恋する士英館高校

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陸も沖田先輩も何も言わない。息苦しいほどの沈黙。 ずっと無言で見つめ合っている2人を前に、ただただオロオロしている私の耳に、聞き覚えのある声が届いたのはそんな時だった。 「あ、資料室ってここか。え、初めて入るかも。資料って何の資料が置いてあるわけ? あ、桃ちゃん見つけたー♡ 今日も可愛いね♡ 掃除は捗ってる? 」 「綾先輩っ」 ドアから顔を覗かせた綾先輩の姿に、私はホッと胸をなでおろした。 綾先輩ならきっとこの空気を変えられるはずっ。救世主が現れましたよ、皆さんっ‼︎ 「奏士なんて全然役に立たないだろうから、お前も行って様子見て来いって先生に言われちゃって。えへ。 先生にそう言われたら断れないじゃん? だから、私も手伝うよ。え、ちょっと待って。なんかこの教室空気悪くない? 」 「あ、ありがとうございます。後、こっちの棚を片付けるだけなんですけど……ちょっと、ハプニングがありまして、今、中断しているんです。空気が悪いのはそのせいかもしれませんね、あはは」 私の視線を辿るように、綾先輩が沖田先輩と陸を見つめる。 「なにやってんのあんたたち。奏士、雑巾持ってるなら早くそこ拭いてよ。岡田君は棚からファイル全部出してね。 さっさと、終わらせて部活に戻るよ。早く戻らないと、私があんたたちに上手く指示出しできなかったって先生に思われちゃうから、各自テキパキ動いてよね。 あ、桃ちゃんはそこに座ってていいよ♡ しっかし、あーもー、なにこの教室。空気悪っ。窓開ーけよっと」 開け放たれた窓から勢いよく吹き込んだ風が、教室内の空気をあっという間に浄化してくれる。 あんなに埃っぽかったのに、今では清々しいくらいだ。 はぁ、やっと息がしやすくなった。空気の流れって大切なんだね。うん、いい風入ってる。気持ちいいっ。 そんなことを考えていられたのはほんの一瞬のことで——数秒後の私たちといえば、4人揃って窓の下を呆然と眺めるばかりだった……。 そう。ここは資料室。 棚の上に乱雑に積まれた書類ファイル。 そして、そのファイルに綴じられていないまま長テーブルの上に置かれているたくさんの書類たち。 棚の上に乗せられた段ボールの中身も、同じようなものだ。 とにかく、この教室には書かれている内容はそれぞれ違えど、書類という物体が山のようにあるのだ。 そう。その書類のほとんどが吹き込んだ風に巻き上げられ、教室内を踊るように舞った後——青空に誘われるように窓の外へと飛んでいった。 「あーぁ。窓なんか開けたの誰? こうなること予想できたよね」 「だって、空気悪かったんだもん。まさか、こんなに風が入ってくるなんて思わなかったし」 「こうして上から見ていると結構な量が落ちていったんですね。全部必要なプリントなのかな……」 「乱雑に積まれていたからそれほど必要だとは思えないけど……このまま放置するわけにはいかないよな。あれ、全部集めるのか……終わりが見えないな」 4人並んで窓の下を眺めているとなんだか笑いが込み上げてきた。 他人事みたいに涼しい顔をしている沖田先輩。 思っていたよりも深刻な事態に肩を落としている綾先輩。 淡々と状況を確認している陸。 この状況……なんだか面白い。 「あはは」 ついつい笑い声を上げてしまった私の顔を、隣にいる沖田先輩が不思議そうに見ている。 「えー? 桃ちゃん、今って笑うところ? 」 「ごめんなさい。なんだか可笑しくて。あはは」 私たちは資料室を片付けるのが仕事だったはずなのに、気づけば片付けるはずの沢山の資料はグラウンドのあちらこちらに散らばり、はたまた空を漂っているものもある。 生活指導の大久保先生に見つかったら「これは一体どういうことだ。お前たちは片付けをしていたんじゃないのか? なんだこの有様は」って、きっとすっごく怒られてしまうだろう。 それなのに、どういうわけか、私は可笑しくて笑いが止まらなかった。 「確かに笑うところじゃないけど……もう、こうなったら笑うしかないって感じしない? 見てよ、あれを全部拾い集めるんだよ。もう、笑おう。桃ちゃんみたいに笑おう」 綾先輩がニッと口角を上げて見せると「いや、笑えないですから」と陸が小さく息を吐いた。 窓から飛んでいった書類たちは、気持ち良さそうにゆらゆらと舞い踊っている。 グラウンドを白く染めているその姿は、季節外れの雪みたいだ。 見かねた野球部の部員たちが「なんだよこれ。どこから飛んできたんだ」なんて言いながら、私たちの代わりに書類を拾い集めてくれている。 「早く拾わないと飛んでいっちゃいますね。野球部のみなさんにも多大なる迷惑をかけています」 「頑張れ野球部ー‼︎ 全部拾ったら資料室まで届けてねー‼︎ 」 窓の下に向けて手を振っている沖田先輩の肩をぽんと叩いた陸が「いや、拾うのは先輩ですから」と言って教室を出て行く。 「私たちも行きますか。よしっ、いっそげー」 綾先輩の声に私と沖田先輩も弾かれるように教室のドアをくぐり廊下を走る。 この時の私たちはとても焦っていた。 そのせいで、重大な事実に気がついていなかったのです。 このお話は後ほど……。 「まったく、いつになったら掃除終わるんだよ。残ってるのは後ろの棚だけだと思ってたのに、終わりが見えなくなった」 「だからごめんってば。あ、そうだ。これもトレーニングだと思えばいいじゃない。 資料室からグラウンドまでって結構距離あるし、ひらひら飛んでる紙を拾うのだって瞬発力と集中力が必要だよ。それに、あの量だからね。持久力も大切♡ 」 綾先輩の言葉に「もっともらしいこと言ってもダメです」と言って陸が笑った。 「よーしっ。こうなったらグラウンドまで競争だ。岡田には負けないからねっ」 「ふっ。断然、俺の方が足速いんで、そんなこと言っていられるのも今のうちですよ、せ、ん、ぱ、い」 「はぁ? その言葉、そっくりそのまま返すよ。岡田には絶対負けたくないんだよね、僕」 「俺も同じ意見です」 「ふーん。気があうね、僕たち」 沖田先輩と陸はバチバチと火花を散らしたかと思うと、猛スピードで廊下を走って行った。 あっという間に小さくなっていく2人の後ろ姿を見つめながら、私は驚きのあまり目を瞬かせた。 「え、ちょっと、早すぎだよー‼︎ 全然追いつける気がしないっ」 「あははっ。なにあの2人。これから部活なのに体力使い切るつもりなのかな。本当バカだね」 玄関にたどり着いた時——私たちは特別、何が可笑しい訳でもないのに、お腹を抱えてずっと笑い続けていた。 誰もいない放課後の教室。 ひんやりと静まり返った廊下。 窓の外に広がる真っ青な空の色。 そして、私を包むあたたかな笑い声。 そのどれもが、何かとても特別なものの様な気がして、私は遠い未来に思いを馳せた。 「はぁ、もうやだ。笑いすぎてお腹痛い」 「俺も。でも、休んでる暇ないですよ先輩」 「そうだね。拾いますか」 「拾いましょう」 陸が綾先輩の背中を押しながら歩いて行く背中を見つめていると「桃ちゃん。僕たちも行こうか」と、沖田先輩が言った。 差し出された手を握り返した時、心の中がふわりとあたたかくなった気がして、私は思わず口角を上げた。 「沖田先輩は足が速いですね。なんか……ごめんなさい」 「ん? どうして謝るの? 」 「私、早く走れなくて……」 「あはは、そんなこと? さっきのは岡田と競り合ってたから本気出しちゃった。でも、普段はあんなに本気で走ることなんてないから大丈夫だよ。それに、桃ちゃんは充分、足が速いと思うよ? 」 「そうでしょうか」 「うん、速いよ。立派、立派。 あ、でもさ。桃ちゃんが速く走れないなら、僕は桃ちゃんに合わせて走るよ。桃ちゃんが疲れて歩く時は僕も一緒に歩く。 だって、僕はいつだって桃ちゃんの隣にいたいんだ。 桃ちゃんを置いて行くことは絶対にしない。こうやって、手を繋いで……ずっと、ずっと、一緒に歩いて行こうね。約束だよ」 沖田先輩の柔らかな笑顔に、私の胸がキュンと甘く音を立てる。 絡めた指から伝わる体温。 私を優しく見つめる瞳。 私の名前を呼ぶ声。 そのどれもが、私の頬をピンク色に染め、いつもよりも鼓動を早くさせる。 「沖田先輩」 「なあに」 「……やっぱりなんでもないです」 「えー、気になるな」 「気にしないでください。ね? 」 納得がいかないって顔をしている沖田先輩から目を逸らして、私は小さく息を吐く。 あぶない、あぶない。 なんだか気持ちが盛り上がりすぎて、沖田先輩を好きって気持ちが爆発しそうだった。 沖田先輩、好きです。って言いたかったけど、今のタイミングで言うのはおかしいよね。あは。 そうだよ。今は資料室から飛んで行った書類を集めるのが先だよね。 「ねぇ、桃ちゃん。あれを全部拾い集めるの? 僕、もう、やる気なくなった」 沖田先輩の言葉にグラウンドに視線を移す。あぁ……上から見ていたいたよりも、量が多く見えるのはどうして? 「桃ちゃんと奏士も早くーっ‼︎ 」 綾先輩が遠くから手を振っている。 「今、行きまーすっ。あ、沖田先輩、逃げようとしてもダメですよ。さぁ、行きましょうっ」 「仕方ないやるか。よーしっ。さっさと終わらせるぞー‼︎ 」
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