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心は窓辺の花のように萎れ切っていた。
通勤電車に乗り込む前からホームは人で一杯だった。社会人になりたてのころは電車内で見ず知らずの人間と密着するたびにいちいち苛立っていたが、いまではもう何も思わなくなっていた。
いつのまにか日々は惰性で繰り返されていた。
目覚ましに起こされ、自分の気持ちとだるい身体を無視して無感情で家を出る。
開いた電車の扉から、詰め込まれていた人々が吐き出されて行く。
許されるならまだ寝ていたい。家でだらだらしていたい。会社にも学校にもバイトにも好きで行っているわけじゃない。
そのはずなのに私を含めた人ごみの足は、泥にこびりつかれたような重たい動きであっても、改札へ向かう階段へと自分から向かっていくのだった。
誰もが一様に黙り込んでいる。
互いの肩が触れるような距離で大勢がいるのにも関わらず、靴音だけがぞろぞろと響いていた。肩が当たっても謝らない。周囲にカバンをぶつけながら若い男性が押しのけるように駆け上って行く。
こもった空気でシャツが背中にじっとりと貼りつく。埃と排気、香水や整髪料、体臭と汗がまじりあった何とも言えない匂いに、年配の女性はハンカチで鼻を覆っていた。
一日の始まりは灰色だった。
学生の夏服も女性の花柄のワンピースも、気だるさが色合いをくすませる。
どろどろと灰色がかった人々は見えないなにかに背中を押されて階段を昇る。
そして自分も、知り合いでもなんでもない、興味すら持てない他人に埋もれながら進んで行く。
目の前に突然。
黄色い球体が現れた。
人々の足を縫うように転がり落ちて来て、それは段差でポンと跳ねた。
私は思わず手を伸ばした。
背中を丸めて両手を前に差し出すと、あざやかな黄色が飛び込んで来た。
拳よりも少し大きな丸い塊でずしりとした重みがある。表面はわずかに凹凸していた。鼻先をくすぐるほのかな柑橘の香り。
果物のオレンジである。
灰色の世界に飛び込んで来た鮮明な黄色の果実をしばらく見つめていた。
いくつものオレンジが階段を転がり落ちて来る。
むっつりと惰性の奴隷になっていた人々が立ち止まる。彼らの足元を黄色の球体が遊ぶように飛び跳ねながら転がって行く。
大きな身体の中年の男性が身を屈めた。腹の贅肉をつっかえさせながらも、野球の外野手を思わせる動きでオレンジを受け止めた。
その後ろではランドセルを背負った男の子が飛んできた果物をキャッチした。となりのスーツ姿の女性に見せて、ともに笑顔を浮かべ合っている。
灰色に塗りつぶされた世界のあちこちに、黄色とほかの色が宿り始めた。
真新しいリクルートスーツを着た若い女性がオレンジを拾い上げる。疲れの滲んだ横顔が、その色彩に見とれるように目の高さに掲げて眺めている。
優しい手つきで砂埃を払い落としている、その口元にほのかな笑みが浮かんでいた。
階段の下のほうから明るい笑い声が聞こえて来る。
夏用のセーラー服を着た三人の少女たちが、それぞれにオレンジを手にしていた。
「オレンジ転がって来た!」
「なんで? もしかして電車に乗りたかった?」
「でももう行っちゃったよー」
くすくすと笑いあっている。
彼女たちの笑顔は、幼いころに海水浴場で見上げた夏の青空のようにまぶしく、澄んでいた。
階段のいたるところから笑う声や身体の強張りを解くような息づかいが聞こえて来る。
「あ、あの、大丈夫ですか、お怪我はないですか」
登り口からためらいがちな女性の声が投げかけられた。
彼女のそばで荷台が横転している。横倒しになった段ボールから飛び出したオレンジが階段を下って来たのだった。
人々はそれが日課であるかのように彼女のまえに行き、段ボールへとオレンジを戻していく。ひとりひとりに頭を下げる女性に声を荒げる者はひとりもいなかった。
一様に穏やかな表情で、壊れ物をあつかうように丁寧に箱に納めていく。
「駆け込み乗車は危ないんだぞっ」
三人組の女学生がそういいながら無邪気に笑う。
誰も彼も改札を潜る足取りが軽くなっている。
駅舎から出ると刺すような陽射しに照らされる。汗腺から汗が溢れだす。十歩も歩かないうちに額や鼻にしずくが出来た。シャツが身体に貼りついて来る。
街路樹ではセミががなるように鳴いている。陽に照らされた濃緑がきらきらと輝いていた。木の下に出来た日陰では散歩中の柴犬が舌をだして、そばの飼い主を見上げている。
久しぶりに見上げた夏の空はやはり青かった。
身体の隅々まで巣を張っていた灰色の気分などすべて吸い込まれて行きそうだった。
ときおり吹き抜ける風が心地よい。
仕事帰りにスーパーに寄ってオレンジを買おう。
ささやかながらそんな楽しみを胸に大きく踏み出した。
了.
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