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帰りのホームルームはとっくに終わってしまったようだ。
担任の先生が何を話していたのかはさっぱり分からない。きっと、きちんと聞いていたとしても、今の私にはそんなに重要なことではないと思う。……たぶん。
机に頬杖をついて教室の窓の向こうを流れる雲を見つめる。
あぁ、いい天気。こんな日はどこかに行きたくなっちゃうよね。私がそう言えば、あの人はきっと「海が見たいな」って言うんだろう。
いつか連れて行ってくれる? そんな私のお願いに、もちろんだと答えたあの人の横顔を、私は今でも忘れられないでいる。
覚えていたって無意味だって分かってる。あの約束は叶うことはないのだから……。
胸の奥がキュッと痛くて、鼻の奥がツンとした。
「あーやーちゃーん」
奏士の声が聞こえた気がしたけれど、私は微動だにせず雲を見続ける。
奏士が甘ったるい声で話しかけてくる時は、ロクなことがない。無視、無視。
「ちょっと綾ちゃん、絶対聞こえてるでしょ」
隣の席に座った奏士が、私の顔の前で手のひらを左右に揺らす。とてつもなく鬱陶しくて、思わずため息が出た。
「はぁ……。聞こえてるよ。何か用? 」
「天気もいいしさ、部活行こうよ」
は? こいつは何言っちゃってるんだ。
どうして天気が良いからって、部活に出なきゃいけないのかな?
そもそも剣道部ってめちゃくちゃインドアだから、基本的に天気の影響は受けない。
よって、奏士の言っていることは理解不能。
「天気が良いからこそ行きたくないんだけど?
それに、桃ちゃんにはあー言ったけど……もう少し時間が欲しいんだよね。部員たちにも迷惑かけてるのは申し訳ないって思ってる。
いつかこの借りは返すから。本当にごめん」
「そう思ってるなら、尚更のこと行こう‼︎ 」
「は? 」
予想外の言葉に目を瞬かせている私のことなど御構い無しで、奏士が勢いよく立ち上がる。
「案ずるより産むが易しって言うじゃない。大久保先生の授業でもやってたでしょ?
案じてたって何も変わらないんだったら、もういっそのこと産んじゃおうよ」
「産むって何を? 」
「さぁ。僕にはよく分かんないな。明日、大久保先生に聞いてみようっと」
奏士に腕を掴まれながら引きずられるように廊下を歩く。ヘラヘラしてるその横っ面に今すぐ強烈なパンチをお見舞いしたい。そう思っていた。
「奏士‼︎ ちょっと、本当に無理だから。私、まだ」
「分かってるよ」
「は?何が? 」
奏士がくるりと振り返り、両手の指で器用にハートマークを作り上げた。
「まだ、あの人のことが好きなんでしょ? 」
小首を傾げている奏士に、私は小さく頷いてみせる。そう。まだ、好き……好きなの。
だから、まだ部活には出られない。あの人の傍で何もなかったみたいには笑えない。
何もなかったみたいに、笑顔を向けられるのは辛いんだよ……。
「分かってるなら無理強いしないで。部活に個人的な問題を持ち込むのは良くないことだとは思ってる。でも……辛いの」
黙って話を聞いていた奏士が、私の肩をぽんと叩く。その表情は実に晴れやかだ。
ただ微笑むだけで大体の女の子を虜にしてしまう女たらし。自由奔放で、尚且ついつまでもガキっぽい奴だけど……他人の気持ちを推し量ることの出来る心の優しい奴だ。
正直に話せばきっと思い止まってくれるって信じてた。
「分かってくれた? 」
「何が? 」
「………………は? 」
今、何が? って言った? ねぇ、言った?
奏士は相変わらずきょとんとした顔をしている。おい、私の話ちゃんと聞いてたのかな?
「よく分かんないけど……兎に角、行こう。急がないと部活始まっちゃうよ」
いや、間違いなく聞いてなかったわ……。
当たり前のように私の腕を掴んで走り出した奏士に、ありったけの力で抵抗する。
「だーかーらー、無理だって言ってるじゃん‼︎ 」
「いいから、いいから。大丈夫だから」
「大丈夫じゃないってば‼︎ そもそも何を根拠に大丈夫なんだよ、このやろーーー‼︎ 」
私は奏士のペースから抜け出せないまま廊下を引きずられるように走り——結局、部活に参加することになった。
いや、参加させられることになった。……最悪。
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