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悲しみの涙は炎に焚べる(一)
「ハツネ、庭の桜は手折ってはだめよ」
空の薪置きを見やった私に母が言った。
同時に吐き出された白い息はすぐに霞んで空へと消える。ベッドに横たわる母は、もう半身を起こすこともできないようだった。
「でも……、あれを薪にしないと火が……」
暖炉にか細く残る火を見やる。室内を吹き抜ける隙間風に揺られ、今にも消えそうだった。母の命と同じように。
「それでもだめ。あれは春を告げる樹だもの」
先月に肺病になってから一層老け込んだ母の顔。
かつて黒漆のようだった髪は白いものが多くなり、毛は細く痩せて、櫛を通せば抜けてしまいそう。皹のように刻まれた皺は数を増すばかりで、白く乾いた肌の質感は木皮によく似ていた。
しかしそれでも、柔らかに、優しく、温かく、微笑む。
「今にお父さんが”冬の王”を倒して、そしてきっとあの桜が咲くもの。 桜が、あの桃色の花弁が示し合わせたように一斉に咲いて、お母さんとハツネは春の訪れを知るの」
母は窓の外を見る。私もつられて、そちらに視線を向ける。
映るのは吹雪が荒ぶ中で、寂しげに立つ一本の木。
私は春を知らなかった。花も、温かさも、緑の繁茂や小鳥の囀りも。桃色の鮮やかさも、何も知らなかった。
私が知っているのは冬のことだけ。"冬の王"がこの世界を冬に閉じ込めてから二十五年。齢十四の私は春を知らなかった。
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