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つい先日まで桜が咲いていたはずなのに、季節はすでに新緑の時期を過ぎ、もはや初夏の匂いまで孕み始めているらしい。
季節に置いてきぼりにされる感覚は、十代の頃から、私の中に静かに根づいている。
暑い、寒い、過ごしやすい。春夏秋冬の移り変わりに対して私が思うことはそのくらいだ。情緒に乏しい自覚はある。
帰宅先は、片思い相手の家だ。彼は私の高校時代の家庭教師であり、木造の古い家に住んでいる。
二年前から、私は彼と――当たり障りのない言い方をするなら〝ルームシェア〟をしている。真相は、職を失って路頭に迷った当時の私が、勝手に彼の住まいに押しかけたというだけなのだが。
「ただいま」
閑静な住宅街の、さらに入り組んだ細道の先に建つその家は、夜遊びに耽った私の気怠い心身を興味なさげに迎え入れる。
かけた声に返事はない。が、あっても怖い。
居間は無人だったから、奥側に続く台所へ向かう。ガラ、と引き戸を開けて台所を覗くと、換気扇の下で煙草を吸っていた彼と目が合った。その視線は関心がなさそうにすぐ逸れ、私はむしろそのことに安堵する。
「……ただいま、先生」
足音を殺しながら歩み寄り、背中から抱きついた。
元々の癖っ毛を寝癖で余計に拗らせた彼の髪の毛先が、弾みで微かに揺れる。柔らかそうだ。実際に柔らかいかどうかは分からない。直に触れたことがないからだ。
返事はやはりなく、唐突な抱擁は受け入れられるでも引き剥がされるでもない。はなから相手にされていないのだ。そのこともまた、私により一層の安堵を連れてくる。
背中に生身の重りをぶら下げた先生は、普段の猫背をさらに丸め、顔色ひとつ変えず煙草の火を消した。ヘビースモーカー気味の先生は、基本的に、気管がさほど強くない私の前で煙草を吸わない。
残った副流煙のにおいに噎せそうになったところを、私は息を詰めて無理やりしのいだ。
余計な気を遣わせるのは本意ではない。私のために煙草をやめる先生なんて、万が一にも見たくなかった。そんなことをされたら、私はきっと先生に幻滅してしまう。
先生は私を抱かない。私を女として相手にすることがない。
だが、人間扱いするのは上手だ。少なくとも、私が満足できる程度には。
当たり前のことを当たり前にしてくれる人は、好きだ。
結局、それこそが、先生が私を虜にしている理由のすべてと言っていい。
「ねぇ先生。私、死ぬまでにあと何回セックスすると思う?」
「……生殖の必要がない行為が好きなんだろう。なら齢は関係ない、飽きるまで好きに回を重ねればいいさ」
「あはは、最高よ先生。私、先生のそういうところが」
「おやすみ」
……挨拶ですらない、単に会話を切り上げるための言葉。こればかりは少し寂しい。
それきり、先生は無言で台所を出ていってしまった。換気扇を止めていかなかったのは、多分、煙草のにおいがまだこの場に残っているからだ。先生は無意味なことを嫌う。無駄なことも。
煙草のにおいを追いかける。限られた空間から徐々に消え失せていくそれを、繋ぎ留めるように深く吸い込む。
噎せると分かっていて嗅ぎたくなるという、自分が陥るこの矛盾を、私は心の底から愛している。愛するべきだとも思っている。
煙草のにおいがついに途切れた頃、私は疲れが蓄積してぐったりと重くなった身体の存在を思い出した。
怠い足を引きずり、自室に向かう。
安堵と寂しさで釣り合っていたはずの天秤が、やがて寂しさの側に傾き始めたなら、そのときこそ私が自室へ戻る頃合いなのだ。
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