8.7℃

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     *     ***      *  もつれ合いながら玄関に飛び込み、乱れた呼吸を繰り返す小さな唇を塞ぐ。  ときおり互いの髪から滴り落ちる、体温近くまで温度を上げた雨の雫――その感触にさえ煽られる。  無防備な首筋に吸いつくと、切羽詰まったような声が傍から鼓膜を叩いた。甘い声に煽られては、相手の肌へ赤い痕をひとつ、またひとつと刻みつけていく。  数年前、この部屋で何度も唇を重ねた記憶が、つい昨日のことのように蘇る。  フォーマルドレスの薄い生地越し、柔らかな大腿に、不意にズボンの内側のそれがぶつかってしまった。普通とは異なる感触に気づいたのか、君は肩を震わせ息を呑む。  薄暗い玄関、微かに開いた唇と唇の隙間で、ふたり分の吐息が溶け合う。緊張の滲む面持ちのまま固まってしまった君の、あの頃よりも長くなった髪を指先で撫でつけ、俺は宥めるように口を開いた。 「今日は、しない。持ってないから」  声は派手に震えたが、きちんと言えただけでも上出来だ。  今も昔もがっつくしか能のないサルにしては。  話が理解できなかったとばかりぽかんとした君は、一拍置いてから俺の言葉の意味を理解したらしく、恥ずかしそうに顔を俯けた。 「……あの日はあったのに?」  遠慮がちではあるが、なじるような声だった。  その口調の理由に気づくまで、無駄に時間がかかる。  ……なにを言っている。あれは君のために用意していた物なのに。  まさかそんなことまで誤解しているとでも、と歯噛みしたい気分になる。君のせいではない。すべては、言葉にして伝えようとしなかった俺自身のせいでしかない。  口を開いて、本当の気持ちを伝える。  こんなにも簡単だったはずなのに、どうしてあの日の俺はそれを避けてしまったんだろう。 「あのときのは、いつ神谷とそうなってもいいように買い置きしてたやつだよ」 「……は?」 「神谷がうちに来るたびそんなことばっかり考えてた。してるとき、神谷ってどんな顔すんのかな、どんな声出すのかなって……馬鹿みたいだろ」  頬が、さらに赤く染まっていくさまを見て取った。  唇を耳の傍へ動かし、ほとんどそこへ触れた状態で続ける。 「残りはあの後すぐ捨てた。もう会ってもらえないと思ったから、……使いもしないのに取っておいたって虚しいだけだろ。神谷しか抱きたくないのに」  答えを聞くよりも前に、赤い頬へ吸いついた。途端に「う」とも「あ」ともつかない声をあげた君は、震える腕をゆっくりと俺の背中に巻きつけてくる。  この調子では、まだいろいろ誤解しているのかもしれない。  あの頃、この部屋以外の場所でふたりきりになるのを避けていたことも。  今までみたいに会えなくなっちゃうね、と言われたときになにも返せなかったことも。  それから、本心を口にしないまま抱き締めたりキスしたりしていたことも。  唇が微かに離れ、君の小さな唇が動く。  掠れた声で告げられた言葉が耳に届いた瞬間、頭の中を渦巻いていた思考は、今度こそ全部どろどろに溶け落ちていく。  俺たちと同じ制服を着た連中に、ふたりで一緒にいるところを見られたくなかった。  悪い噂に、君まで巻き込んでしまうと思ったから。  もう会えない、と笑って言うから泣きそうな気分になった。  もうここには来ないという意味なのだと思ったから。  気持ちを伝えたらどうなるのかなんて、考えたくもなかった。  今までのように会ってもらえなくなるかもしれない、そんな恐怖が常に頭の中にのさばっていたから。  今からでもすべて打ち明けてしまいたくなる。  たまたまこの街に帰ってきていた君、たまたまぼんやり窓の外を眺めていた俺――こんな奇跡は、自分の元にはこの先一生訪れやしないだろうから。  逃げられないように、両腕で小さな頭を囲う。  再開した口づけに翻弄され、君は小さく身じろぎをしながら、すぐさま息を乱していく。  首筋から漂う甘い香りに初夏の雨の匂いが混ざり、くらりと眩暈がした。 〈了〉
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