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「こら、奏士。ここは学校です。そのことを忘れてはいないかい? 」
不意に頭を小突かれて後ろを振り返ると、綾ちゃんが呆れ顔で立っていた。
「綾ちゃん、邪魔しないでくれる? 」
「奏士が彼女ちゃんを困らせてるから救出に来ただけです。人聞きの悪いこと言わないで」
「別に救出する必要ないですから。ね、桃ちゃん? 」
腕の中にいる桃ちゃんに同意を求めると、ふいと目を逸らされてしまった。
「桃ちゃん? 」
「私、部活の準備があるのでもう行きますね」
僕の腕をすり抜けるように、桃ちゃんが廊下を走って行く。
前に「こう見えて運動神経は良いんです」って言っていた通り、小さな見た目には不釣り合いなくらい足が速い。
意外な特技に驚きながらも、僕は慌てて桃ちゃんを追いかける。
「桃ちゃん‼︎ 」
放課後の廊下は混雑している。友達と話し込んでる人、帰宅しようと玄関を目指す人、部室へと向かう人。
小回りがきく桃ちゃんは人の波を上手にかき分けて、どんどん先へと走って行く。
僕の声が聞こえているのかは分からない。いや、たぶん聞こえているとは思うんだけど……。
「桃ちゃんっ。待ってよ」
どうしてこんなことになったんだっけ。
確か、ほんの数分前まで、僕は幸せの絶頂にいたはずなのに。どうして桃ちゃんは僕から逃げる様に走って行くんだろう。
「先輩のこと下の名前で呼んでも良いですか? 」
不意に、桃ちゃんの言葉が頭の中に響いた。
そもそも、どうして桃ちゃんは僕にそんなことを言ったんだろう。どうして、下の名前で呼んでも良いかなんて聞いたんだろう。
「奏士っ」
不意に名前を呼ばれて、僕は廊下の真ん中で立ち止まった。
「……綾ちゃん」
「もうっ。カバン忘れてるよ? 置きっ放しにしちゃダメじゃん」
「ありがとう」
綾ちゃんが僕のカバンを差し出しながら、辺りを見渡している。探しているのは桃ちゃんのことだろう。
「桃ちゃんなら見失っちゃったよ」
「何で? あんた、そんなに足遅かったっけ? 」
綾ちゃんが驚いた様子で僕を見ている。やだな、そんな目で見ないでよ。今、1番驚いているのは僕なんだから。
足が遅いなんて、今まで1度も思ったことがなかった。
小学校では6年間ずっとリレーの選手だったし、中学の陸上競技大会でも割と良い成績を残してきた。
まさか桃ちゃんに追いつけないなんて……。
「とりあえず、部活に行けば? 」
「そうだね。集合に遅れたら土方先生がうるさいし……あ、綾ちゃんも一緒に行こうよ。顔出してくれたらみんなも喜ぶよ」
「行くわけないじゃん」
「いいじゃん。せっかく道場の傍まできたんだし。はい、行こう行こうっ」
「ちょっと、奏士? 」
「大丈夫、大丈夫。早くしないと遅れちゃうよ」
僕は綾ちゃんの背中を押しながら、校舎と部室棟をつなぐ連絡通路を早足で歩いて行く。
部室の前を通り過ぎて、道場に綾ちゃんを送り届けると、やっと綾ちゃんが諦めてくれた。
「ちょっと見学するだけだからねっ。すぐ帰るからねっ」
「はいはい。それで良いよ。じゃ、僕は着替えてくるね」
綾ちゃんは素っ気ない態度で道場の端に向かって歩いて行く。その姿に、綾ちゃんのことを知ってる部員が、少しだけソワソワしている。
きっとあの人も、いつも通りって訳にはいかないんだろうな。僕はあの人の少し困惑した顔を想像してクスリと笑った。
きっと全てが良い方向に進んで行く。そう思っていた。
だけど、僕の行動は実に軽率だった。
桃ちゃんを傷つけて、泣かせてしまうことになるなんて……。この時の僕は少しも考えていなかったんだ。
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