか或は予測していたか、あわてて、資金手当てに走ったのがこの男らしくないのである。この男の胸の中で金の生える木といえば、アヘンである。女性たちを養い、生まれてくる子供たちを養育する資金源として、その官僚は、自分が嘗て指揮をとっていた大陸からアヘンを持ち込んだのである。  “その場所”は、里山として近辺には三百人ほどの農民が住んでいた。村を一キロばかり外れた森の中に、江戸時代に建てられたと思われる古い寺があった。村人も近づかない荒れ寺で、人の住むのを見たことがないという。崩れかけた寺の欄間には彫刻が施され三匹のキツネとおぼしい動物と「千厳寺」の文字が彫られていた。江戸時代の寺の多くがそうであるように神寺一体の寺で、本尊はお稲荷様だった。  太平洋で戦争が始まる三年ほど前、寺から更に奥に入った絶壁がそそり立つ岩穴に、一個小隊、三十人ばかりの兵隊が大きなブリキ缶を含む大量の物資を運び込んだ・・・・』 「大先輩の話は、夜遅くなっても終わらなかった。その真摯な熱中ぶりに、躰に障りはしないかと心配だった。しかし、これが杞憂でなかったとは・・・。わしは、その先輩がこの高級官僚のことをあまりにも良く知っていることに驚いた。  最後に大先輩は云われた。 『山中にブリキ缶を運び込むまでの経路、千厳寺という寺のこと、絶壁の岩山などは、この指揮をとった士官から伝わった話だ。指揮官は、これが軍の高度の秘密であることを知っていた。このような任務に携わった者には、最後にはどのような命運が待ち受けるか、百も承知で任務を遂行した。しかし、彼は血の通った人間だった。闇から闇に葬られることは、自分の生きた証拠まで否定することになると思ったのかもしれない。小隊共々、南の島に送られることがきまった時、この任務の報告書を作成するために作った詳細なメモ書きを面会に来た妻に渡していたのだ。戦後、この方から縁者を通して、メモ書きを含めて関連の資料がおれの手に入った。  きみの興味あるのはせんがんじという寺のことだったろうが、この寺は、おれの知っているだけで、これだけのバックグラウンドを持っている。しかし、これは、まだ、この寺の持つ前半の物語にしか過ぎない。今夜はつかれた。ちょっと一杯やって、休むとしよう。今晩は泊まって行きなさい。部屋を用意させよう。・・・そうだな、明日は、おれの話に出る高級官僚についても話しておこうか。もしかすると、きみも会ったことがあるかもしれない。しかし、人生の終わりに近づいて、心にあるものを全部吐き出してしまうというのは、思っていたよりすっきり、晴れ晴れするものだな。じゃあ、お休み』 ・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・本当のお休みになってしまった。  大先輩は、その夜、大往生を遂げられたのだ。  翌朝、大先輩のお孫さんに当たるお嬢さん、といっても、三十才をすぎている方だが、大先輩は書斎で椅子に座られたまま、机にうつぶせになって亡くなっていたというのだ。心臓発作だった。むかし、心筋梗塞にかかって生死の境をさまよったこともあるとかで、心臓病は持病のようなものだったという。朝方、大先輩はトイレに起きられて、そのあと、書斎に行かれていろいろ調べ物をされているようだった。ちょっと早すぎるとは思ったが、客を泊めており、そのための資料でもみているのだろうと、気にもしなかったらしい。お嬢さんの話によると、机の上には昔のアルバムが出ており、数枚の山の写真と一緒に、六年ほど前に亡くなった木科泰助(きしなたいすけ)総理大臣を囲んで、どこかの料亭で写した写真が出ていたという。おれはお嬢さんにその写真を見せて頂けないでしょうかとお願いしたが、山の写真は結構ですが、総理を囲んでの写真は、個人的なものですからと首を縦に振って頂けなかった。  大切な方の急死で、それどころでなかったということもあったと思う。  わしは、前日の大先輩との話の概要をお話し、長時間、お付き合い頂いたためにお体に障ったのではないかと危惧しておりますと、思っていることを申し上げた。お嬢さんは、『いえ、祖父は、これでわしも迷うことなくあの世に行けると、あなた様のお出でを楽しみにしておりました』と云われたが、おれにとって、そう云って頂けるだけで、少しは肩の荷が下りる思いだった。 わしは、その晩、泊めていただいたという機縁もあり、お通夜から、葬式まで、後輩の一人として、自分としては、心を込めてお手伝いさせていただいた。この方の、人生の最後に会話を交わしたのは、恐らく、自分だろうと思うと、その時の情景が一つ一つ思い出され、大先輩の命を縮めたのは、やはりあの長時間にわたる熱心なお話しのためではなかったかと、またまた、そのことに心を痛め、僧侶の読経の間、涙が出て仕方なかった。火葬場で骨揚げの時、焼いた後の骨の量の少なさに、この方は人生を使い切ったという思いに胸がふさがれた。火葬場から、大先輩の遺骨と共にご自宅に戻り、そろそろ失礼しようかと思っていると、お嬢さんが、ちょっとお出で下さい、とわしを、大先輩の書斎に案内してくれた。  机の上には、アルバムが開いたままの状態でおいてあった。 「祖父が倒れていた時と同じ状態にしてあります」とお嬢さんは云われ、机に寄るようにと目くばせされた。  先日、お嬢さんが云われていた通り、アルバムの横には数枚の山の写真と並んで、木科泰助総理大臣を囲んで、料亭で写した写真が載っていた。五人の男が総理を囲んでおり、大先輩は総理の隣に親しそうに座っている。眼の錯覚だろうか、写真の木科総理の躰の中央あたりに、何かで突かれたような小さな穴が開いている。  おれが「これは・・?」と、小さく声を挙げると、お嬢さんは机に近づき、その写真を目の下にしながら言われた。 「祖父は、その写真を左手の下に置き、右手には鉛筆を持ってその写真の中央、木科総理の写真の上に、まさに胸のあたりに鉛筆の芯を突き刺す様にして倒れ込んでいました」  大先輩のこの世での最後の行為は、総理の胸に鋭角なものを突き刺すことだった。  わしは、お嬢さんに、この写真を見せていただいたことに深く謝意を述べ、「大先輩のお気持ちは決してないがしろにはいたしません」と云って、お宅を辞した。  わしは、見せていただいたアルバムから幾つかのことを想像することが出来た。  まず、木科泰助総理大臣。  あの高級官僚の行きつく先だった。  先の大戦の罪を問われ、A級戦犯となりながら、時流が味方して、最後は総理大臣に上り詰めたあまりにも流転極まりない経歴を持つ男である。若い頃、シナ大陸で麻薬取引により、莫大な戦費を稼ぎだしたことで知られている。反面、アヘン中毒に犯された大陸の住民は何百万とも云われており、彼等からみれば、十回殺しても殺したりないヤツだろう。しかし、自国のことになると、その繁栄、進化のためには、同盟国のやり方を真似たとはいえ、役人としては禁じ手とも思われる様な人種改良にまで踏み込んだ実験は、このシマタイコクをなんとか世界の一流国に押し上げようとする思いに溢れたものであったことは、認めざるを得ないだろう。その為の、優れた白人女性科学者のユーロッパからの連れ出しは、合意の上とはいえ、この男の意欲が並のものでなかったことを物語っている。  もし、この写真の総理の胸に鉛筆の芯でついた跡がなければ、この総理を中心にした写真は、この男を賛美するものたちの集まりととられるだろう。しかし、この男のぺいぺいの官僚時代からの付き合いがある大先輩が突いたものとあっては、ことは、簡単に済みそうもない。意外であると同時に、何を語ろうとするのか目的が見えてこなかった。この総理の写真が難題を突き付けてきたのとは対照的に、山の写真は、おれを小躍りさせるに足るものだった。切り立った絶壁をバックに深い森林の様子を写した写真だった。よく見ると五枚の写真一枚一枚にそれぞれに特徴があった。  のちほど、山の写真をコピーして送って頂いたが、そのお陰で、わしは千厳寺にさして迷うことなくたどり着くことが出来たといってもいい。  大先輩の仰ったこと、明日、後の半分を話そうと云われたことが本当だとすると、わしは、物語の半分しか聞いてないことになる。話は大戦の始まる前夜で終わってしまっている。  後半部分は、自分で探り当てるしかない。この大先輩の話によって、千厳寺探しは単なる寺探しではないらしいことが伝わってきた。  しかも、大先輩の話の様子では、大先輩自身も、高級官僚も、誰も、千厳寺に行ったことがないのだ。大量の物資を運んだ兵隊たちは、指揮官共々激戦の南の島に送られて、みな、戦死してしまったらしいのである。 村人の隠しごと  わしは大先輩の話された言葉を反芻し、頂いた写真を頼りに千厳寺に何とかたどり着くことが出来た。わしのこの村に来た最初の目的は、この村で起こった事件を正確に掘り起し、義兄が手帳に残した事柄をきちんと検証して、亡き妻の思いを遂げることだった。これをきちんとやらないとあの世で妻に合わせる顔がない、そんな思いだったのだ。  当時の千厳寺は既に無人の荒れ寺だった。確かにもう少しマシだったかもしれない。しかし、わしの関心を引いたのはこの寺の境内で行われた戦闘によって、寺の多くの場所にまだ弾丸の跡が残されていたということだ。当時、村に残っていた住民は二三百人程度といわれている。まさに寂れた山村で、僅かな麦畑と、この村の人々の知恵なのだろう、山菜を活用するすべを身に着けていて、それでかろうじて生活を支えていた。寺が無人なのを幸い、わしは、この寺を立て直し、村を活きかえらせるためにきたと、半分本音、半分嘘をついて、この寺に住み着くことが出来た。わしの真の目的は、この村で戦時中、決して遠くない昔だが、どのようなことが起こったか、それを正確に把握して、妻の兄、わしの義兄の足跡をはっきりさせ、その供養をすることにあった。まさか、ここに住み着くことになろうとは思ってもいなかった。そんな思いを持つわしにとって、この弾の跡は、この村の歴史を語り継ぐために、どうしても残すべき大事な遺産だと思った。それで、戦闘を偲ぶことができるようにこの寺を残して行きたいと思った。寺は荒れてボロ寺だが、ここで何があったか見る人が見れば分かると思う。そして、なぜ、ここに弾の跡があるのか、戦時中の出来事を正確につかむ手がかりを求めようとした。村人に聞くしかない。しかし、誰も話そうという者はいない。村人がなんとか胸を開くまで、半年くらいかかった。ある一つの出来事から氷解していった。 ・・・それと同時に、わしは、戦争中にこの村の小学生が書いたという、綴り方、今でいう作文を何通か手に入れることができた。半世紀近く前に書かれたものだ。寺の地下にある書庫を整理していたらみつかったのだ。  これは恐るべき内容の作文だが、このような作文が書かれ、残っていたという、当時のこの村のことを想像すると、吐き気さえ覚える。機会があれば、そのうちそのひとつを読んでもらうことにするが、図らずも、子供の作文がこの村で何があり、どのように収拾されたかを非常に具体的に語っていることが明らかになった。ハンレイにしても、ゴロウにしても未成年のお前たちに見せるような内容ではないことは百も承知だが、ここまで云って、見せないわけにいかないだろう。それには、タイミングというか、正しい時期というものがある。もう少し、時間をくれないか。  ここでは、村人たちと胸を開くことになった話をしておこう。  わしの話の核心部分のひとつだ。  村に高熱がでる病気が発生し、死人が出たのだ。村の人たちは、その病気が発生したことをわしに云わなかった。突然、荒れ寺に入り込んできた、素性のしれない、ただ頭をまるめただけの男を寺の住職と認めることはできなかったのだろう。当たり前の話だ。死人が出て、葬式ということになって、お経のひとつもあげてくれということで、わしのところに来たのだ。数日前まで元気でいた十才の子供なので、わしは不思議に思った。熱が出て、村の伝統的な治療法である薬草を煎じて飲ませたけど、熱が高くなるばかりだったという。なぜ、わしに知らせなかったと両親を責めたが後の祭りだった。しかし、これはわしの云い方が悪く、まさに坊主に知らせることが起こったからわしの所に来たので、両親には何の落ち度もない。ところが、病気は更に広がる気配を見せて、今度は、六十才の老人が高熱を出して死んだのだ。この老人と、先に亡くなった子供とは家も離れているし、普段行き来がないということで病気がうつったということも考えにくい。ところが更に三人目の死人が出た。先日亡くなった十歳の子供の家でまた死人が出た。ところがこの死人のことはわしには知らせずに埋めてしまった。云い忘れたが、三十年前、この村は土葬だった。火葬になったのはそれからあとだ。この三人目の死人のことは、その当時、村の長老だったハタ・サクジロウが、わしを訪ねて来て知らされたのだ。サクジロウはいまの村長のハタ・トシヨの祖父だ。死んでから一週間くらい経ってからだ。  サクジロウは、わしに大事な話がある、村を代表してきたのだが、ぜひ、訪ねたい所があるので一緒に来てくれと云う。云われるまま、先日、高熱を出して死んだ六十才の老人の家を訪ねた。三十年前のこの村は、戦争中の傷跡をまだ大きく残していた。それでなくても農民は貧しく、その日暮らしだった。老人の家はその中でも、ましな方で分限者と云われていた。これは、十才の子供を亡くした家もそうで、今度の高熱病は比較的豊かな二軒で発生したということだ。  豊かといっても、他の家より、この村に根を下ろしてその歴史が長く、家屋敷が少しばかり広いといった程度でたかが知れている。家の敷居をくぐって始めて、サクジロウから病人に会ってくれと云われた。又病人と云われ、さすがのわしも、これはただ事ではないなと身構えるような気持ちになった。奥の間に通されて、わしは床に入っている病人と向き合った。頭に水枕を載せられていたが、既に白いものがある髪の毛をみて、ちょっと違和感を感じた。白い髪の毛に混ざって、金色の髪の毛がちらちら見えるのだ。わしは、髪の毛が変色してしまったのかと思った。ところが、この家の当主の奥さんが病人の顔にかぶっている布団をめくったのだ。瞬間、わしは病気のために顔が変わってしまったのかと思ったほどだ。しかし、すぐに、金髪の女性で、病気で痩せて弱ってはいるが子供の絵本に描かれている魔法使いのおばあさんに似通った、上品な顔立ちの老婆だと分かった。サクジロウは七十才を少し過ぎた方ですという。  長老のハタ・サクジロウは、ここで始めて、わしにこの村の隠された秘密を明かしてくれた。 『この村には、あのようなユーロッパ系のお年寄りの女性が八人おります。いや、先日、一人亡くなりましたので七人です。みな、七十才を過ぎています。実は、先日来の高熱の病気は、この間亡くなった白人の女性が始めてだったのです。同じ家にいた十才の子供にうつって、従来の薬草によるこの村の治療では効能なく亡くなりました。それを追うように、外人の方も亡くなりました。村の動揺を抑えるために、我々村の年寄りが集まって、和尚さんにも内緒で土葬にしました。ところが、同じ症状の病人が別の家でも出て亡くなり、更に外人の方も危険な状態ですので、これは、放っておくととんでもないことになりそうだということで、和尚さんに相談に伺ったわけです』  この千厳寺村には医者はいないという。そもそも病気になる者が少なく、普通の風邪や腹痛などは、山で採れる薬草で殆ど治ってしまう。何百年も続く山で生きる人々の知恵である。最新の治療薬など、名前は聞いたことはあるが、使用されたことはないのではないかとサクジロウは云う。  わしは、千厳寺探しに出るときに、都会から離れるので、万一の時のことを考えて万能薬として、ペニシリンとクロマイを始め、かなりの量の薬を持って出てきたのだ。これは、わしの永年の海外駐在の経験からきている。海外では医者にかかっても治療費は高いし、地域によっては言葉の問題もあって病状を説明しにくい。アフリカに出張で行かされることも度々だったので、自分の躰を守るための薬剤は常に持ち歩いて、病気の症状が出ると自己検診でやってきていたので、勿論、素人だが、薬の使い方はいくらか知っている。  すぐに、ペニシリンで効く症状であることを祈りながら、その外人、サンドラと名乗る女性に飲ませた。薬をほとんど飲んだことがないのだろう、効能はすぐに現われて、二日で平熱に戻り、食べ物も口にするようになった。  わしは長老のハタ・サクジロウから、この千厳寺村には、サンドラのような、西欧系の血脈を持つ女性が八人、いや、一人、先日、高熱病で亡くなったので七人いることを知らされた。  いずれにしろ、わしがこの村に来てそろそろ三月になるのにまだ出会ったことのない外国系と思われる人たちが暮らしていることに驚いた。この国の人間でない女性ばかり八人もこの村にいて戦後も四十年経つのに、自分たちの国に帰ることもせず、この山村で一体何をしているのか。  この答えはすぐに出た。彼女らはみな子供を持ち、孫をもっている。子供といっても殆どが四十才を越えている。子供たちの父親は東洋系の、恐らくシマタイコクの男であることは子供たちの顔を見れば分かる。しかし、その父親たちはこの村にはおらず、誰も会ったことがない。八名の白人の女たちも、自分のパートナーを語ろうとする者は一人もいなかった。子供たちは、男性六名、女性八名、計十四名。そのうち十名が、千厳寺村の男性、或は女性と結婚している。四名は、いわゆるハーフと呼ばれる子供たちだが、彼等同士で結婚している。十二組のカップルがいるが、このすべてのカップルに子供たちがいる。始めの白人の孫たちである。十二組のカップルから生まれた〈孫〉たちは三十名。年は、十才くらいから二十二三才程度である。まだ、生まれてくる可能性もある。  千厳寺村から、更に一キロほど入った森の中に、彼女らの居住区がある。最初、村にやって来たのは白人女性八名と、その子供たち十四名だった。基本的には共同生活だが、望めば戸建て住宅で子供たちと生活することが出来たという。  彼らが村にやってきたのは、病の癒えたサンドラや他の白人たちに聞くと、大戦が始まって二年経った頃で、こども達はみな赤ん坊で、男たちに支えられたとはいえ、たどり着くのに大変な苦労をしたという。驚いたことに、着いた時には、木造の建築の居住区は出来上がっていたという。手馴れた大工ならば、数さえ揃えば一週間程度で出来上がるかもしれない。この国はユーロッパから来た女性科学者に勿論、別荘を提供したわけではない。半年以内に、軍事利用できるロボットを設計しろというものであった。カルイザワに居たときにも、それぞれの分野で研究はやっていたが、子育てが大変で、なかなか仕事に集中できなかったらしい。この、千厳寺周辺に決まったのは、一昨年一個小隊で岩山に運び込んだ、軍需物資にも関係しているらしかった。計画したのは、高級官僚、今は、内閣の一員になっている男に違いなかった。当初、この山奥になぜと思われたが、単純に考えれば、大量の金の生る木が詰まっている軍需物資の護衛の役も務めることにあったかもしれない。絶壁の岩山に入るには、新しく作られた白人居住区の近くを通らねばならず、居住区は計らずして一斗缶の山を守る役割も務めることになったのだ。  ここに移住した女性科学者たちは、戦争ロボットの開発に取り組んだのだ。 『ほんと、あたしたち、夜も寝ないでがんばった。あたしたちや、こどもたちの食料、その他の研究材料も、たくさん、持ち込まれたのよ。でも、完全なものつくるのに半年むり。一年かかって基本設計できたけど、造る材料がたりないっていうの。無人戦争ロボット、一個や二個つくってもダメ。沢山作らないと効果ない。四足無人攻撃ロボット作って、敵陣まで隠れて進んで、自動的に鉄砲撃っても、帰りには、敵に見つかって撃たれる可能性たかい。他にも、重い荷物載せて凸凹道走るロボットなど、いっぱい、試作までいった』  わしとサンドラは、よい、話し相手になった。わしは現役時代、ユーロッパに駐在していて、サンドラの故郷のドイチェはビジネスでよく訪ねたものだ。アウトバーンを二百キロで走ったのも、生まれて始めてのことだった。わしがユーロッパの話を聞かせると、サンドラや他の研究者たちは、涙を流して聞いていた」  この人たちは、戦後、みなシマタイコクの国籍を取得している。一時帰国した人はいたようだが、みな、この国に根を下ろすことを決めているようだ。子供も孫もいるし、特に居住区に立派な研究所が出来て、あの女性たちはみな要職についている。いろいろな研究も実って来て、特に、子供や、中には孫を含めて三代で研究している人もいる。  少し、長くなりすぎたかな。  いま、話した時代から、更に三十年経った。居住区の初代の研究者たち、サンドラを始め八人でこの国に渡って来た人たちは、すべて冥界に旅立った。しかし、この人たちは、千厳寺村のミイラとは別に、研究室に、すべてミイラとして保管されている。もう少し、人工知能の研究が進むと、このミイラとして保管されている方たちも、現役として迎えられる日がくるかもしれない。そうすると、千厳寺村の研究室はすごいことになるかもしれんな」
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