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メヒシバが描く分布曲線上の私たち
車道の脇、引かれた白線の内側を私は歩いていた。申し訳程度に設けられたこの領域は、まるで社会における”私たち”の陣地のようだ。
そんな私の横を軽自動車がさっそうと通り過ぎてゆく。車内は涼しいだろうか。ひび割れたコンクリートの照り返しに目を細め、じんわりとかいた汗をハンカチでぬぐいながら、それでも真夏の日差しと比べれば幾分ましになったものだと、徒歩の自分を励ました。
歩道はただでさえ狭いというのに、生い茂る雑草がせり出していた。細長く、ただししっかりとした茎の先端に、いくつにも枝分かれした花序が突き出している。この小さなススキに似た植物はメヒシバという。
まだ高校生だったあの日――生物の授業で「メヒシバ花序に関する分布曲線」という課題を出された私は、メヒシバを百本抜いた。何のためかと言ったら、課題名のとおりで花序の分布曲線を作るためだ。メヒシバの花序というのは、個体によって枝分かれの本数が異なるのだそうで、だいたいが三本から八本あった。
その課題は生物教師のお気に入りのようで、毎年同じものが出されていたから、ずるをする子などは先輩から借りたレポートを写し提出していた。中でも悪賢い者は丸写しを避け、念のためにそれらしく、わずかの手を加えることを忘れなかった。
私はずるをしなかった。馬鹿正直に百本抜いて調べた。不思議なことに――これを自然の摂理というのか――曲線は左右対称な釣鐘状となり、きれいな正規分布を描いた。それはずるをした子のレポートとほとんど同じ結果ではあったが、この感動は対価としての努力を払った者にしか分かるまいと、当時の私は誇らしく思ったものだ。
しかし――実際のところ社会に求められるのは、私のような実直な人間なのだろうかと、最近は疑問に思う。往々にして、万事に少しのずるを加え、要領よく物事を進める者のほうがもてはやされるように思う。
(そうだとしたら――何と報われない社会だろう。私にとっても、”あの子”にとっても――)
残暑の風にそよぐメヒシバを見て、私は思った。
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