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「格好悪くたっていいと思う。私はお兄ちゃんの格好悪いところも見てみたいな」
呼ばれなれない、お兄ちゃんという単語が妙にくすぐったい。
「格好悪いところなんて見せたくねえよ」
見せようと思えば山ほどあるけどな。そう呟いて自嘲気味に笑った俺に、桃が小首を傾げる。
「例えばどんなこと? 」
不意に頭に浮かんだ綾の笑顔がチクリと胸を刺した。
あまりの痛さに鼻の奥がツンとした。
「素直になれないところ。ですよね? 」
岡田はそう言ってニヤリと笑うと、ホイッスルを小気味好く鳴らした。
「終了です。小休憩入ります」
岡田の声に、部員たちが次々と倒れるように座り込む。ほとんどの部員が汗だくで、更には肩で息をしている。
桃の手に握られたストップウォッチは、予定していた時間を遥かに過ぎていた。
俺は本当に教師失格だな……。
「あ……ごめんね、陸。私の仕事なのに……」
「大丈夫だ。お前は悪くない」
岡田はしょんぼりしている桃の頭を撫でながら、悪いのはお前だというように俺のことを見据えている。
間違いない。悪いのは俺だ。
「悪かった」
そう言って頭を下げた俺の耳元で、岡田が小さく呟く。
「謝るなら俺じゃなくて綾先輩に謝ってください」
弾かれるように頭を上げた俺を見て、岡田がクスリと笑い声を上げた。
「素直にならないと後悔しますよ? 俺に取られても構わないのなら話は別ですけど……そうじゃないですよね? 先生」
非常階段でタバコを吸っていた時——不意に視界に入ったのは岡田と綾の姿だった。
岡田は綾の肩を抱いていた。そこから先、2人がどうしたのかは分からない……。
間違いなく、あの時の俺は動揺していた。分かっているのはそれだけだ。
「俺にどうしろって言うんだよ……」
「素直になればいいだけの話ですよ。な、桃」
突然話を振られた桃が、意味も分からずコクリと頷いた。
「よく分からないけど……陸がそう言うなら、そうすべきなんだと思う。陸って剣道だけじゃなくて、他にも沢山凄いところがあるの」
「そんな根拠のない話を信じられるか」
「根拠はあるよ‼︎ 陸は本当に凄いの。私が悶々と悩んでることとか、すぐに解決しちゃうの。凄いの‼︎
だから、陸が言うなら素直になった方がいいよ‼︎ 」
熱心に岡田の凄さについて語っている桃の頭を撫でながら「分かった、分かった」と言って嗜める。
桃はなんだか納得のいかない顔をしているが、これ以上その話は聞きたくないんだよ。
こう、全身がもやっとする感覚はなんなんだろうな。
「素直が1番だよね、陸? 」
「あぁ、そうだな」
すっかり岡田信者になってしまった桃は放っておこう。
どいつもこつも、素直、素直、素直。
素直になれと言われて簡単に素直になれるのなら誰も苦労したりしない。
世の中には素直な感情だけでは通用しないこともある。
時には自分を偽り、自分の属している場所のルールに従うこともしなければいけない。
世の中には沢山のルールがある。それを破ったところで、メリットなど有りはしないんだ。
世間の冷たい目にさらされて、嫌ってほどに戒められるだけだ。
全く、オトナってやつになるのはなかなかに厄介だな。
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