0人が本棚に入れています
本棚に追加
ある日のことである。
里山は大学からアパートに帰ってくると、一人の初老の男がアパートの敷地を竹ぼうきで掃いているのを見かけた。全体的に茶色の薄汚れた服を着ていて、このおんぼろアパートにはとてもお似合いに思える。
誰だろうかと、顔をうかがってみると、このアパートの大家であることが分かった。契約の時に一度だけ顔を合わせたことがあるのだ。
「こんにちは。」
大家のほうも里山の顔を覚えていたらしく、里山と目が合うと、白髪で真っ白に染まった頭を微かに動かした。
「あ、こんちは。」
まさか声を掛けられるとは思っていなかった里山は慌ててぺこりと頭を下げる。
里山はそのまま自分の部屋に戻ろうと思ったが、立ち止まった。大家が階段の前に立っているため、階段を上ろうとするとぐるりと回り込まなければならないのだ。なんだかそれはためらわれる。すこし横にずれてくれないだろうか。
大家は立ち止まった里山の意図を勘違いしたらしく、世間話を始めた。
「いやあ、小さいうえに古いアパートなもんでね、清掃業者に依頼するような金もないから私が掃除とかの管理をしてるんよ。」
「はあ、お疲れ様です。」
「君は学生さん?」
里山はさっさと部屋に帰りたかったが、始まってしまった会話を途中で終わらせてしまうわけにもいかず、仕方なくも大家との立ち話に興ずることにする。
「あ、はい。駅からちょっと歩いたとこの大学です。」
「へー、あそこの。頭いいんやねぇ。」
「いえ、そんなことは。」
当たり障りのない質問に、無難な受け答え。まったく面白いことのない会話のはずだが、大家はなぜか楽しげであった。普段、話し相手があまりいないのかもしれない。
里山はどこで会話を終えようかとタイミングを見計らっていたが、自分が隣人の雑音によって困らされていることを思い出した。隣人に直接言えないのならば大家に相談するというのがベストな解決策ではないだろうか。
「そういえば、大家さん。実は隣の部屋の人が毎晩うるさくって困ってるんですよ。何とかなりませんかね?」
大家は自分の話を途中で終わらされたことに少し不満げであったが、人に頼られるのが嬉しいのか、意気揚々と答えてくれた。
「それはそれは。私の方から注意しときましょう。君の部屋は何号室だったかな?」
「ありがとうございます。二〇一号室です。隣の部屋というのは二〇二号室のことで……」
里山がそう伝えた瞬間、いままでニコニコと笑みを浮かべていた大家の表情が凍り付いた。信じられないものを聞いた、いや、むしろ聞いてはいけないことを聞いてしまったような顔だ。
手に持っていた竹ぼうきが手から滑り落ち、からんと音を立てるが、大家は完璧に固まってしまって、落とした竹ぼうきを拾おうともしない。
「あの、どうかしました?」
里山が声をかけると、そこで初めて竹ぼうきを落としたことに気づいたように慌てて拾い上げると照れ臭そうに笑った。
「いやあ、ごめんね。何でもないよ。」
しかし、その顔は不自然にぎこちなく、先ほどの凍り付いた表情が抜け切れていない。何かあることはありありと見えた。
里山はその「何か」を問い詰めようとしたとき、大家はそそくさと掃除用具を片付け、その場を去ろうとしていた。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ。」
「いや、ごめんね…、ちょっと用事を思い出したから、私はこれで……。」
「なんなんですか。やっぱり二〇二号室のことで何かあるんですよね?せめてそれを教えてくださいよ。」
大家は、非常に困ったような、おびえたような顔をしてしばらく思案していた。先ほどまでの気のいいおじさんはもうそこにはおらず、今は疎むような眼で里山を見ている。
やがて、大家は渋々といった風に口を開いた。
「……ない……。」
「え?」
大家があまりにぼそぼそと話すものだからほとんど聞き取れなかった。ない?いまさらしらばっくれるつもりだろうか。大家の態度は何かを隠しているに違いないのだ。
しかし、大家が言いたかったのはそういうことではなかったらしく、今度ははっきりと里山の目を見ていった。
「……いないんだよ。今、二〇二号室には誰も入居していない。君の隣の部屋は空き部屋なんだよ。」
いない?いや、そんなはずはない。夜中、あれだけ隣から音が聞こえてきているのに。空き部屋だというのならあの音はいったいなんだというのだ。
里山はそう言おうとしたが、大家はそれを許さず、「それじゃ」と短く別れの言葉を告げると逃げるようにその場から立ち去ってしまった。
大家が立ち去った後、里山は呆然と立ち尽くすことしかできなかった。
「なんなんだよ……。」
隣の部屋は空き部屋?誰も入居していない?確かに昼の間はいつ訪ねてみても留守のようだが、夜になれば毎晩毎晩ぎしぎしと里山を困らせているじゃないか。
隣の部屋に誰もいないというのならあの音は何の音だ?
その夜も、またあの音が聞こえてきた。
ぎし…ぎし…ぎし…ぎし…ぎし…ぎし…ぎし…ぎし…ぎし…ぎし…ぎし…
やはり、その音はだんだんと大きく、激しくなってきているようだ。
なんだかその音は怒気をはらんでいるように感じた。なぜそう感じるのかはわからないが、何かへの怒りを伝えたがっているように思えた。
隣の部屋からの音はだんだんと大きくなり、ついには夜、眠れなくなるほどになっていた。
それからさらに一週間ほどが過ぎた。
大学の講義室に入ると、珍しく天崎が先に席に座っていた。里山が呼びかけ、隣に座ると天崎は里山を心配するように声をかけてきた。
「おい、大丈夫か?顔、やばいぞ?」
そう言って、天崎は自分の目の下をトントンと指さす。
ぎしぎしという隣の部屋からの音で睡眠不足になっている里山の顔には大きなクマができているのだ。
「ああ、大丈夫だ……。」
そう答える里山は今にも頭をもたげて眠りだしてしまいそうだった。
こくこくと船をこぎ始めている里山に天崎は遠慮がちに口を開く。
「お前の家ってさ……、」
「ん?」
すでに夢に入りかけていた里山は天崎の声でぱちりと現実に戻ってくる。
天崎の口ぶりは重く、普段の軽薄さはなりを潜めている。天崎のこんな喋り方を聞くのは何年ぶりだろうか。中学、いや小学校まで遡らないと思い出せないかもしれない。
「あの二階建てのおんぼろアパートだったよな。」
「ああ、そうだけど。どうかしたのか?」
「いや、まあ……」
天崎は気まずそうに顔を背けて頭をかいた。
「やっぱ、何でもない……。」
なんだか今日の天崎は様子がおかしい。いつもならばどんなにデリカシーのないことでもストレートに言ってくるやつなのに。
「なんだよ、気持ち悪いな。はっきり言えよ。」
里山が苛立たし気にそう促す。そうすると、天崎は不承不承というように話し出した。
「……実はさ、お前が隣の部屋の音が気になるっていうからさ、お前のアパートのことについて調べてみたんだよ。」
「ああ、その音のせいで寝不足なんだよ。それでなんかわかったのか?」
「それが、なんていうかさ……」
この期に及んで天崎は言葉を濁している。その天崎の態度に段々とイラつき始めた里山の語気は荒いものとなる。
「さっきからどうしたんだよ。早く言えって。」
その里山の語調を察してか、天崎は、軽く唇をかむと意を決したように続きの言葉を話し始めた。
「自殺があったらしいんだよ。二十年前にそのおんぼろアパートで。」
「え?」
「しかも、首吊り自殺だ。」
一度しゃべりだすと先ほどまでの様子が嘘のように天崎はすらすらと事の詳細を語りだした。
最初のコメントを投稿しよう!