恋する士英館高校

51/89

52人が本棚に入れています
本棚に追加
/92ページ
「こら、奏士。ここは学校です。そのことを忘れてはいないかい? 」 不意に頭を小突かれて後ろを振り返ると、綾ちゃんが呆れ顔で立っていた。 「綾ちゃん、邪魔しないでくれる? 」 「奏士が彼女ちゃんを困らせてるから救出に来ただけです。人聞きの悪いこと言わないで」 「別に救出する必要ないですから。ね、桃ちゃん? 」 腕の中にいる桃ちゃんに同意を求めると、ふいと目を逸らされてしまった。 「桃ちゃん? 」 「私、部活の準備があるのでもう行きますね」 僕の腕をすり抜けるように、桃ちゃんが廊下を走って行く。 前に「こう見えて運動神経は良いんです」って言っていた通り、小さな見た目には不釣り合いなくらい足が速い。 意外な特技に驚きながらも、僕は慌てて桃ちゃんを追いかける。 「桃ちゃん‼︎ 」 放課後の廊下は混雑している。友達と話し込んでる人、帰宅しようと玄関を目指す人、部室へと向かう人。 小回りがきく桃ちゃんは人の波を上手にかき分けて、どんどん先へと走って行く。 僕の声が聞こえているのかは分からない。いや、たぶん聞こえているとは思うんだけど……。 「桃ちゃんっ。待ってよ」 どうしてこんなことになったんだっけ。 確か、ほんの数分前まで、僕は幸せの絶頂にいたはずなのに。どうして桃ちゃんは僕から逃げる様に走って行くんだろう。 「先輩のこと下の名前で呼んでも良いですか? 」 不意に、桃ちゃんの言葉が頭の中に響いた。 そもそも、どうして桃ちゃんは僕にそんなことを言ったんだろう。どうして、下の名前で呼んでも良いかなんて聞いたんだろう。 「奏士っ」 不意に名前を呼ばれて、僕は廊下の真ん中で立ち止まった。 「……綾ちゃん」 「もうっ。カバン忘れてるよ? 置きっ放しにしちゃダメじゃん」 「ありがとう」 綾ちゃんが僕のカバンを差し出しながら、辺りを見渡している。探しているのは桃ちゃんのことだろう。 「桃ちゃんなら見失っちゃったよ」 「何で? あんた、そんなに足遅かったっけ? 」 綾ちゃんが驚いた様子で僕を見ている。やだな、そんな目で見ないでよ。今、1番驚いているのは僕なんだから。 足が遅いなんて、今まで1度も思ったことがなかった。 小学校では6年間ずっとリレーの選手だったし、中学の陸上競技大会でも割と良い成績を残してきた。 まさか桃ちゃんに追いつけないなんて……。 「とりあえず、部活に行けば? 」 「そうだね。集合に遅れたら土方先生がうるさいし……あ、綾ちゃんも一緒に行こうよ。顔出してくれたらみんなも喜ぶよ」 「行くわけないじゃん」 「いいじゃん。せっかく道場の傍まできたんだし。はい、行こう行こうっ」 「ちょっと、奏士? 」 「大丈夫、大丈夫。早くしないと遅れちゃうよ」 僕は綾ちゃんの背中を押しながら、校舎と部室棟をつなぐ連絡通路を早足で歩いて行く。 部室の前を通り過ぎて、道場に綾ちゃんを送り届けると、やっと綾ちゃんが諦めてくれた。 「ちょっと見学するだけだからねっ。すぐ帰るからねっ」 「はいはい。それで良いよ。じゃ、僕は着替えてくるね」 綾ちゃんは素っ気ない態度で道場の端に向かって歩いて行く。その姿に、綾ちゃんのことを知ってる部員が、少しだけソワソワしている。 きっとあの人も、いつも通りって訳にはいかないんだろうな。僕はあの人の少し困惑した顔を想像してクスリと笑った。 きっと全てが良い方向に進んで行く。そう思っていた。 だけど、僕の行動は実に軽率だった。 桃ちゃんを傷つけて、泣かせてしまうことになるなんて……。この時の僕は少しも考えていなかったんだ。
/92ページ

最初のコメントを投稿しよう!

52人が本棚に入れています
本棚に追加